第4話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
リーリアにとってティオニアンナは、血の繋がらない、種族も違う姉のような存在だった。
リーリアにとって世界とは、碧いとまり木亭と、その周りにしか存在しないものであった。母親であるアイラが一人で切り盛りするこの宿は、さして繁盛しているとも言い難い。冒険者の店だが、贔屓にしているものは片手が余るほどで、ほとんどは夕食時に、食事だけとりに来る顔馴染みで持っているようなものだった。当然、そんな店に依頼を持ってこようとするものも、来る方が珍しい有り様であった。
夜明け前に竈に火を入れ、数少ない客と自分達の食事を用意し、床を磨き、部屋を整え、買い出しに行き、また食事を用意し、薪を割り……それがアイラの一日で、その一部を任されるのがリーリアの一日であった。まだ火を使う仕事と、薪割りと、買い出しは任されたことがなかった。
夜毎、アイラが頭を悩ませていることは知っていた。リーリアには難しいことはわからなかったが、宿の客が少ないことには気づいていた。
あるいは、料理や買い出しを任されるのと、お店が潰れてしまうのは、どちらが早いだろう。そう考えた日もあった。
そんなときに店を訪れたのが、ティオニアンナだった。
カザディルでは珍しいフェルメルの姿に、リーリアは最初、少し年上の子供が遊びに来たのかと思った。だが彼女は、リンデンから来た冒険者で、宿と仕事を探してやって来たのだという。
アイラはティオニアンナを歓待し、リーリアも興味津々で、ティオニアンナに外の話をせがんだ。
ティオニアンナの語る話は、どれもこれも、リーリアにとって未知の世界だった。遥か東の森にあるという、フェルメルたちの都、リンデンの話。そこから長い長い河を下ってたどり着いた、巨大な滝の話。カザディールに至るまでの道中の話。
それらの話は、今までに聞いたどんな物語よりも、リーリアの心を踊らせた。
それからというもの、宿の実入りは、少しだけ良い方へと傾いた。ティオニアンナは精霊術士であり、いつだって魔法使いは引く手あまただ。彼女の存在を聞き付け、仕事を依頼しに来る人間が増えた。すると、精霊術士の所属する店として、碧いとまり木亭の評判も広まり、仕事を求める冒険者もやってきた。
劇的な変化でこそなかったが、それでもアイラが頭を悩ませる回数が減ったのは、ティオニアンナのおかげだと、リーリアは確信していた。
リーリアは、ティオニアンナが仕事から戻るたび、お話をせがんだ。そんな中でティオニアンナに、なぜ冒険者になったのか尋ねたことがあった。
「私も、まだまだ知らない世界が見たいんです」
ティオニアンナはそう答えた。
自分の知らない世界をたくさん知っている、そんなティオニアンナでさえ知らない世界とは、いったいどこにあるんだろう。
でも、それよりも、ティオニアンナがずっと店にいてくれればいいのに。リーリアは言葉にはせずにそう思い描いていた。
何もかも順調とは言えないが、以前よりは少しよくなった日々を送る、そんなある日。ティオニアンナが見知らぬ男を連れて帰ってきた。
ティオニアンナが護衛の仕事から帰ってきた、ある昼下がり。一緒に入ってきたのは、見慣れない、奇妙な様相の男だった。
慣れない様子で辺りを見回す姿は、この近所では見たことのない薄手の服を着て、なぜだか裸足で戸口を潜ってきた。
なんだか妙で、リーリアは物陰からその様子を伺っていたが、目があって思わず隠れてしまった。
あれはいったい誰だろう。あとでティオニアンナに聞いてみよう。
だが、それは叶わなかった。そしてこのことはリーリアにとって、大事件となった。
せっかくティオニアンナの話を聞けると思ったのに、彼女はその男と部屋に引っ込んだり、その男のことでアイラと話し込んだりと、ちっとも相手をしてもらえなかったのだから。
翌日には、なんとアイラの買い出しに、その男が着いていった。それもティオニアンナまで一緒に! まだ自分に任せてもらったことがない仕事なのに!
