私の人生、終わったと思ったのだけれど。
(……私の人生、終わった)
男爵令嬢であるマドレアの顔はまるで断罪を待つ罪人のようだった。
学園内にある最高位貴族のみが使えるラウンジに呼ばれたマドレアは、まるで猫を前にしたネズミのように縮こまっていた。
同じテーブルに座っているのは、第二王子の婚約者であるディアーヌ、現宰相様の令息の婚約者であるクレマリア、現騎士団長様の令息の婚約者であるセレステルだ。
この学園の令嬢の中で最上位の地位を持つ彼女達が、下位……いや、底辺と言っても良いだろう、マドレアを呼びつけるなど、普通はあり得ないのだが。
では、何故こんな事が起きているのか……マドレアは心当たりがあり過ぎた。
目の前にいる御令嬢達の婚約者が、ここ半年ほど何故かマドレアに愛を囁いているのである。
マドレアは学園のある王都から2週間程掛かるド田舎を治める男爵家の娘だ。主な産業は畜産で、男爵家では主に乗馬用の馬を飼育している。
そのため彼女達と違い、日焼けはしているし、髪もパサパサであるし、手は飼育の手伝いもあり荒れている。日焼けを除けば、よくある茶髪で茶目のどこにでも良くいる令嬢だった。
最初は新入生として平穏に過ごしていたマドレアだったが、いつ頃からだろうか……何故か令嬢の婚約者達に追い回される日々が始まった。
最初は友人達も彼らから度々守ってくれていたが、そう何度も庇ってもらうわけにもいかない。
朝も昼も放課後も……空き時間があるたびに現れる彼らを見て、マドレアは段々と恐怖を感じ始めていた。一度お腹が痛いとお手洗いに隠れていた事もあったが、その後の空き時間で色々と高価な施しを与えられた上、長時間拘束されてしまい、精神がボロボロになったため、その後からは毎度関わるようにしている。
両親にも言う事ができず、かと言って、王子贔屓の教師にも言う事ができず……途方に暮れていたマドレアに追い討ちをかけたのがこの茶会だ。茶会のメンバーを見て、何が起こるのかを予知した彼女は、既に病人のように顔が真っ青になっている。
そんなマドレアをよそに、現在三人は楽しそうだ。彼女達は優雅にお茶を飲み、雑談を繰り広げていた。
(お父さん、お母さん……私のせいで……ごめんなさい)
マドレアのせいで、男爵家はお取り潰しになるのだろう。彼女達の権力があれば、マドレアのような男爵家など簡単に潰す事ができるはずだ。
そんな思考が彼女の頭の中でぐるぐると渦巻いていた時、正面に座っていたディアーヌが、マドレアに顔を向けた。
(ああ、私は死刑になるのでしょう……お父さん、お母さん今までありがとうございました……)
そう心の中で謝罪したその時。耳を疑うような言葉が、マドレアに投げかけられた。
「ちなみに、マドレアさんは何方と結婚されたいとお思いですか?」
「……え?」
ディアーヌの言葉を理解しきれなかったマドレアが、思わず声を出してしまったのも無理はない。断罪の言葉を投げられると思っていたのに、全く違う言葉だったため処理しきれていないのだ。
ただでさえ、男爵令嬢の彼女にとって不相応な事が周囲で起きている。そんな中でのディアーヌの言葉だ。マドレアの処理能力は限界を迎えていた。
だが、質問に質問を返した事は問題である事に気づいたマドレアは慌てて謝罪した。
「も、申し訳ございません……!私、なんという失礼を……!」
このまま一家断絶だったらどうしよう、とマドレアは泣きそうになる。彼女の脳裏には、両親や弟、そして仲の良い使用人や飼っている馬達の笑顔が走馬灯のように駆け抜けた。
「どうか、どうか……私はどうなっても良いので、両親と弟だけはお助けください!」
そう言い放った後、改めて彼女達の顔を見れば、三人は困惑しているらしく、首を傾げている。マドレアも首を傾げ、恐る恐る彼女達に話しかける。
「えっと、私が婚約者様達とご一緒しているので、それを咎めようとされたのではありませんか……?」
「ああ、成程。貴女はそう取られていたのですね?そんな事はありませんよ」
代表してディアーヌがそう答えた。マドレアは一家断絶の危機がなんとか去ったらしい事に安堵しつつも、おっかなびっくりで尋ねた。
「では、どうして私を……?」
「私達は貴女の本命が誰かを知りたいのです」
「本命!?本命とは……」
