第26話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
夕刻が迫り、家路を急ぐ街の人々の間を掻き分けながら、宿への道をひた走る。石畳に蹴躓きそうになるのをすんでのところで踏みとどまり、その一秒すらもが背中を急かすように、俺は走り続けた。
腕に抱き上げたティオが、襟首に強くしがみついているのを感じる。
もう少し。
その角を曲がれば、もう宿はすぐだ。
人を避け、箱を飛び越え、荷物を潜りながら、ひたすら足を前へ。永遠のような一瞬ののち、道の角を最短で曲がる。
よし、ついた。
目に飛び込んできた宿の扉に飛び付くようにして取っ手を捻り、中へと転がり込んだ。
「あ、やっと戻って……あんたなにやってるのよ」
訝しげな顔をしたジジがこちらをねめつけるが、そんなことを気にしてはいられない。
「ジジ、アケビアは!?」
「は? そこにいるけど」
「あの、お、おかえりなさい……?」
出ていったときと変わった様子のないアケビアが、目を丸くしてこちらを見ている。
よかった、とりあえずは何事もなく無事らしい。
ほっと息をつくが、まだなにもかもが安心というわけではない。俺を狙ったやつが、あるいはその仲間が店に入り込んでいないとも限らない。
「俺たちが出ていってから誰か来たか?」
「来てないわよ。あんたたちが出ていって、戻ってきたのが唯一の出入り」
それならば、ひとまずは安全と考えてもいいだろうか。ほかに店内にいるのは、時間をもて余したような若い冒険者だけ。俺も知っている顔だ。
そして俺はようやく、大きく息を吐いた。
一度気持ちが落ち着くと、思い出したように早鐘を打つ心臓と、上がりに上がった呼吸をぜいぜいと整えるのに必死にならざるを得なかった。
イルク車に轢かれそうになったさっきより、いまの方が上がった心拍数をはっきりと感じられているのだから、人の身体というのは不思議なものだ。
はあはあと荒い息を整えていると、大きく上下する肩を誰かに叩かれた。
ちょっと待ってくれないか。全力で走ってきたものだから、まだ話すのも辛いんだ。
それでも諦めない誰かは、しつこく肩を叩いてくる。
「あ、あの、リック」
消え入りそうな震えた声に顔を上げると、息のかかりそうな距離にある、真っ赤に染まったティオの顔と目があった。
「も、もう下ろしてもらえませんか……?」
「あ、わ、悪い……」
どうりで息も上がるはずだ。俺は抱き上げたままにしていた、ティオの細く肉付きの薄い身体を下ろす。
心構えなく目の前にあった顔と、今更のように感じたティオの体温に、鼓動はさっきまでとは違う調子を打ちはじめている。俺はそれをできるだけ意識しないようにして、よろけながら席に戻った。
「リック、なんでティオをだっこしてたの?」
席にはいつの間にかリーリアも座っていた。どうやらアケビアに相手をしてもらっていたらしい。
「い、いや、なんでもないよ」
「自分で連れてきた客人を人に押し付けて出ていっておいて、なんでもない、はないでしょうが」
俺にグラスを押し付けながら、ジジが言い返す余地のない文句をつけてくる。そりゃそうだ、俺だって逆の立場なら文句を言っている。
俺はグラスの中身を飲み干しながら頭を下げた。
「その、悪かった」
「まったく、アケビアだって迷惑してたわよ」
「あ、で、でも、ジジの話、すごく面白かったから、迷惑なんかじゃない、よ」
どうやら俺たちが出ていってからの数時間で、二人はすっかり打ち解けたらしい。アケビアの口調からも固さがなくなっているようだった。
「アケビアのはなしもおもしろかった!」
そしてリーリアとも。
どうも思っていたのだが、ジジは年下に懐かれる性質なのかもしれない。なにを話していたのかも気になるところだが、それはさておき。
そんな会話を聞きながら、ティオが申し訳なさそうに席に戻る。
「すみません、飛び出していったのは私のせいなので……」
