第6話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
二つの視線が俺に向く。正面と、そして横から。
ティオの問いは、いままで俺が、聞かれないのをいいことに、ずっとなあなあにしてきたことだった。言葉がわからない、というのを言い訳にして。
別に、隠していたかったわけではない。
ただ……。
「えっと、それは」
「私がいままで、ただ善意だけでリックの面倒を見てきたと思いますか?」
思いがけない言葉に、息が詰まる。それがどういう意味なのか、ではなく。
俺は間違いなく、ただティオの善意に依存していたと、突きつけられた。
「ここに置いてもらうよう頼んだのだって、リックに言葉を教えてるのだって、見返りを求めてのことなんですよ」
背中に嫌な汗が広がっていくのを感じる。テーブルの反対から向けられるティオの微笑みが、草原で俺を食い散らかそうとした、あの獣よりも恐ろしく感じられたてならなかった。
ティオは俺に、何を求めているのだろう。この世界で、金も立場もないことが明らかな俺から取っていけるものは、そう多くはないだろう。
それでも、いつも不器用な俺に、笑いながら言葉を教えてくれたティオが、そんな情けのないことを言うとは、信じたくない。
「見返りって、何を……?」
だから聞いた。
「冒険です」
何でもないことのように、ティオは答えた。
「なんて?」
「だから、冒険ですよ、リック。私は、いままで見たことのない、新しいなにかを見たくて冒険者をやってるんです」
なるほど?
「あなたは言葉も通じない、ここらでは当たり前のことも知らない、そんなどこかからやって来た。それも、あんな薄着で、靴もなしに」
「それは、まあ」
「これが、冒険の予感じゃなくて、なんだって言うんです? だからあなたに言葉を教えたんです。あなたがどこから来たのか、教えてもらいたくて。リーリアも聞きたくないですか?」
「聞きたい! リックってば、本当になにもしらないんだもの!」
無邪気な笑顔が二つ、俺に向けられていた。ティオの瞳が、隣のリーリアのそれと全く同じように、爛々と輝いていることに、俺はやっと気が付いた。
一気に力が抜けて、俺は椅子にへたりこんだ。
「リック? どうしたんですか?」
どうしたもこうしたもあるか。
「怖かった」
「え?」
「ティオに何を要求されるのかと思って、肝が冷えた」
「え、え、私そんなつもりじゃなくて、リック! 大丈夫!?」
◆
脱力してへたりこんだ俺は、リーリアとティオに支えてもらいながら身体を起こし、ワインをグラス一杯空にして、もう一杯を注いで一口飲んで、ようやく気力を取り戻した。
「ごめんなさい、まさかそんな風に受け取られるとは思ってなくて」
ばつの悪そうなティオに、気にしないでくれ、と手を振る。
「いや、ティオの善意に甘えてたのは事実だし……それに、俺もどう話したらいいか悩んでたんだ」
「そんなに話しにくいことなんですか?」
そう聞かれ、俺は首を横に振る。話しにくいわけでも、隠しておきたいわけでもない。
「荒唐無稽な話なんだ。話したら、おかしなやつだと思われるんじゃないか、ってさ」
そう、俺が一番恐れていたのは、それだ。
いままで自分が生きてきた世界とは、成り立ちも、言葉も、常識も、何もかもが異なる世界があるだなんて。俺たちの世界でだって、そんな物語は数あれど、その実在を信じている人なんて、きっといない。
違う世界から来た、なんて話をしたら、笑われるのがオチだ。下手をすれば、こっちでは異端として後ろ指を差されるかも、なんて考えたりもした。
それが怖かったのだ。俺を助けて、導いてくれたティオや、居場所を与えれくれたアイラさん、俺の言い間違いや覚え違いを、笑ったり怒ったりしながら教えてくれたリーリアの、俺を見る目が変わってしまうのが。
「思いませんよ。私は、知っていますから」
小さな胸を張りながら、ティオは断言する。
「この世界には、まだまだ私の知らないことが、いくらでも転がってるって」
それに、と。
ティオはいたずらっぽく付け足した。
「私は、リックがどれほど真面目で、ちょっと不器用な生徒か知っていますから」
「そうよ! それに、リックはもともと変だもの!」
リーリアにも太鼓判を押されて、俺は不覚にも、ちょっと泣きそうになった。俺の二人の先生は、俺にとんでもなく優しかった。
「わかった、話すよ。俺がどこから来たのか」
そうして俺は、この世界にやって来た、一ヶ前のあの日のことを思い返す。しかし考えてみると、どこ、はともかく、どうやって、については話せることがなにもない。
「いきなりでなんだけど、俺がどうして、どうやってあの平原にいたのかは、俺もわからないんだ」
「わからない、ですか」
「ああ。薄着で、しかも裸足だったろう? 俺は、自分の部屋で寝ていたはずだったんだ。それが気付いたら、あそこで目を覚ましたんだ」