意味としては、優勝の第1候補の事だろうか。確かにマドレアの家には所謂、娯楽用の競走馬というのもいる。だが彼女の家は主に軍馬の飼育がメインなので、競走馬で優勝を取れる馬は今の所いない。
そもそも、御令嬢が競走馬に興味があるのか、という疑問もあるが、念の為にその話を振ってみる事にする。
「あの、私の家で飼育している競走馬は、大会で優勝を取れるほどの力はありませんが……」
おどおどとマドレアはそう伝えた。
最初はマドレアの話が何のことか分からず、眉間に眉を寄せていた彼女達。その顔を見て内心「ひぃぃぃ〜」と悲鳴を上げているマドレア。処刑という言葉が再度横切る。
無言の時間が続いたが、少し経つとディアーヌは、マドレアが勘違いしていることに気がついたらしい。
「違いますわ、マドレアさん。本命馬ではなく、殿下達の中で貴女が好きな人は誰か、と聞いているのですよ」
まさに「……」が似合う空気だった。マドレアは目が点になり、その他の三人は楽しそうに彼女を見ている。
(え?誰を好きかって?本命?誰を?殿下を?いや、ないない、ないないない……)
目の前にいる御令嬢たちすら、マドレアからすれば天上の人たちなのである。ましてや異性である殿下達なぞ、彼女と一生関わりがないものだと思っていたのだ……いや、関わっているが。
(これは、なんて答えるのが正解なの?!ああ、胃が痛い……)
最近常に胃が痛いのは、絶対殿下達のせいだ、声に出しては言えないが、そうマドレアは思った。だが、次のディアーヌの言葉に思わず頭を抱えそうになる。
「マドレアさん、正直に話していただいていいのよ?誰も貴女を怒るつもりはないもの。立場としては、第二夫人という立場になってしまうけれど、そこは許してちょうだいね」
いえ、結構です!と叫びそうになり、思わずマドレアは肩を強張らせた。流石に叫び出すのは、令嬢としてはしたないし、相手にも失礼だ。
だが、息を整えている間に話は進んでいく。
「そうねぇ……もしかしたら、マドレアさんが選べない可能性もあるから、ご存じかも知れませんが各々の婚約者の良い点でもあげておきましょうか。殿下は……そうですね、まずあの整った顔でしょうか?女性であれば、一度は見惚れるでしょう。少々短略的なところはありますが、根が素直なのです」
長所を言われても、マドレアは彼らを選ぶ気はないのだが……話が妙な方向へ進んでいるのを、彼女は止められない。
ただ、確かに彼は側近たちの話をよく聞いていたように思う。王子なのに意外だな、と思った事はあった。
「うーん、ザールの良いところですか……努力家であるところですね。学園入学時から首席継続中ですし、そのための努力は惜しみません。何より殿下を支えたいという想いが素晴らしいと思います」
そういえば、彼が首位を取るといつも殿下が褒めていたが、「将来は殿下のお力になるために」と言っていたことを彼女は思い出した。
「テオドルフは脳筋です!頭で考えず身体が動くタイプですわ。ですが、彼の技術は団長仕込みですから、どんな脅威からも貴女を守ってくれるはずですわ!」
そもそも、男爵令嬢であるマドレアにどんな脅威が訪れるのか……。いや、まだ一家断絶という脅威は消え去っていなかったことを彼女は思い出す。
確かに彼女達の言葉だけ見れば良い人たちであると思う。ただ、全員に共通して言えるのは、「話を聞かない」という点だ。マドレアからすれば、その一点があるだけでマイナスの評価に転じてしまう。
そのため、三人が目を輝かせて彼女を見ていても、マイナス評価である彼らを選ぶことはない。ないのだが……。
「さぁ、どのお方を選ぶのでしょう?本音で教えてくださいませ!」
と目の前にいる令嬢達は、本気で恋愛の話を聞きたがっている少女のようだ。
だが、有難い事に「本音で」と言われている。だからマドレアは、これが現状の打開になるのではないか、という期待を乗せて本音を打ち明けた。
「あの……私は第二夫人になるつもりはありません」
そうキッパリと伝えれば、彼女たちは目を丸くしてマドレアを見つめている。
「それは……つまり誰も選ばないという事でしょうか?」
「仰る通りです。私は誓って、殿下達に恋心を持ったことはありません!」
ここで言わなければ、きっとずっとこのままだ。これでは私の学園生活と婚約に支障が出てしまう可能性がある。
