第8話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
ごとごとと揺れるイルク車に揺られながら眺める空は、今日も青く澄みわたって、ところどころぼかすように漂う薄雲が、景観に変調を加えている。
見渡す限りの視界はどこまでも広く、遠く、久しぶりに街の外に出た俺に、この世界の広大さを改めて知らしめる。
延々と続く白鷲山脈を左手に見ながら街道を進んでいくうち、俺たちが出発したサウラ・カザディルの外壁も、もう見えなくなろうとしている。
荷車の幌から顔を出し、その景色を眺めていた俺は、遠ざかっていく街の外壁を見送ったところで中に引っ込んだ。
「見えなくなっちゃったね」
「だな」
俺と一緒になって覗いていたリーリアは、昂る気持ちを抑えきれない様子で、まだ幌の外に顔を出し続けている。
のどかなものだ。トラブルの気配もない。リーリアも楽しそうにしている。
俺が来るべきじゃ、絶対になかった。
「まったく、アイラさんには騙されたよ」
「もう、リック。だめですよ、そんな言い方をしては」
荷車に積まれた木箱に背を預けるティオに窘められるが、これを騙されたと言わず、なんと言えばいいのだろう。
アイラさんに頼まれた仕事は、端的に言えば買い物だった。イルク車で片道半日ばかりかかる小さな村で、野菜や果物、保存処理をした肉などを、まとめて買い込んでくる、それだけ。
そこまでであれば、少々時間のかかる遠出の買い出し、で済んだのだが。
元々この話は、アイラさんが市場で知り合った女性から持ちかけられたものだった。目的地となる村は、小さいながらも作物豊かな農村で、収穫物を街で売って外貨を得ていたという。ところが今年は、例年にも増して豊作で、売りに出す分や村で消費する分を差し引いても、なお持て余すほどだったという。
そこで女性は、アイラさんに提案した。村まで来てくれれば、作物や食材を安く譲ってあげられる。娘さんと二人、旅行するつもりで来てみないか、と。
「それを、どうして俺に譲っちゃうかな」
経営の資金繰りがまだまだ苦しいアイラさんは、当然それに飛び付いた。リーリアの勉強にもなる。けれど、そこで二人で宿を空けてしまえば、当然俺が一人残ることになる。それを悪いと思ったのか不安に思ったのかはわからないが、アイラさんはこの役目を、俺に振ることにした。
遠出して買い付けをしてきてほしい、とだけ聞いた当初は、それは大変な仕事だと思ったものだが、リーリアも連れて、さらには念のためティオに護衛も頼んでいるとなったところで、俺は待ったをかけた。そこでよくよく聞き出してみれば、先の事情が明らかになったわけである。
「こんなの、もうほとんど旅行じゃないか」
いまだに外を眺めているリーリアを見ながら、ぼやく。親子水入らずで来るべきだったろうに。
「きっと、リックにお休みをあげたかったんですよ。慣れない仕事に、休みなしだったでしょう?」
そりゃあ、休みはないし、体は疲れていたが、会社勤めの頃のような気疲れはほとんどなかった。むしろ、アイラさんの方が、いったいどれだけ休んでいないのか心配になる。
まるで俺に行ってもらうのが悪い、みたいな風に話すものだから、一も二もなく引き受けてしまったが、あれがわざとだとしたら、実はアイラさんはめちゃめちゃ悪女かもしれない。
「そんなに風光明媚なところなんですか? セイロガという村は」
ティオが御者台に座る女性に訪ねる。彼女が、アイラさんに話を持ちかけたペリーヌさんだ。
「身内贔屓になりますが、それはもう。平和な場所で、スウェンデルの高原地帯にありますから見張らしもよくて、特に一面に広がる花畑は一見の価値ありですよ」
そう語る様子は本当に得意気で、彼女が芯からセイロガを自慢に思っているのがありありと伝わってきた。
なおのこと、俺がここにいる事実に申し訳なさが立つ。食材の買い付けが主目的だとしても、アイラさんにとって、いい休暇になったであろうに。
「もう、リック。あなたがそんなに気にしていては、送り出してくれたアイラさんの気持ちも無駄になってしまいますよ」
「それは、まあ……そうだな」
ティオに言われ、確かにと頷く。これはアイラさんの好意なんだ。もうこのイルク車に乗ってしまった以上、大人しく受け入れて、しばしの休息を楽しむのがいいのだろう。