自分で言いながら、なんめちゃくちゃな話だと、改めて思う。
「それは、誰かに連れてこられた、とか?」
「ありえないとは言えないけど、だとしても、あんなところに放り出していく意味がわからない。それに……」
「それに?」
「どうやって連れてきたのか、わからない」
ティオは、俺の言葉の意味するところを、少し考える素振りを見せてから、汲み取ったようだった。相変わらず頭の回転が速い。
「それは、リックがどこから来たのか 、という話ですか?」
「そういうこと」
さて、難題なのはここからだ。俺がいた世界を、そっくりそのまま説明したところで、たぶんイメージがつかないだろう。科学技術やら、社会制度やら、あれこれ言葉で説明するには、俺の世界はいささか複雑すぎる。
「簡単に言えば、とんでもなく遠いところから来た、ってことになる、と思う」
ひとまず俺は、自分がこれまで、どんな世界で生きていたのか、分かりやすく比較できるところを拾って説明していく。
こことは全く違う言葉を話すこと。
人間は、こちらで言えばヒューマしかいなかったこと。
魔法は存在しなかったこと。
代わりに、遠くと連絡する手段や、高速で移動する手段が発達していて、どこにいても、世界のことがだいたいわかったこと。
一通りの説明を受けて、ティオはそれをこう噛み砕いた。
「つまりそれは……リングアンドの外から来た、ってこと……になりますよ」
「リングアンド?」
「『言葉』によって紡がれた、私たちが今いる"ここ"です」
「『言葉』に紡がれた……?」
「わたし、言えるよ!」
勢いよく手を挙げたリーリアの語るそれは、この世界の創世神話だった。
まずはじめに『言葉』があった。
『言葉』は紡ぎ手を欲し、彼らを編み出した。
紡ぎ手たちは『言葉』の望みに応え、『言葉』を紡いでいった。
アマルニアが空と太陽を紡ぐと、エレインがそこに、夜と月と星を紡いだ。
テトニアが紡いだ精霊たちによって、大地や自然が生まれた。
グロームデインに紡がれたドラゴンや獣たちが、大地を駆け回った。
エイーラが人間たちを紡ぐと、彼らは瞬く間に広がった。
最後に来たりて闇を紡ぐ、ヤーシェダ。
そうして紡がれたる、リングアンド。
「『言葉』と紡ぎ手たちによって紡がれたのが、このリングアンドです。けど、リックの話では、まるでそれとは全く無関係に作られた世界が、どこかにあるみたいじゃないですか」
「だから、どう話せばいいか迷ってたんだ」
これを聞いて、ティオはどう思うだろうか。この世界……リングアンドの宗教について聞いてはいなかったが、創造神にあたる紡ぎ手は、間違いなく信仰の対象だろう。原初にあったのが『言葉』というのは、面白いところではあったが。
ティオの信心深さの度合いくらい、確認しておけば……いや、そもそも信じてもらえるのか?
「そんな、そんなことって……」
考え込むティオの姿に、俺がそろそろ後悔を覚え始めた頃。
「すごい……すごいです、そんな話……リングアンドの外の世界だなんて、想像もしていませんでした!」
ティオは、先程にも増して目を輝かせながら、顔を上げた。
「信じるのか?」
「リックが作り話のために言葉を覚えたなんて思いませんし、あなたのものの知らなさは、違う世界から来たと言われた方が納得できますから」
それはポジティブに受け止めるべきだろうか?
「もっと詳しく聞かせてください! そこではどんな暮らしをしてたんですか? 遠くの人と話す手段っていうのは、どんななんですか?」
「わたしも! わたしも知りたい!」
「待て待て、待ってくれ」
今重要なのは、そこではないのだ。
「ティオ、言ったよな。外の世界なんて想像もしなかった、って」
「はい、でもそれが……あっ」
言いながら、ティオも気付いたようだ。
冒険者で、魔法使いのティオでも想像しなかった概念ということは。
世界を超えて移動する方法なんて、常識的には存在しない、ということだ。
思わずため息がこぼれる。案外、聞いてみたらあっさり見つかるかもしれない、なんて淡い期待もあったが、やはりそう簡単にはいかないらしい。
「真言語を用いるアルカナ使いであれば、また違うかもしれませんが……」
「アルカナ、って?」
「もうひとつの魔法の系統です。残念ながら、私の知り合いにはいません」
まだ、望みは捨てたものではないか。
帰る方法を探る方針をどうにか立てないとな、と考えていると、不意にティオが、真剣な表情で顔を上げた。
「リック。リックは故郷に、元の世界に帰りたい、ですよね?」
「え? そりゃまあ、帰るのを諦めるつもりはないよ」
そう答えると、ティオは大きくひとつ頷いて、小さな胸をとんと叩いた。
「その依頼、私にしてみませんか?」
「依頼って、帰る方法を見つける、って話か?」
「はい、そういうことです」
そう申し出てくれるのは願ってもないことだ。けども。
「けど、俺にはなにも払えるものがない」