「それに……まだ本決まりではありませんが……私には既に婚約者候補として仲良くさせていただいている方がおりまして……」
そう言ったマドレアは、相手の事を思い出して頬を染める。婚約者候補の彼こそ彼女の理想的男性だった。
そんな彼女の姿を見た三人は、それが本当だと気づいたらしい。
「それは、申し訳ございませんでしたわ。てっきり私たちは貴女が殿下達の誰かと懇意にされていると思ったので……」
ディアーヌが頭を下げたことで、マドレアは頭が真っ白になった。この学園で一番上位の令嬢に頭を下げさせているのだ。生きた心地がしない。
はしたないことではあるが、思わず叫んでしまった。
「ひぃいぃ〜!頭を上げてください!こちらこそ申し訳ございませんでしたっ!休み時間に毎回会っていれば、そう思われるのも仕方が無い事だと思いますのでっ!」
「ありがとうございます……そうよね、殿下達に誘われてしまえば、立場的に貴女から断るのは難しいわよね」
そうなんですぅ、そうなんですぅ……とマドレアは半泣きだ。三人の令嬢は目に涙を浮かべている彼女に憐れみの目を向けていた。もう少し早く気づいていれば、と彼女達も後悔していたのだ。
だがマドレアからすれば、彼女達は救いの女神だ。迫ってくる殿下達も含めた高位貴族の中で、ここまで話を聞いてくれる人は居ない。
殿下達の寵愛など、彼女にとってはむしろストレスだ。
殿下達だけでも胃が痛いのに、マドレアの意志などまるで理解しないで、ディアーヌの為と言いながら彼女を虐げる令嬢達もいる。勉学に必要な物をその都度壊されるので、地味に痛い。
後々話を聞くと、ディアーヌたちと対立している派閥の令嬢の仕業だったらしいが。
この際だからと、マドレアは話し続ける。
「そうなのです。それだけではなく……実は休日に学園外へ出ようとすると、殿下やザール様が何処からか現れて、外出を止められるのです。その後も、時間を変えて外出しようとしても止められまして……いつ出ようと現れるので、少し怖くて……」
「もしかして、見張らせているのかしら……?クレマリアさんはどう思う?」
「……可能性は否定できないかと」
「ひぃっ!!」
好意の欠片もない男性に見張られていると聞いて、マドレアは思わず叫び声を上げてしまう。その後すぐにその事について謝罪したが、逆に三人からは「仕方ないわ」と慰められた。
「流石に付け回すのは問題ね……」
「ザールは……何をやっているのかしら……」
「好きな男性ならまだしも……好意の欠片もない男性ですからね!怖いですよね!」
やっと私の苦労を分かってくれた……そうマドレアは思った。その瞬間に、目に涙が込み上がってきた。今まで抑えつけていた想いが涙と共に湧き上がってきたのだろう。慌てて彼女は涙をハンカチで拭き取る。
その様子を静かに見ていた三人は、空気を変えようと彼女の話に焦点を当てる事にした。勿論、彼女が落ち着いてからだが。
「ちなみに、話からすると頻繁に外出しようとされていますが……何か予定でもあるのですか?」
「はい、実は……王都にある婚約者候補の実家……商会なのですが、そちらで花嫁修業の一環として働かせてもらう事になっておりまして。相手方からは『自由に来てもらって良い』と受け入れていただいているので、二ヶ月ほど前から休日の数時間だけお手伝いに行く予定でした」
「すごいっ!マドレアさんは努力家ですね!」
「そう言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます」
元々、畜産系の仕事しかした事のないマドレアだ。彼の役に立つために、という想いも勿論あるが、商売にも興味があったので、楽しみにしていたのだ。
それが叶わなかった時の落胆は、激しいものだった。
その事を思い出して悲しい顔をしていたマドレアに話しかけたのは、クレマリアだ。
「ちなみに、その商会はエッカルト商店ではありませんか?」
「あら、商売の実績が認められて今年叙爵をされるというあの?」
「はい、仰る通りです。その長男である、アントニーと親しくしております」
彼は数年前に男爵家へと訪れ、ブランド品と呼ばれる牛や豚等の飼育に力を入れてみてはどうかと提案したのだ。現在もその試みは続いており、現在では男爵領の名前を取って「ルズベリー」という名を付けたブランド品として売っている。