「ねえティオ、リック! わたしカザディルから出るの、はじめて! これって冒険よね?」
ようやく外の景色に満足したのか、リーリアが喜色満面で振り返った。ただの小旅行でも、彼女にかかれば立派な冒険か。
いや、でも、そうだよな。
「冒険も冒険、大冒険だよリーリア先生。というか、俺もはじめてだし、俺にとっても大冒険だ」
「リックもはじめての冒険なのね! いい? ちゃんと先生の言うことををきくのよ?」
「もちろんです、リーリア先生」
そんな、はじめてのおつかいに奮起する俺とリーリアの姿に笑っていたティオだが、ふと真顔になって、佇まいを直した。
「あの、リック」
「ん?」
「昨日のことなのですが」
神妙な面持ちで切り出され、なんとなく俺も、背筋を伸ばした。思えば、リオンやアイラさんと話して、自分の中では決着したような気になっていたが、ティオたちの前からは逃げるように去ってそのままだ。
「すみませんでした。私も少し、はしゃぎ過ぎてましたね」
「謝らないでくれよ、別にティオはなにも悪くない。俺の帰る術を探してくれる、って言ってくれたの、本当に嬉しかったんだ」
冒険者への憧れは確かにある。それは認めざるを得ない。けれど、俺にはそんな、命をかけた世界で戦っていく自信がない。それだけの話なのだ。
「だから、この話はこれで終わりにしよう」
「そう……ですか。わかりました」
どこかまだ納得のいかない、あるいは名残惜しそうに見えるティオだが、ひとまずそれで話は納めてくれた。
俺だってもういい大人だ。どこかで憧れには折り合いをつけていかなくちゃいけない。
それがまたどうしてか、なにかみっともなく言い訳しているだけのような気がして、無性にいたたまれない心地になったとしても、それはきっと、俺の未練がそう感じさせているだけなのだろう。
「じゃあリック! わたし、リックが住んでいたところの話を聞きたいわ!」
少し沈んだ空気を出してしまったところに、リーリアがことさら明るく割り込んできたものだから、俺は思わず安堵の息をついてしまう。こんな小さな子に空気を変えてもらうとは、いや、さすが先生というべきか。
ティオも、それに乗っかってくる。
「いいですね、私も聞きたいです」
「俺の住んでいたところ……といっても、なにを話せばいいか」
「では……リックは、元いた場所では、なにを生業にしていたんでしょう」
またしても俺は頭を捻った。俺の生業……なんて答えるべきだろうか。会社員、といったところで、この世界でそれに類する概念があるかわからないし、どう説明したものかも思い付かない。
第一、自分の生業を、あのなんの面白味も見いだせなかった会社員だと答えるのは、どうにも憚られた。
そうだな、であれば、俺の生業はやっぱり。
「そうだな……物書き、かな」
「物書き! 作家ですか?」
「そんな立派なもんじゃないけど、まあそうかな。物語を考えるのが好きだったから」
作家やら小説家やら、そんな風に名乗るのもおこがましくて、物書きという自称は、向こうにいた頃からよく使っていた。
文章に限らず、俺は自分では為し得ない、そんな物語を考えることそのものが、生業みたいなものだったから。
「それはまた思いもしないところに来ましたね。じゃあ、読み書きもできたんですか?」
「向こうじゃみんなできたよ」
そういえば、こちらでは識字率もさほど高くない。アイラさんが、そしてアイラさんに習ってリーリアもできるものだから、つい忘れそうになるのだが。
ティオがその修学制度について食いつくよりも先に、リーリアが飛びかかるようにして声を上げた。
「すごい! リックはお話を作れるの? なにか面白いお話をして!」
とんでもない無茶ぶりである。いきなりそんなことを言われても、そんなほいほいと聞かせられるお話が出てくるような、そんな優れた創作家でもないのだ。
助けを求めるようにティオを見ると、笑顔で「私も聞きたいです」と裏切られた。こいつめ。
致し方なく俺は、この世界の基準に置き換えても通じそうな物語を語ることにした。ただし、オリジナルではない。
「じゃあこれは、俺が考えたわけじゃないんだけど……遠い昔、遥か彼方の大地でのお話だ」