そう言ったら、なんだか呆れた感じで笑われた。なんでだ。
「さっき言ったでしょう? 私は、今までにない冒険を求めてるんです。リックの故郷探しは、きっと私の知らない景色を見せてくれる。そんな気がしてならないんです」
だから、それが報酬です。ティオはそう言い切った。
なんと言うべきか。
俺は、思わず笑いが込み上げてくるのが抑えきれなかった。
「な、なんですか?」
「いや、ティオがそんな、冒険バカだとは思ってなかった」
「なんですかその言い方!」
「それもしらなかったの、リック? ティオはとっても冒険好きなのよ!」
「もう、リーリアまで!」
先程にも輪をかけて、すっかり赤くなっているティオを二人で笑う。
それにしても、ティオの気構えは、心底ありがたいと同時に、少し羨ましくすらなるものだった。
「なんかいいな、そういうの」
「リック?」
「少し憧れるよ、夢見る冒険に、全てをなげうって挑めるのって」
思わず口からこぼれてしまう。俺はもう、そんな冒険に、妄想という区切りをつけてしまった人間だったから。
ティオは、不思議そうに首をかしげる。
「リックも、冒険に憧れるんですか」
「そりゃそうだ。冒険や、まだ見ぬ世界へのわくわくは、捨てちゃいない」
でも、俺はそれを、遠くで見る側の人間だったから。
「いっそ、リックも冒険者になりませんか? 私と一緒に、世界の謎に挑みましょう!」
だから、ティオにそう誘われても、そう簡単には頷けない。
「簡単に言うなよ、そんなこと。俺は誰かと戦ったことなんてないし」
「はじめは誰だってそうです。人間、なにごとも挑戦してみないと」
「それはそうかもしれないけど」
「それになにも、戦ってばかりが冒険者じゃありません。今回の私の依頼がいい例じゃないですか」
そんな風に捲し立てられ、俺は答えあぐねいた。別に冒険者になりたくない、なんてわけじゃない。
「それに、冒険の基礎でしたら私が」
「お前だなぁ、最近店でうろうろしてるガキは」
ティオの誘いは、突然割り込んできた闖入者によって遮られた。
「えっと、誰ですか、あんた」
無遠慮に俺の肩を掴んでいるのは、もう中年も過ぎようかという、赤ら顔の男だった。息をする度、どこでそんなに飲んできたのか、というほどにアルコール臭が漂ってくる。見るからに酔っぱらいだ。
「お前みたいなのがうろうろしてるから、アイラが迷惑してるんだよ、まだわかんねえのか」
「はあ?」
「ちょっと、あなた、なんですか?」
ティオが気色ばんだ声を上げ、リーリアのそれはもはや悲鳴に近かった。
「イヤなやつ! いつもお店であばれて、ママがもう来ないでって言ったのに!」
アイラさんが出禁にしたのに、彼女が席を外した隙に、のこのこ入ってきたのか。俺は、掴まれた肩もそのままに、立ち上がって酔っぱらいと睨みあった。
「アイラさんが誰に迷惑してるって?」
「お前だよこの======!」
喚く男の言葉は、ティオたちからは習っていないような汚い言葉で、そもそも早口で半分も聞き取れなかった。
どうしたものか。男は、すでに勝手に逆上して、こちらの言葉なんて聞ける状態じゃないのは明らかだ。まともに取り合える相手ではない。
酔った相手にいちゃもんつけられて、黙っていられるほど人ができてもいない。
第一、これ以上好きに騒がれては、それこそ店に迷惑極まりない。
男の言葉を無視して、手を振り払おうとした俺は。
「いい加減にしとけよ、店の中で騒ぐ……ッ」
気付けば床に尻餅をついていた。
「づっ……!」
殴られた、と気付いたのは、また拳を振りかぶろうとする男を、なにも出来ないままに見上げてからだった。
動けない。次にどうすればいいのか、なにもわからない。ただ男が拳を振り下ろそうとするのを、見ていることしかできない。
また殴られる。
「これ以上お前が……いででで! なにすんだよこの!」
だが結局、男が拳を振り下ろすことはできなかった。
「店の中で暴れるな」
男の後ろから現れたリオンが、その拳を捻り上げていたからだ。
「リオン……」
「無事か」
「あ、ああ」
辛うじて答えると、リオンはただ頷いて、喚き続ける男を捻り上げたまま、店の外に連れ出していく。
男が出ていって、急に辺りが静かになったような、そんな気がした。
殴られた頬に手を当てる。獣に牙を立てられた右足の方がよっぽど痛かったが、頬はひどく熱く感じられた。
無性に泣きたくなったのを、どうにか堪えた。
「大丈夫ですか、リック」
「リック、いたくない?」
傍に屈み込んで心配してくれる二人に、平気だ、と手を振って立ち上がる。膝に力は入る。腰が抜けるほどではなかった。
ただ、どうしようもない現実を、これでもかというほど突きつけられただけだ。
「こんなんじゃ、冒険者なんて無理だよな」
「リック……?」
「悪い、少し外の空気吸ってくる」
異世界に来たって、俺がなんの力もない一般人だってことは、変わりはしないのだ。