元々、ルズベリー領の畜産は品質が高かったのだが、残念な事にそれに気づかず安く買い叩かれていたらしい。畜産業の手腕はあっても、男爵家には商才がなかったらしい。
それをアントニーにより適正に戻してもらったのだ。
「あら?アントニーさんといえば……マドレアさんと同い年ではありません?」
そうなのだ。
ディアーヌの言う通り、彼の父は今年叙爵をされる予定なので、現在平民であってもマドレアが通っている学園に入学することは可能だった。
叙爵をすることによって僅かながら領地が与えられるらしく、領地と商会の経営の二足の草鞋を履く事になるので、婚約者候補であるマドレアも商会運営と領地経営の二つを学ぶ事になったのだ。
アントニーもマドレアとともに学園に入学を予定していたが、新規販路が開拓できそうだと言って、学園入学を一年遅らせている。
そう説明すれば、彼女たちも納得したらしい。彼女たちから「優秀な方ですのね」とお褒めの言葉を貰ったマドレアは、鼻が高かった。
嬉しそうにしているマドレアを見て、何かを思い出したのか手を叩いたディアーヌ。なんだろうか、と首を傾げたマドレアを見て、彼女はマドレアにとってとんでもない事を言い放った。
「ちなみに、マドレアさんはアントニーさんのどんな所がお好きなのでしょう?良ければ、教えていただけないかしら」
「ああ、良いですね。私もお聞きしたいです。ザールに情はありますが、愛はありませんから」
何も言わないが、セレステルも目をキラキラと輝かせてマドレアを見ていた。その圧に勝てるわけもなく、マドレアは求められるままに話をするのだった。
「ああ〜!素敵ですねぇ……!星空の下、肩を寄せ合う二人!どこかの恋愛小説で出てきそうな場面ですね!恋愛小説が好きな私から見れば、マドレアさんが羨ましいですぅ」
「セレステルさんは、彼とそのような事はしないの?」
「ディアーヌ様……彼は脳筋ですから無理ですよ〜!」
今話していたのは、マドレアが学園に入学する直前の話だ。これから頻繁に会えなくなるから、と別れる前日に屋敷から馬で10分ほどの丘の上でアントニーと二人になった時の話である。
「はあ、良いわね……ねぇ、セレステル。私にも恋愛小説を貸してくれないかしら?」
「クレマリア、どうしたの?恋愛ものは読まないんじゃなかったっけ?」
「マドレアさんの話を聞いていたら、良いかなって思って」
洗いざらい話す事になったマドレアの顔は、既に茹で上がったタコのように真っ赤になっている。一方、話を聞いていた三人はそんな彼女を微笑ましく見守っていた。
三人は元々結婚に夢を見ないよう諦めている。政略結婚であることもそうだが、幼い頃からの腐れ縁でもある相手なので、相手に持つ感情は恋ではなく家族の情が近い。
幸せそうに話すマドレアが羨ましいとも思っているが、そんな恋する乙女であるマドレアを浮気相手と疑っていた事に改めて罪悪感を抱いた。
そんな時。
「失礼致します。お嬢様、こちらを」
ディアーヌ付きの侍女が話の途切れた隙を狙って、ディアーヌに封筒を渡す。そして彼女の耳元で、何かを囁く。侍女がすぐに離れると、そのまま扉から出ていった。
「ディアーヌ様、それは?」
「ええ、報告書よ。マドレアさんの話が本当かどうか、その証明は必要でしょう?国王陛下から許可をいただいて、今回の件に関する報告書を影に作成してもらったのよ」
そう聞いて、マドレアは背筋が凍るような思いをする。影の存在がどのようなものかは知らないが、もしその報告書にマドレアが誘惑していた、と書かれていたら……本当に一家断絶である。
彼女としては、全くそのつもりはないのだが、第三者から見るとどうなのかは分からない。
緊張で微動だにしないマドレアを他所に、ディアーヌは報告書に目を通したあと、クレマリアに渡した。クレマリアとセレステルはその報告書を一緒に眺めている。
「マドレアさん、そんなに固くならなくて良いわよ。報告書にも、『ルズベリー男爵令嬢は白』と書かれていたから、貴女の今までの話は事実だと、この報告書で証明できたわ」
「むしろ、男性陣が少々問題ですね。恋は盲目と言いますが……今までの貴族教育が生かされていませんから」
クレマリアがその報告書を見ながら、ため息をつく。何が書いてあるのだろうか……マドレアは恐ろしくて見られない。そんな中、ディアーヌが立ち上がった。