そんなティオに、アケビアがまた不安げな表情を浮かべた。
「あ、あの、それで、セイロガには連れていってもらえますか……?」
俺は答えあぐねた。さっきまでだったら、迷うことなくイエスと答えられていた。
だが、いまは違う。
俺にももう、あのセイロガという村から漂う異質さが感じられてしまう。だが、まだそれをすべて言葉にするには、聞かなければならない話が残っている。
「ティオ」
促すと、ティオは意を固めたようにひとつ頷いた。
「はい、順を追ってすべて話しましょう。よければジジも聞いてもらえますか?」
「当然よ、聞かせてもらわなきゃ収まりがつかないわ」
それからティオは、どんな話が聞けるのかと目を輝かすリーリアに顔を向ける。
「リーリアは……ごめんなさいリーリア、部屋に戻っていてもらってもいいですか?」
「えぇー! わたしも聞きたい!」
まあ、そうなるよな。自分だけ仲間外れにされて黙って引き下がれる子じゃない。
けれど、確かにこの話は、あまりリーリアには聞かせたくない。この子の中であの小旅行は、少し怖い目にもあってしまったが、それでも楽しかった冒険の思い出なのだ。
それをなにか得体の知れないもので上書きはしたくない。
「いいのかリーリア先生? これからするのは、世にも不気味な怖いお話なんだぞ?」
「ぇ……」
リーリアの表情が強張った。
「で、でも、セイロガのお話じゃないの……?」
俺は顔を伏せ、わざとらしくおどろおどろしい声を作って、低く陰鬱な調子で語りをはじめた。
「いや、これはセイロガよりももっと遠く、深く暗い谷の底にある村の話でな……そこでは夜な夜な、人目を憚る恐ろしい儀式が」
「やだやだ、やめて! もう、リックのバカ!」
慌てて耳を塞ぐと、そのままリーリアは大急ぎで自分の部屋へ駆け戻っていった。
またバカ呼ばわりされてしまった。
これでひとまず話を聞かせずには済むが、なにかご機嫌をとってやらないとあとが怖そうだ。
「少し席を変えましょうか」
ティオの提案で、俺たちは店の奥のテーブルに座り直した。一番周りに人がいない席だ。夕食を出しはじめたアイラさんからも距離がある。
改めて四人でテーブルを囲み、俺たちは声を潜めて話しはじめた。
「それじゃあまず、ジジはどこまで聞いていますか?」
「大体は聞いたわ。アケビアがお姉さんを探すためにセイロガって村を目指してて、あんたたちはそこに行ったことがある、でしょ?」
そうです、とティオは頷く。
「けど、そこに案内するって話の段になって、急にあんたたちが村のことを調べ直すって飛び出していった。ティオ、あんたなにを気にしてるの?」
「あ、待ってくれ」
俺は手を挙げて話を止めた。三人の視線が一斉に振り向く。
「ティオから聞く前に、俺にも話を整理させてもらえるか?」
アケビアに顔を向ける。
「リーリアと話してたよな? セイロガのこと、なにか聞いたか?」
「は、はい、すごく綺麗な場所で、食べ物も美味しくて、でも、泊まった夜にドラヴに拐われそうになったって」
「ああ、その通りだ。俺とティオでどうにか助け出して、事なきを得た」
「それ、びっくりしたわよ。あの子にそんなことがあったんて、聞いてなかったもの」
そういえば、セイロガでの事件については特に誰にも話していなかったかもしれない。それが、俺が冒険者をはじめる踏ん切りがついた一件でもあるのだが、いまは置いておく。
それよりも問題は。
「セイロガについては、俺も今日まではそれ以上の認識はなかったんだ、が」
アケビアから話を聞いたことで、それが大きく変わりはじめた。
「アケビアがいくら聞き込んでも、誰もセイロガの場所を知らなかったって言ってたろう? それで俺たちも、改めてセイロガのことを街で聞いてみた」
その結果は、先の通りだ。
「みんな美しい場所だって話すけど、誰も行ったことがない……? なによそれ、意味がわからないわ」
「わ、私が聞いたときもそうでした! すごく評判が いいのに、実際に行ったことある人は誰も見つからなくて」