世界の平和をかけた、帝国と反乱軍、そしてかつて滅んだ騎士団の戦いの物語を繰り広げるうち、イルク車はだんだんと、高原地帯へと上っていくのであった。
◆
午後になり、目的地に到着した荷車を降りると、そこは楽園であった。
周囲を森に囲まれたセイロガは、なるほど聞いていた通りにのどかな集落で、平和を形にしたような場所だとひと目で思わせた。標高が高いからだろうか、青空も一層澄んで見え、遠くの山々もが村を見守っているかのように感じられる。
並ぶ家々は木造で、石造りのカザディルに比べて素朴さを感じさせる。その向こうには、村の居住スペースがすっぽりと二つは収まりそうな、大きな畑が広がっている。赤や緑と色とりどりの野菜に、麦。なにより目を引くのは、色彩鮮やかに咲き乱れる、一面の花畑だ。豊かに実る野菜や麦畑に、様々な種類の花が植えられた花畑と、あわせてこの村を象徴しているかのようだった。
「すごーい! きれい!」
リーリアが感嘆の声をあげる隣で、俺もまた、その風景にすっかり見惚れていた。こりゃなるほど、絶景だ。天候にも恵まれて、雰囲気も絶好にいい。ペリーヌさんが自慢げに話していたのは、まったく身内贔屓の誇張ではなかったようである。
「これは確かに、良いところだな」
「そう、ですね。とてもきれい、だと思います」
一方でティオは、景色に見入るでもなく、きょろきょろと辺りを見回している。もともと、別の土地からやってきてカザディルに居着いているということだし、あるいは冒険者を続けていると、こうした風景や、あるいはもっと綺麗な景色を目にすることもあって、ここはさほど感じ入るほどではないのかもしれない。しれないが、それとティオの様子は別の問題に見えた。なにか落ち着かないでいるように思えるのだ。
だがそれを聞くよりも、ペリーヌさんが先頭に立って歩き出す方が早かった。
「それじゃあ、村の中を案内しますね」
ペリーヌさんに連れられ案内された村の中は、やはり平和そのものだった。間近で見る畑は見目に違わず見事なもので、たわわに実った作物が、収穫のときを今かと待ちわびている。花畑に近づけば、その芳醇な花々の香りが、鼻孔をくすぐって俺たちを楽しませてくれた。村の片隅には大きな風車小屋があり、小屋の中では石臼が麦を粉に挽いているという。家畜の放牧をしているという一角では、山羊に牧草を食べさせたりもさせてもらえた。リーリアが頬まで舐められて、うっかり笑ってしまった俺やティオは大いに怒られた。それから、リーリアも笑っていた。
「東の森には近づかないでくださいね。狩り場になっていますから」
狩人に獲物と間違えられたくなければ、迂闊に入らないように、とのことである。恐ろしい話だ。
その証左のように、森の近くには大きな檻が置かれており、見ればその中にはなんと、大きな熊が一匹、丸まって寝ているようだった。
「あの熊は?」
「ただの熊ですよ」
異世界でも熊は熊らしい。ともかく、あちらには近寄らないようにしよう。
畑やその周りでは、村人たちが農作業に勤しんでいる。みな俺たちを見かけると、口々に「いらっしゃい!」「ようこそセイロガへ!」と声をかけてくれる。村の少女が駆け寄って、リーリアの頭に花冠を乗せてくれた。
「こんにちは、あなたもここが好きになってくれますように」
「わあ、ありがとう! ねえ見てリック! お姫様みたい?」
「本当だ、花冠の姫、リーリア姫! これからは森の奥方様って呼ぼうかな」
「えっ、うーん、それだったら先生の方がいいわ」
村の住民たちは、八割がヒューマ、二割がダスカートといったところで、これはその二種族によって拓かれたという、カザディルの人口比と近い。
そういえば俺はまだ、フェルメルとダスカート以外の種族を見たことがない。いずれお目にかかることがあるのだろうか。もとの世界に帰る前にその機会があればいいのだが。
そうして、村の中を一巡り案内され、最後に訪れたひときわ大きな建物が、村の貯蔵庫である。ここに、村で取れた収穫物が保存してあるのだという。
その前まで案内される頃には、もう日が傾き始め、そろそろ辺りも暗くろうかとしはじめる頃合いだった。
「今日はこのくらいにしましょうか。商談は明日にするとして、今日は私のうちで夕食にしましょう。それから、寝床にも案内しますね」