「改めて、私共の婚約者がマドレアさんに、ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。この件は私が持ち帰って、しっかりと対応させていただきますわ」
そう言われた後、マドレアは慌てて立ち上がり頭を下げたのだった。
ディアーヌたちとの茶会から1週間後。
マドレアはディアーヌに再度呼び出され、共にお茶を飲んでいた。以前の茶会では、「一家断絶……」と戦々恐々としていたため、お茶やお菓子の味すら感じていなかった彼女だったが、今回はお茶の味が分かる程度に落ち着いている。
ちなみに今日はクレマリアとセレステルはおらず、ディアーヌと二人っきりだ。
「最近は如何ですか?殿下たちは相変わらずのようですが……」
「はい、以前に比べて大分落ち着いています」
彼女の言う通り殿下たちの突撃は変わっていないが、周囲の反応はガラッと変わった。まず、物を壊されることが無くなったこと。それがマドレアにとって一番有難いことだった。
そして、なんと遠巻きに見ていたクラスメイトが話しかけてくれるようになったのだ。
以前は愚痴を聞いてもらっていた友人一人だけが話してくれる状態だったが、最近は周囲の人の目がなぜか優しい。そして殿下たちに話しかけられていると、こちらを憐れむような顔で見ている人もいる。きっとディアーヌ様のおかげだろう。
「それは良かったわ。それで、対応が遅くなった私からのお詫びなのだけれど……」
「お詫びですか?!いえいえいえ!この件で対応していただいただけで、充分です!」
「ですが……もうお願いしてしまったの」
「お願い?」
ディアーヌは扉に立っている侍女に目配せをすると彼女が心得た、と言わんばかりに扉から出ていった。不思議に思い、そのまま扉を見つめていると、数分もしないうちに扉をノックする音が聞こえた。
ディアーヌが入室を許可すれば、そこに現れたのは先程の侍女と……金髪青目の男性、アントニーだ。
マドレアは目を疑った。販路拡大中の婚約者候補が、なぜ学園にいるのだろうか。
「アントニーさん、私は一旦席を外しますね」
「お気遣い、感謝いたします」
「マドレアさんには私共の婚約者がご迷惑をお掛けしましたから、これくらいどうって事ありませんわ」
そう言って、彼女はマドレアに事情を説明しないまま扉から出ていった。目の前には会いたかったアントニーが。これは夢ではないだろうか、と思ったマドレアは頬をつねる。……夢ではないようだ。
「大丈夫かい?ディアーヌ様から話は聞いたよ。辛い思いをさせてごめんね」
「……アントニー?本当にアントニーなの?」
「そうだよ」
いつものように私は頭を撫でられる。その温もりで、これが現実だと理解した。
「でもっ、販路拡大に動いていたんじゃないの……?」
「あれは1ヶ月前に契約を結ぶことができたよ。最近やっとここに戻ってきたところだったんだ」
「そうなの……また会えて良かった」
「うん、僕もだよ」
胸を撫で下ろすと、今まで張り詰めていた緊張が一気に解けたらしい。涙が次から次へと溢れる。そんな彼女をアントニーは抱きしめ、彼女が落ち着くようにと頭を撫でた。
「マドレア、ごめん。僕が一緒に学園に入学しなかったばっかりに……ディアーヌ様から聞いて、僕らも驚いたよ。まさかマドレアが王太子様たちに迫られていたなんて」
「ごめんなさい……!本当にごめんなさい……!頑張ったんだけど……無理だったの……」
「いや、むしろ候補で留めていた僕の責任だ。マドレアが良ければ、婚約の書類を提出しに行こう」
確かにそうすれば、もっと断りやすくなるが、そんな早急に決めて良いのだろうか、とマドレアは思った。元々婚約していなかったのは、学園に入学する間に状況が変わるかもしれない、とアントニーが慎重姿勢を見せていたからだ。
「でも、状況が変わるかもしれないって……」
「ああ。叙爵をされたとしても、僕らは平民と大差ないから……もしかしたら、マドレアが学園で良い人を見つけるかもしれないと思って、いつでも変更できるようにおいておきたいと思ったんだ」
マドレアがもし貴族令息を好きになったとしても、問題なくそちらへ移れるように、様子を見ていただけだったらしい。学園に入る前に手続きをしてしまえば、その後の手続きも難しいからだ。