それだけであれば、まだいい。彼方に夢見る桃源郷のようなものだ。音に聞こえど姿は見えず。
だが、この話にはもうひとつ実像が加わることになる。
「でも村人に誘われて訪ねていく、という人の話は、存在してる」
「それ、その人たちには話を聞けないの?」
ジジの至極もっともな疑問に、しかし俺は首を横に振らざるを得ない。
「誰も見つからない」
「なに、それ」
「だから、これはもう推測に過ぎないんだけど」
村に行った人間は、決まってそのまま姿を消してしまっている。そんな気がしてならないのだ。
俺の出したその結論に、ジジもアケビアも絶句している。
「ちょ、ちょっと待ってください! それは、変、です。だって、リッケルトさんたちは帰ってきてるじゃないですか!」
それは当然の疑問だし、俺自身考えたに決まっている。俺たちが村に行った人間で帰ってきている、その当事者なのだから。
その疑問に答えたのは、ティオだった。
「おそらく、私たちは例外……いえ、予定外だったんです」
今まで見たことのないほど深刻な表情で、ティオは囁くように語りだした。
「セイロガの村人は、街で村の良さを語りながら、村に連れていく人を選別しているのだと思います……例えば行商人や、街に来たばかりの冒険者や、他に家族のいない母子のような、いなくなっても誰も探さない人間を」
そうか。俺たちじゃなかったんだ。俺の中でピースがひとつ、あるべき場所にはまった。
そう、そもそも村に行く予定だったのは、俺たちではなかったのだ。最初に村に誘われていたのは、アイラさんとリーリアの二人だ。市場で知り合った村人に、セイロガへ招待されたのだ。
背筋に冷たいものが走る。もしもアイラさんがそれをそのまま受け、リーリアと二人でセイロガに向かっていたとしたら。果たして、あの二人は無事に帰ってこられていたのだろうか。
だが、ここまではまだ憶測だ。ティオの口ぶりには、それ以上に確信めいたものがある。
ティオには、なにか別の根拠があるはずだ。
「なあ、ティオ。ティオがセイロガを疑っていた理由、他にあるんだよな?」
でなければ、あそこで改めてセイロガについて調べたいなんて、言わなかったはずだ。
「はい……これは、リックやリーリアに余計な不安を抱かせたくなくて、いままで黙っていたんですが」
ティオの口ぶりは、信じたくないものを語るように、どこまでも重い。
「村で食後に出されたお茶、覚えてますか?」
お茶、と言われて一瞬考えたが、思い出した。結局は飲みそびれたのだが、確かに食事のあとでお茶を出されていた。
「あのお茶に入っていた花、あれは幻惑剤に使われるものです」
「幻惑剤?」
「精霊術士が修行のために使う薬です。自らの感覚を解放し、精霊と交信しやすくするために飲むんですが……なんの準備もなく飲んでも、ひどく酩酊したような状態になって、幻覚を見たり、身体に力が入らなくなってしまうんです」
なんだ、それは。それって、ほとんど麻薬みたいなものじゃないか。
ティオがそれとなく止めてくれなかったら……あるいは彼女がいなかったらと思い、俺は生唾を飲み込んだ。
「それだけならまだ、看過はできませんがそういう風習なのかも、と思えたんですが」
まだあるっていうのか。
「もうひとつは、リーリアが攫われたときのことです」
「リーリアが攫われたときって、それはドラヴの仕業だろう?」
「最終的にはそうなりました。でも考えてみてください、ドラヴは単独では大した力を持たない臆病者です。そのドラヴが、単身人間の住処に侵入して、少女に猿轡をかませ手足を縛って連れ去っていく……なにか妙じゃありませんか?」
「あ……」
そう言われれば、そうかもしれない。
「けど、ドラヴはいたし、リーリアを連れて行ったのは事実だ」
「その前に、ドラヴに射られた男性がいましたよね」
「あ、ああ」
「彼を見つけた場所は、どこでした?」
見つけた場所?
