第3話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
薪割り、というのは、台の上に置いた丸太に目掛けて斧を振り下ろすものだと、勝手に思い込んでいたのだが、実際に着手してみて、それが大きな間違いだったというのはすぐに気付いた。あるいは斧の振り方に習熟しているか、よほど怪力の持ち主であれば話は違うかもしれないが、俺のようなど素人では、斧の勢いが薪に負けてしまう。
なのでどうするかと言えば、まずは薪に数回斧を当てて歯を食い込ませ、斧と薪を一緒に振り上げて、台に叩きつける。
これが、俺がここで見出だした薪割り方だった。
正直、楽な仕事ではない。なにせこちとら、デスクワークが主のインドア会社員、趣味だって筋金入りのオタクとなれば、運動らしい運動だって学生時代の授業以来ほとんどしていない。キャンプなんぞついぞ経験していない。今だって、あちこちの筋肉が悲鳴をあげている。
それでも、投げ出すわけにはいかない。これは、あのなんの前触れも、その後の導線もないままの異世界転移で、行くも帰るもわからない俺が、多大な温情と共に与えてもらった仕事なのだから。
「リック! リック!」
会社勤めの頃には考えられないほど、労働というものに真摯に向き合っていると、俺を呼ぶ声と共に、軽い足音が近づいてきた。
振り向くと、少女が一人、にまにまとした表情で後ろ手になにかを隠している。先生だ。どうやらなにかお勉強を持ってきてくれたらしい。
「こんねいちは、先生」
「もう、また変になってる! こんにちは、よ!」
「ああ、ありがとう。どうも発音が難しいな……こんにちは」
「こんにちは!」
俺の訛った挨拶に怒った表情を見せた先生は、またすぐに笑顔になった。ころころとよく表情の変わる子なのだ。
「ねえリック、これはなに?」
先生はずい、と、後ろに隠していたものを俺の前に差し出しながら聞いた。その手のひらに乗っているのは、丸々とした真っ赤な果実。
「それは……トマト!」
「正解! 今日はこれでスープが作れるわ!」
以前教えたことを、きちんと覚えていた生徒に、先生はご満悦だ。
トマトのスープか、これはいい報せだ。今日は安く仕入れられたのだろう。早いところ俺も、力仕事を終わらせてしまうことにしよう。
先生に見守られながら、俺はまた斧を振るい始める。
俺が異世界に飛ばされてから、気付けば一ヶ月。もうそろそろ、この暮らしも日常になりつつあった。
◆
「===、====」
何かを書くような動作、寝る動作、歩く動作、それぞれになにか同じ言葉が続いている。ええと、その意味するところは。
「あ、動詞か? なにかをする、ってことか」
そこで、物を口に運ぶ動作をしながら「食べる、する」と返してみると、ティオは笑顔で頷いてくれる。
「その通りです!」
この世界にやって来たその日の晩、俺とティオが何をしているのかと言えば、言うまでもないことであろうが、この世界の言葉を習っているのであった。
それも、ここに俺を連れてくるなり、ティオが率先して始めてくれたことである。
街に着いた俺が連れられて入ったのは、一軒の宿屋だった。
入ってすぐの一階は食堂になっており、奥では暖炉に火が灯っていた。フロアにはテーブルが三つ、隅にボックス席が二つあるが、まだ陽の高い時間だからか、客の姿は見られない。壁際には二階に続く階段もある。客室はそちらにあるようだ。
壁の一画には、掲示板のようなものもあった。そこには、何やら書かれた羊皮紙が数枚、ピンで貼り付けられていたが、当然ながらその内容はひとつもわからない。
カウンターの向こうには女性が一人、先ほどまで料理でもしていたのであろうか、木の匙を片手に、こちらに顔を覗かせていた。
ティオはカウンターに近寄り、女性となにか話し始める。合間に俺のことを示しながらなので、きっと俺についてなにか説明していたのだろう。
ふと視線を感じ、その出所を探すと、カウンターの端に隠れるように、女の子が一人、警戒するような様子で俺のことを見つめていた。歳は十歳かそこらだろうか。西洋人の顔立ちなので、正直なんとも言えないが。
俺に見つかったと悟ると、少女はカウンターの向こうに引っ込んでしまった。
そうしているうち、ティオの方では話が付いたのか、また俺を連れて歩き出す。今度はどこに行くのかすぐにわかった。階段を上って客室へ。
通された部屋は、ベッドがひとつとローテーブルがあるだけの、簡素な部屋だった。
つまり、それが今いる、この部屋である。
部屋に案内されたあと、ティオは俺に一人の時間をくれた。休んで、というような身ぶりをして、彼女は部屋を離れた。
「これから一体どうなるんだろうな……」