「わ、私を見縊らないで!貴方にとっては政略結婚かもしれないけど……私はアントニーが好きだから、この結婚は本当に嬉しいのよ!」
そうマドレアが怒れば、アントニーは一瞬キョトンとしたが、意味を理解すると満面の笑みでマドレアを見た。
「はは、嬉しいな。それじゃあ、今日このまま婚約届を出しに行こう!」
「それは急過ぎないかしら?流石に両親に言わないと……」
「あら、それは問題なくてよ」
「……ディアーヌ様?」
終わったのだろうと思ったのか、侍女に扉を開けてもらい優雅に部屋へ入ってくるディアーヌ。何故彼女がそんな事を言うのかが理解できなかったマドレアは、首を傾げた。
「この件に関しては、私の父……公爵に許可を得た上で、私から事実と謝罪の手紙を男爵家に送らせていただいておりますの」
「え……?」
つまり私が殿下たちに迫られている件を両親は知っているという事だろう。むしろ、公爵令嬢であるディアーヌから手紙が届いた時点で、両親が倒れていないだろうか……そんな心配をマドレアはしていた。
そんな彼女の心を読んだかのように、困惑した顔でディアーヌは話し出す。
「公爵家の使いの者に手紙を持たせたのですが、差出人を見て男爵は気を失われたそうで……」
「やっぱり!……ではなく!申し訳ございません!父は小心者ですから、公爵令嬢であるディアーヌ様から手紙が来た事に驚いたのだと思います!」
「夫人も同じ事を言っていたと聞いておりますわ。対応は夫人がしてくださったとのことです」
やっぱり倒れていたか!と頭を抱えそうになりつつも、父を尻に敷いている母なら問題ないだろうと安堵した。そもそもディアーヌは男爵の失態を咎めるつもりは欠片もないのだろう。ほほほ、と笑っている。
「その際、エッカルト商店の使者もおりましたので、婚約についての話もさせていただきまして、男爵夫妻からは『後は娘の意思のみ』という話をいただきましたの。ですから、本日婚約届を提出しても問題ありませんわ」
「その節は誠にありがとうございました」
「いえいえ、最初にご迷惑をかけたのは私共の婚約者ですから。アントニーさんも、これからよろしくお願いいたしますね」
「……これから?」
アントニーのお礼の後のディアーヌの言葉が気になったマドレア。アントニーが新しく開いた販路とは、もしかして公爵家なのだろうか……いや、以前彼から「公爵家との取引が始まった」という話を聞いたことがあった気がするのだが。
だから隣にいるアントニーに顔を向けて、じっと見つめる。すると、そのことに気づいたアントニーが満面の笑みを見せた。
「ふふっ、お話に聞いていた通り仲睦まじいのですね。アントニーさん、重要なことですから貴方の口から話してあげてくださいな」
「ディアーヌ様、ありがとうございます!……マドレア。新規販路も開拓がある程度落ち着いたから、後は父に任せて明日から学園に通うことになったよ」
「……ええええええ!?」
はしたない声を出したことに気づいたマドレアは、地面に頭がつく勢いで謝罪したのは言うまでもない。
翌日から編入したアントニーとマドレアが婚約者同士である事は、瞬く間に学園内で広まっていった。
そのことに驚いた第二王子たちは、マドレアを休憩中に呼び出すも、本人の話と婚約届、そしてそこに現れた彼らの婚約者であるディアーヌたちに窘められ、その後はマドレアに近づく事はなくなった。
マドレアはその後も何度かディアーヌの茶会に呼ばれ、彼女の惚気話やディアーヌたちの婚約者の愚痴を話すような関係になっていく。最初は愚痴ばかりだったけれど、最後には愚痴半分惚気半分に変わっていったことに気づいたのは、マドレアだけだったが。
そしてマドレアとアントニーは学園の中でも両手の指に入るほどの成績を残して二人で卒業。
その後ディアーヌたちの贔屓もあり取引が盛んになったが、それ以上に堅実な商売をする彼らに心打たれた貴族は多く、口コミもあり彼らの商会を利用するものが増えていく。それだけでなく二人は国外での販路をさらに拡大しながら、エッカルト商店の規模を大きくしていったのだった。
そんな彼女が未だに腑に落ちないことがある。それは――。
「何故しがない男爵家の娘だった私に、殿下たちは構ったのかしら?」
彼女がその答えを知る事は、きっとないだろう。