リーリアは大いに焦った。こんなことは初めてだった。リーリアの世界には、自分と、アイラと、ティオニアンナがいて、それだけだった。そこに、割り込んできた男が、自分の場所を奪おうとしているような、そんな気がしてならなかったのだ。
結局その日もティオニアンナと話ができなかったとなれば、もうリーリアには我慢がならなかった。
食事の用意をしているアイラに声をかけたのは、その日の夕方だった。
「ねえ、ママ」
「なあに、リーリア?」
「あの男の人、だれ? どうしてずっとティオと一緒にいるの?」
アイラは調理の手を止めて振り返った。
「あら、リーリア、やきもち?」
「ちがうもん!」
「あのね、あの人は昨日、危なく困ってるところを、ティオさんが助けてあげたんだって」
だが、そうと言われても、それで納得がいくわけでもない。
「じゃあ、もう助かってるんだから、ずっと一緒にいなくてもいいのに」
「リーリアったら、そんなにティオさんを取られるのが心配?」
「ちがうったら!」
違うと言っているのに、なぜかおかしそうに笑うアイラに、リーリアは頬を膨らませた。
「ちがう、けど」
急に不安が忍び寄ってきていることに気が付き、声色を落とした。
「もし、ね」
アイラは微笑みを潜めて続きを促す。
「もし、あの人がティオをつれていっちゃったら、またママが困るんじゃないかって」
ティオニアンナは、知らない世界が見たいと、そう言っていたことを、なぜか今思い出していた。
リーリアは、自分からティオニアンナを取られたような気がして、焦っているのだと思っていた。だが、アイラの顔を見ながら話しているうちに、自分だけじゃなく、アイラからも取り上げようとしているのでは、と思えてきたのだ。
もしもこの店から、ティオニアンナがいなくなってしまったら? またいつかのように、毎晩のように辛そうな顔をしていたアイラの姿を見ることになるのだろうか、と。
すると、それを聞いたアイラは、先程とは違った笑みを浮かべていた。
「もう、そんな心配をしていたの?」
「だって……」
「彼は、まだ困ってるの。あの人はね、迷子なんですって」
「迷子? 大人なのに?」
それは、リーリアにはとても奇妙なことに思えた。
「大人だって迷子になるわ。それにあの人は、言葉もわからない、頼れる人もいない、とても遠いところから来てしまったんですって。リーリアならどうする?」
想像もできない話だった。言葉が通じなかったら、どうやって話せばいいのだろう。頼れる人がいなかったら、どうやって助けてもらえばいいのだろう。
「わかんない」
「でしょう? だから、ティオさんだけじゃなくて、私たちも彼を助けてあげるの」
「……ティオにお願いされたの?」
ティオニアンナは優しい。だから、きっと困ってる男を放っておけなかったのだろう。
そう思って聞くと、アイラは困ったような笑みを浮かべた。
「そうね、もちろんティオさんにも頼まれたけれど」
アイラは、細い腕で力こぶを作りながら続けた。
「私とリーリアだけじゃ、やっぱり力仕事は大変だもの。私たちが彼を助けてあげて、彼も私たちを助けてくれる。だから、みんなで助け合うの」
そう言われ、リーリアは考え込んだ。
確かに、薪を割るときのアイラは、いつも大変そうにしているし、買い出しだって、大きな荷物を抱えて帰ってきたのに、また出掛けることだってあった。
どうしてもう一人、力持ちの人がいないんだろう。そう思ったこともあった。
ティオニアンナがいて、店は以前よりも少しよくなった。だから、これからもっとよくなっていくと、無邪気にそう信じていた。
だが、ティオニアンナがいるだけでは、よくならないこともあるのかもしれないと、リーリアは、そんな言葉にならない予感を、心のどこかで抱いていた。
「リーリアにも、あの人を助けてあげてほしいな」
「わたしも? どうやって?」
「そうねえ……じゃあリーリアは、言葉を教えてあげられる?」
言葉を教える。それは、もしかすると、少し面白いかもしれない。
「まずは、リーリアも彼とお話ししてみて?」
「うん……」
◆
朝。
腕といい背中といい、筋肉という筋肉が悲鳴を上げるのを聞きながら、俺は寝ぼけ眼で食堂に下りた。
服は当然、ここに来た日から変わっていない。着の身着のままだ。水と桶と手拭いはもらったので、それで体は拭ったものの、もういい加減に着替えもしたい。あと、髭も剃りたい。
贅沢こそ言えないが、見苦しい格好でうろつく訳にもいかないので、その辺りも相談したいな、などと考えながらティオの姿を探す。
今朝はティオが来なかったし、部屋を訪ねても不在だった。先に食事をしているのかとも思ったが、一階にもその姿はなかった。
どこに行ったのだろうか。
見回すと、カウンターにアイラさんがいる。
「アイラさん、おはーようござえます」
「あら、ふふ、おはようございます」
何やら帳簿をつけていた手を止め、挨拶を返してくれるアイラさん。その微笑みがなんだか気になるのだが、なにか可笑しなことを言っただろうか。
さておき。
「ええっと……ティオ、場所、いる、どれ? どっち?」
まだまだ不馴れなこちらの言葉に、アイラさんは少し考える素振りを見せたが、どうやら伝わったようで、ぽんと手を打った。
「ティオさんが、どこにいるのか、ですね?」
「ああ、はい、そうです」
優しく訂正されて、俺は頭を掻いた。何故だろう、ティオに教えてもらうよりも、なんだか気恥ずかしく感じてしまうのは。