なにもわからない現状をぼやきながら、お言葉に甘えて休息を取ろうと、ベッドに身体を横たえると、俺はどれほども経たない間に眠りに落ちていたのである。
次に目を覚ましたのは、もう陽の落ちかけた時間になってからだ。
部屋の戸をノックされ、俺は自分が寝ていたことに気付いた。寝て起きても、どうやら夢として覚めるようすはなさそうだと、自分を納得させる。ノックに返事をすると、ティオが二人分の食事を手に、部屋に戻ってきた。
木皿の上には、パンと、ローストした肉と豆が乗っていた。
それを美味しくいただき、続いて渡してくれたジョッキの中身を口にしたところで、俺は思いきりむせてティオに背中をさすられた。
「げほっ……ワインかこれ!」
いきなり酒を出されるとは思いもしていなかったので、驚いたのなんの。だが、落ち着いて飲んでみるに、だいぶ薄い。平然と飲んでいるティオを見るに、これがどうやら一般的な飲み物らしいことは察せられた。
そうして食事を終えると、いよいよティオによる異世界語講座が始まったのである。
ティオは最初、また物の呼び方を教えてくれた。それから、徐々に一人称や三人称、動詞に移っていく。そのうちに、俺にも何となくだが、この異世界語の文法が理解できはじめていた。
当然、たかだか数時間の付け焼き刃で、流暢に会話できるほど、十全に習得できたはずもない。それでも、多少こちらの意思を伝えることは出来そうだし、ゆっくりと区切って話してもらえれば、ティオの言葉も少しは理解できそうであった。
「ねえ、リック?」
ティオが、言葉を教えるのとは違う調子で声をかけてきたのは、教わり始めてどれほど過ぎたか、もうすっかり陽も落ちて、角灯に灯りを付けるようになってからだった。
「リックは、====なんですか?」
「えっと、なんだって?」
「あ、ごめん……リックは、ありますか? 場所、行く、場所、戻る」
身ぶり手振りを交えた、分かりやすいように一つ一つ区切ってくれた言葉の言いたいところは、つまりは行き先や、帰る場所があるのか、ということなのだろう。
しばし考えをまとめて、俺は答えた。
「ない、場所、行く。ある、場所、帰る。わからない、道、帰る」
わからない、場所、ここ。そう付け加えて、俺は言葉を切った。
返答をまとめているうちに、改めて自分の現状というものを実感しだしていた。
俺は今、言葉もわからない、常識もわからない、自分の元いた世界と、物理的に繋がっているのかさえわからない、そんな異世界にいる。ティオの親切で、ひとまずの食事と寝床は与えてもらった。だが、それだって、きっとこれきりだ。俺にはティオに返せるものがなにもない。
「ありますか? 人、知ってる」
「ない」
頼れる人なんているはずがない。
俺は、これからどうすればいいんだ? どうやって生きていけばいい? ここがどんな世界かわからない。それでも、こんな状態で野に放されたところで、野垂れ死ぬのが関の山なのは、どれほど頭が回らなくたってわかる。それか、昼間みたいに、獣に襲われて死ぬか、その程度の違いだ。
もしかしたら、さっき食べた食事が、最後の晩餐だったのかもしれない。
異世界に、それもファンタジーな世界に浮かれていた脳が、やっとのことで、現状を冷静に受け止め始めた。
今更のように、恐ろしさが芽生えてきて、俺は背筋を震わせた。これから、右も左もわからずに、早晩餓えるか殺されるしかないというのは、もう死んでいると言われるよりも、ずっと恐ろしかった。
帰りたい。
俺はこのとき、始めてそう思った。
向こうには、友人もいる、両親もいる。楽しみにしていた映画やゲームだってある。会社勤めにはなんの未練もないが、それでも俺の生活基盤は、あの世界にあるのだ。
死にたいほど、人生に絶望してた訳じゃない。ただなにか、もっと面白いことはないかと、そう思っていただけなのに。
剣と魔法の世界は、その世界で生きる術があって、初めて楽しむことができる。
こんな後戻りのできない、一方通行な波瀾万丈を望んだわけではなかったのに。
不意に、肩に手を置かれ、憂鬱に沈んでいた顔を上げる。
優しく微笑むティオの顔が、そこにあった。
「リック、います、人、知ってる」
「え?」
「私、知ってる、リック」
それは、どういう意味だろう。正確な意図を汲み取ることはできない。
だと言うのに、なぜか。
たったその一言だけだというのに。
笑って胸を叩くティオが、こんな小さな身体なのに、どうしようもなく大きく頼もしく見えて、俺は涙腺が緩むのを抑えきれなかった。
大人になってもまだ、こんなに泣けるんだな、というほどに泣いて、俺は泣き疲れてまた眠りに落ちた。それまでの間、ティオはずっと、俺の頭を撫で続けていた。