リーリアはまだ村の中を探検し足りない様子だったが、ティオの説得と空腹には敵わなかったようで、夕食がシチューだと聞くと、喜んで案内に従った。
ペリーヌさんの住まいにお邪魔すると、中からはもう、空きっ腹を大いに鳴らしそうになる、美味しそうな香りが漂ってきていた。
「おかえりなさい。あら、ちゃんとお客さん連れてきたわね」
「ただいま、姉さん。三人なんだけれど、大丈夫?」
「ええ、ええ、四人でも五人でも食べれるくらい作ってるわよ」
俺たちを居間に案内してくれたのは、ペリーヌさんよりもいくらか年を重ねた女性で、会話を聞く限り二人は姉妹のようである。
「お二人で暮らしてるんですか?」
席につきながら、ペリーヌさんに尋ねてみた。ペリーヌさんの姉は、シチューを用意しにまた奥に引っ込んでいる。
「ええ、そうなんです。でも、村全体が家族みたいなものですよ」
なるほど、その印象はなんとなしに感じられた。作業をする大人たちの周りでは、子供たちが遊んだり、あるいは仕事の手伝いをしていたが、家族単位ではなく、村全体で仕事をしているという様子だった。
「けれど、大変ですね。女性一人で街まで作物を卸しに行くなんて」
ティオがそう言うと、ペリーヌさんは笑って首を振った。
「いいえ、これは光栄なことなんです。私は、この村のとても重要な仕事を任せていただいたんですから」
そう語るペリーヌさんの表情は、どこかうっとりとしているようにすら見えた。
そうしているうちに運ばれてきたシチューは、あの風車小屋で挽いた小麦粉で作ったというパンとあわせて、まさに絶品だった。ただ、俺の食べ慣れたものとはどこか味わいが違ったのは、使ってるミルクやバターの違いだろうか。
三人ですっかり平らげ食事が終わると、お茶が運ばれて来る。どうやらハーブティのようなものなのか、カップの中を見ると、琥珀色のお茶の中に、薄青や桃色をした花びらが沈んでいるのが見えた。
「これは?」
「この村で取れた薬草を煎じたお茶です。とても体にいいんですよ」
聞くと、ペリーヌさんのお姉さんがそう答えた。
ふむ。
恐る恐る鼻を近づけて嗅いでみると、お茶の香りに混じって、どことなく薬っぽい香りが漂ってくる。ハーブというべきか、漢方っぽいというべきか悩むところだ。
「ところでリック」
「うん?」
飲んでみようとしたところで、ティオに声をかけられた。
「明日の買い付けですけど、なにをどれくらい買ってくるのかっていうのは、控えてるんですか?」
「え、それならリーリア先生が、アイラさんから一覧を渡されてるけど」
残念ながら俺は貰っていない。なにせまだこっちの字は読めないので、持っていても仕方がないのである。
「持ってるよ……あつっ!」
「リーリア先生!?」
勇んで羊皮紙を出そうとしたのがいけなかったのだろう。リーリアは片手に持って冷めるのを待ってたカップを、落としてしまったのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
慌ててリーリアに寄って、水気を払う。ティオが渡してくれた手拭いで拭いてやると、幸いにもどうやら火傷にはなっていないようだ。
「よかった、なんともないみたいだな」
「う~……こぼしちゃった」
「あらあら、すぐに替えを出しますから」
だが次のお茶を用意してくれようとしたペリーヌさんを、ティオは片手を上げて制した。
「あ、いえ、私たちそろそろお暇させてもらおうかと。リーリアも疲れてしまったみたいなので」
「ティオ? どうしたんだ?」
「わたし、まだ起きてられるよ!」
「ダメですよリーリア、お茶こぼしちゃったでしょう? リックも、はじめての遠出で疲れてますよね?」
そう捲し立てるティオは、どうしてか頑なで、こちらの言葉を聞き入れようとはしていないようだった。
「あ、ああ……そうだな、そろそろ引き上げるか」
「えぇー! リックまで!」
「リーリア先生、今回の仕事、大事なのは明日だろう?」
はやく休まないと、俺はもしかしたら寝坊するかも。なんてこっそりと囁くと、リーリアは呆れたような声を出した。
「もう、しかたないなあ……リックが寝坊しないためだものね!」
「あ、そんな大きな声で言わないでくれよ!」
「しらないわよ!」
そんなでこぼこなやり取りに、部屋の中が笑いに包まれ、今日のところはそれで解散となった。