まあしかし、ティオの熱心な指導と、アイラさんがゆっくり話してくれるのもあって、数日にしてはずいぶん聞き取れるようになったものだと思う。
「ティオさんは、お仕事に行きましたよ」
「仕事?」
考えてもみれば、ここは宿だ。ティオは従業員というわけでもないようだし、あくまでここの客の一人なのだろう。それなのに、よく俺をここで働かせる段取りを取り付けられたと思うが。
そういえば、結局ティオの仕事がなんなのかは、まだ聞けていない。どこに働きに出てるのだろうか、とは気になるが、ここでそれを聞き出しても、どうしようもないな。
であれば、俺は俺の仕事をするべきだろう。
「アイラさん、俺、働く……仕事する、どれ?」
そう聞くと、アイラさんは首を振って答えた。
「まずは、ご飯、食べてくださいな」
言われて、俺は自分が空腹だったことに気付き、示し合わせたように胃袋が唸りをあげた。
思わず吹き出したアイラさんに、顔が赤くなるのを照れ笑いで誤魔化しながら、俺はお言葉に甘えることにする。
しかし、今日も昨日と同じ、朝食時に起きてしまったが、アイラさんの朝はどう考えてももっと早い。具体的にどのくらいから準備を始めてるのかわからないが、住み込みで雇ってもらってるのだ、むしろそういう仕事こそ請け負うべきだろう。
朝食をテーブルに運びながら、さて問題は、目覚まし時計もなしに、そんなに早く起きられるかだが、と考え席につく。
今日のメニューは、焼いたポテトと豆のスープ。芋はあるんだな、などと、元の世界と比べたところで、なんら意味のないことを考えていると、向かいの席に座る小柄な人影。
ティオか? と一瞬思ったが、そこにいたのは全くの別人であった。
「……」
椅子に座ってテーブルに身を乗り出し、じっとこちらをねめつけているのは、最初にこの宿に来たときに見かけた、幼い少女だった。
なにやらこちらをにらむような、観察するような視線を無遠慮にぶつけられると、相手が子供とはいえいささか落ち着かない。
これはどうしたことだろうか。
「わたし、リーリア」
先手は少女が打ってきた。リーリア、というのがこの子の名前だろうか。
「あなたは?」
「あ、ああ、俺はリック」
「リック、=====」
なんて? まだ覚えてない言葉だったが、聞き覚えはある気がした。アイラさんも言っていたような。
首をかしげていると、しびれを切らしたのか、リーリアがずいと手を差しのべながら、もう一度繰り返した。
「=====!」
それでようやく、俺も察した。はじめましての挨拶か、これは。
「ど、どうぞごじっこんに?」
たどたどしく返しながら、差し出された小さな手を握り返す。すると、リーリアはその手をぶんぶんと上下に振り、満足げに鼻をひとつ鳴らした。
「リック、===言葉がわからないのね」
どうやら、もう俺の話は聞いているらしい。
「ああ、言葉がわからない。少しだけわかる」
ふうん、と腕を組んだリーリアは、それから辺りをきょろきょろと見回し、ある一点で視線を止めた。
「あれはなに?」
そう指差す先には、煌々と火の灯る暖炉。だがあいにく、まだ暖炉をなんと呼ぶのかは学んでいない。
「あー……わからない」
「あれは、暖炉よ!」
「暖炉」
教わった単語を繰り返す。リーリアはまた、なにか教える言葉を探して、視線を巡らせる。
「これは?」
「わかる、テーブル」
「じゃああれは?」
「わからない」
「瓶よ!」
そんなやり取りに気分をよくしたらしいリーリアは、それから矢継ぎ早に店内のあちこちを指差して、あれは、あれは、と聞いてきた。その中で俺がわからないものを見つけると、その単語を教えてくれる。
目につくものをあらかた教わると、リーリアは、新しいおもちゃを見つけたような、そんなにんまりとした笑みを浮かべる。
「===! リックは====言葉がわからないなんて!」
所々わからない言葉が入るが、どうも面白がられていることは理解できる。まったく、失礼しちゃうぜ。
だが、リーリアはなにも、俺を馬鹿にするためにやって来たわけではなかった。
「来て!」
教わる合間に俺が朝食を食べ終えたのを見るや、リーリアは俺の手を引いて椅子から立ち上がる。そうして、裏庭や炊事場に俺を引き連れていくと、また同じように物の呼び方を教えて回ったのだ。
リーリアの授業は結局、買い出しに行くアイラさんが、俺を呼びに来るまで続いたのだった。
その別れ際、リーリアはこんなことを言った。
「なあ、リーリア、教えてくれてありがとう」
「ちがうわ!」
「?」
「リーリア===よ!」
今度はどういう意味だろうか。
「わたしが教えて、あなたが教わる。だからリーリア===!」
「先生……先生か。ありがとう、リーリア先生」
先生は満足げに笑って頷いた。
こうして俺に、この世界のことを教えてくれる先生ができたのである。この日以来、リーリアは四六時中、宿の手伝いをする俺について回っては、あれこれと俺の知らないことを教えてくれるようになる。
リーリアに教わるのも、ティオに教わっているのと同じではあるのだが、そこは子供らしさというべきか、リーリアはとにかく、自分の知っていることを俺に伝えようとしてくる。こちらの都合もお構い無しなその授業は、ティオのそれとは違って、まるでジェットコースターだ。
けれど、そんなタイプの違う二人のお陰で、単純に教わる機会が増えたことも合わせ、俺の異世界語……この辺りで一般的に使われる、西方語の語学力は、飛躍的に向上していったのであった。