そんなの忘れるはずもない。リーリアを連れ去っていった影を追って、無我夢中で飛び込んだ森の中だ。狩場になっているから近づくなと言われた、村の東の、暗い森の……中……。
「彼はあんな夜中に、灯りも持たずに森の中で、いったいなにをしていたんでしょう」
それは。
「待て、待ってくれ、それじゃあティオが言いたいのは」
「はい、リーリアを連れ去った犯人は、ドラヴではありません」
俺の中で、あの村で起きた冒険物語のあらすじが、がらがらと音を立てて崩れていくようだった。
俺たちは、村に現れたドラヴからリーリアを救い出し、忌まわしき敵に怯える人々を守った。そう思っていたのに。
「最初にリーリアを連れていこうとしたのは、おそらくあの男性の方です。けれど運悪く……あるいは私たちにとっては運のいいことに、たまたまドラヴに出くわしてしまった」
そこで男性を弓で射たドラヴは、手土産とばかりに彼が担いでいたリーリアを持ち帰ろうとした。
それがあの夜の出来事のあらましだっていうのか。
「なによ、それ。村ぐるみで人攫いをしてるって、そういうこと?」
「そう考えるのが、一番自然です」
「ま、ま、待ってください!」
アケビアが震える声で、だがはっきりとした声を上げながら、立ち上がった。
「でも、じゃあ、それじゃあ姉さんは……」
だが、それに答えられるものは、この場には誰もいはしなかった。
仮に今までの話が真実だとして、だがその後村を訪れた人間がどうなったのかは、まだ誰にもわからない。その難を逃れ、こうして街に帰ってきた俺たちには見当もつかないし、もしリーリアが攫われたことに気づけていなかったらと、想像するのも恐ろしい。
暗い沈黙がテーブルを支配する。
行きつく先には、明るくない結末しか予想はできない。
それでも、ここで黙っているわけにはいかない。
「セイロガへ行こう」
三人の視線が、俺に向いた。
「言うとは思ったけど、本気?」
ジジが目を吊り上げて俺を睨んだ。耳がそっぽを向いている。
「どう考えてもろくでもない村よ。あんたたちは幸い無事に戻ってこれた。だったらもう関わり合いにならないって手もあるのよ」
「本当に難を逃れてるなら、そうだけどな」
そのセイロガについて聞き込みをしていた俺はついさっき、イルク車の前に突き飛ばされて死にかけたのだ。
それを話すと、ジジもアケビアも息を飲む。
そしてその出来事は、もうひとつの可能性も示してくる。
「村の人間は今も街に来ている。俺もティオもリーリアも、これまでセイロガについての話は外ではしてこなかったからなにもなかった。けれど、もしもリーリアが、どこかで村の話をしてしまったら」
もちろん、さっきの出来事は村となにも関係のない可能性だってある。ただ俺が、どこかで誰かの恨みを買っていたのか、無差別な通り魔だったということだって有り得る。
それでも、このまま放っておけば、村に行ったまま帰ってこない人間は増え続けるのは間違いないだろう。風光明媚で平和な村という言説だけ独り歩きして、誰もその実態を知らないまま、犠牲者は増え続ける。
「だったら、気付いた人間が手を打たないと。だろう?」
三人の顔を見回しながら、俺はそう告げた。
「それに、いなくなった人が村に囚われているだけの可能性もあるんだ」
「あ、は、はい、私、姉さんを探しに行きたいです!」
大粒の涙を浮かべたアケビアの瞳に、確かに頷いてやる。アケビアの姉の捜索も、明確な目標のひとつだ。
ジジは諦めたように首を振った。
「そうよね、あんたは"まともな"冒険者だものね」
「俺たちは、だろ?」
「わかってるわよ、あたしも行くわ。そんな胸糞悪い話聞いて、放っておけるもんですか」
いつもの勝気な笑みがジジの顔に戻った。頼りになる狩人も、これで力を貸してくれる。
俺は最後に、ティオを見つめた。最初に村の異変に気付いていたのは、彼女だ。
「リオンにも話して、全員で向かいましょう。あの村にこちらから近づくなら、人手は多い方がいいです」
「それじゃあ」
「もちろん、行くに決まってるじゃありませんか。あの村でなにが起きているのか、それを確かめましょう」
ティオは、力の籠った目でそう告げた。そして杖を抱きしめるように、固く握っていた。