◆
翌日からの展開は、驚くほど早かった。
朝、夜明け頃に目を覚ますと、同時にノックの音が響いた。戸口から姿を表したのはやはりティオで、その手には、どこから調達してきたのか、一足の靴が握られている。
それを履いて、ティオと共に階下に下りると、どうやら朝食時のようで、昨日は見かけなかった客が数人、テーブルで食事をしている。中には掲示板を眺めている人もいた。
客の中には、まだ俺の知らない種族のものもいる。フェルメルとは反対に、大柄で、赤褐色の肌をした、折れた角を持つ男。見たときは危うく声を出しそうになったが、他の客もティオもなにも言わないので、きっとあれも、この世界では一般的な存在なのだろう。
テーブルについて、ティオが運んできてくれた朝食に舌鼓を打つ。バターを塗ったパンと、目玉焼き。手をあわせて「いただきます」というと、ティオも胸に手を当てて、なにかに感謝か祈りを捧げていた。パンは固いし、目玉焼きもやけに塩コショウが強かったが、それでも美味しく感じられたのは、異世界補正とでも言うべきか。
朝食を済ませると、ティオは俺を連れてカウンターへ向かう。そこには昨日と同じく、ヒューマの女性が一人。年の頃は三十歳前後だろうか、ダークブラウンの髪を後ろでまとめた、おっとりとした面持ちの女性だ。目尻のほくろが印象的である。
ティオが女性に、聞き取れなかったが、恐らくは俺を紹介する。それから、俺にも彼女を紹介してくれた。
「リック、彼女、アイラさん。ここ、持ってる」
はじめましても、よろしくお願いしますも、まだ教わっていなかったので、俺は日本語でそう言ってから頭を下げた。
アイラさんは首を捻ったが、ティオがなにか言うと、微笑んで返してくれた。
「=======」
たぶん、はじめまして、かなにかを。
しかし、アイラさんがここを持ってる、というのは、つまり彼女がこの宿の主人ということだろうか?
そしてティオは、とんでもないことを続けて言った。
「リック、ここで====。えっと、運ぶ、持つ、腕、使う」
「えっと……」
「アイラさん、渡す、場所、寝る、食べる」
「ん? ん?」
俺が運んだり、持ったり、腕……力、か? を使って、アイラさんが寝る場所や食事をくれる……?
「え、つまり====って……働くってことか!?」
「そう!」
俺が理解したと見て、ティオは大きく頷いた。アイラさんも微笑みながら頷いてくれる。
ティオ、いつの間にそんな算段をつけてきていたのか。いやそれよりも、それは願ってもない話だが、本当にいいのだろうか。こんな見ず知らずの人間を、いきなり住み込みで働かせるって?
「私、聞きました。知りました。======」
最後の部分は、まだ知らない言葉だった。あとで分かったが、彼女は俺を助けたい、と言ってくれていたのだった。
返す言葉がない。遠慮の言葉なんて習っていないし、遠慮できるような立場ではない。ただただ俺の中では、申し訳なさとありがたさがない交ぜになって、感謝の言葉が出てくるばかりだった。
「あ、ありがとう、ございます……!」
何度も繰り返した。感謝の言葉を教わっておいてよかったと思いながら。
さて、こうして俺のひとまずの身の振り方が決まったわけであるが、大変なのはむしろここからだった。
まず、仕事を任されようにも、言葉が通じない、土地勘もない、この世界の常識もない、ないない尽くしの俺に、なにかを頼めるはずもない。
そこで最初の仕事は、アイラさんの買い出しに同行することだった。
紹介を受けたその日に、アイラさんと俺と、そして仲介した人間として、ティオが同行して、噴水広場まで赴いた。宿の食事に使うのだろう食料を、アイラさんが選び購入、俺が抱えて運んでいく。ティオはその間、逐一俺に言葉を教えながら付いて回った。
帰って次に教えてもらったのは、薪割りだ。宿の裏手の庭に出て、積まれている薪を、暖炉や竈で使えるように、斧で割っていく。これは結局、この宿で俺が任される仕事の、大部分を担うことになった。
なお、もう荷物持ちと薪割りの時点で、俺の翌日の筋肉痛は確定している。他の従業員の姿は見えなかったのだが、アイラさんはずっとこれを一人でこなしていたのだろうか。
やがて陽が傾き始めると、その日の仕事は終わり、次の予定に移る。つまりは、ティオから言葉を習う時間である。
この日もティオは、前日と同じように熱心に、そしてどこか楽しそうに、俺に言葉を教えてくれた。
ティオは、俺に働いて寝起きする場所を与えてくれた上に、こうして言葉も教え続けてくれるのか。
このときはそう思っていたが、この時は、まだティオが与えてくれたものに、出会いきってはいなかった。
俺がその事に気付いたのは、さらにその翌日であった。