第23話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
「ティオ、灯りは!?」
「まだ保ちます! でも松明がもう!」
「なしでやるしかない! ジジ、下がって備えろ!」
「わかってるわよ! リオン、交代!」
「ああ」
一足ごとに地面を揺らす騒々しい足音が、着々と広間に向けて近づいてくる。そのたびに、ぱらぱらと天井から土埃が落ちてくる。遺跡の中に、また騒音が響き渡ろうとしている。
やっぱり冒険ってのは、そうなにもかも思った通りにはいかないものらしい。
目を覚ましたのか、それとも最初から起きていたのかはわからないが、ともかくこの遺跡の今の主は俺たちの存在に気付いたらしい。そしてものすごい勢いで、この広間を目指して前進している。
だったら、ここで迎え撃つしかない。
順番を入れ替え、俺とリオンが前に立つ。後ろに下がったジジが矢をつがえ、ティオが懐から玻璃瓶を取り出した。
足音が迫る。もうすぐそこにいる。
「来るぞ!」
暴力が、姿を現した。
奥へと続く通路から現れたのは、まさしく巨人だった。
脚は短く、腕は太く、頭の小さな容貌をして、汚れた灰のような色の皮膚に覆われたその姿は、土と砂を固めてできた、不格好な泥人形のようなみてくれをしている。だが、とにかく巨体だ。上背はゆうにリオンの倍はある。
顔は知力の足りない間の抜けた印象だが、爛々と血走らせた目には、俺たちを叩き潰すことへの執念だけが宿っている。
その右手には、立ち木をそのままへし折ったかのようなこん棒が握られていた。
それが、トロールだった。
広間に飛び込んできたトロールは、一瞬精霊の灯りに怯む。だがジジがそこに矢を射かけると、それを容易く振り払って怒りの咆哮を上げた。
「避けろ!」
リオンの叫び、俺と左右に飛んだのと、トロールが俺たちに向かってこん棒を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。
大地を叩き割るかのような衝撃が、石の広間を震わせる。あんなもの食らったら、終わりだ。
かたい地面を転がって立ち上がり、目の前にある図太い足を力の限り切りつけてやる。皮膚を裂く感触は確かにあった。けれど、とかく分厚い。まったく効いている手ごたえがない!
「うおっ」
虫を払うかのように振るわれた手をすんでで躱し、距離を取る。今のじゃあ蚊に刺された程度だってか。
トロールを挟んで反対側で、リオンが大上段から戦斧を振るう。俺の剣など比べ物にもならない、力の乗った重い一撃だ。だがそれも、傷は与えれど致命傷にはほど遠い。
翻って、トロールの振るうこん棒はとにかく凶悪だ。躱したこん棒が壁や床に当たるたびに、そこにへこみや亀裂が走っている。そんなものをまともに食らおうものなら、内臓が破裂する。
それでも、戦えない相手じゃない。
俺とリオンは、トロールを挟むようにして剣を、斧を叩きつけていく。両側からの攻撃に、煩わし気に振るわれるトロールのこん棒は、強力だが大味だ。両面に気を取られた攻撃は、気を抜かなければ躱すのは難しくない。
だが、とにかく体力が無尽蔵だ。
「じっとしてなさいよ、この!」
ジジが悪態をつきながら放った矢だって、肩や頭に刺さっているというのにちっとも倒れやしない。どんな石頭なんだ。目や喉を狙っても、激しく動き回る小さな的に当てるのは難しい。動きを止めなければ。
全力の一撃を繰り出そうと、トロールがこん棒を振り上げる。
「≪|刃は吹きすさび痛みをもたらす《ギルナエグメドラム》≫!」
精霊の言葉が奔る。空気が唸りを上げる。ティオが風を放った。
渦巻く不可視の刃が、こん棒を振り上げたトロールの手を引き裂いていく。さすがにこれは堪えたらしい、トロールは手をかばい、こん棒を取り落とす。
今だ。
「足を狙え!」
リオンの叫び。すぐさま俺は、先ほど切りつけた場所に、もう一度剣を振るう。傷が広がる。それでもまだ、トロールの分厚い皮膚を貫くには至らない。
だがまだだ。
「おぉっ!」
大柄な影が、そこに斧を振り上げた。リオンだ。俺が切りつけた傷に、寸分違わず斧が打ち込まれた。
うまい。
斧は深々とトロールの足に突き刺さった。
トロールがはじめて、苦悶の声を上げる。思わず俺まで顔をしかめそうになる。なにせ狙ったのは向う脛だ。よほど激痛が走ったのか、トロールは片膝をついた。
「ジジ!」
「言われなくても」
とうにジジは、矢を引き絞り、狙いを定めていた。
右手が放される。ぎりぎりと極限まで引かれた弦が、空気を引き裂きながら矢を飛ばした。
矢は吸い込まれるようにして、トロールの右目へと。
────おおおおぉぉぉぉぉぉ!
その矢は過たず、その右目へと突き立った!
地を、腹の底を震わせるような雄たけびが、トロールの口から迸る。地鳴りが響く。右目を押さえ、トロールはその場にうずくまった。
これで。
「やば」
ジジの声。
終わっていなかった。
トロールが顔を上げる。残された左目が、憎悪に燃えてジジを睨みつけている。
「うわ!」
「ぐお!」
トロールが跳ね起き、俺とリオンを弾き飛ばす。
猛然と狙うのは、ジジだ。まずい、止められない。
「逃げてください、ジジ!」
「嘘でしょ、もう!」
ジジが咄嗟に踵を返し駆けだす。元来た入り口の方へ向かって。それをトロールが脇目も振らずに追いかけていく。
まずいまずいまずい。
追わなければ。ジジひとりではどうにもできない。
重たい足音が遠ざかっていく。
「リオン、追うぞ!」
「わかってる」
剣を握り、立ち上がる。
だが、足が止まった。
見えない。
行く手には闇が広がっている。魔法で照らされている広間の外は、なにひとつ光源のない暗闇だ。夜目の利くジジは平気でも、俺たちはこの中へは飛び込めない。
「リック、これを!」
ティオが光を差し出してきた。その眩さに、思わず目を背ける。それは、精霊の力で光り輝く玻璃瓶だった。
「瓶の中で光らせては長く保ちません! 急ぎましょう!」
頷き、光を握りしめて走り出す。
闇の中を駆け戻っていく。幸い、角をいくつか曲がったが、ここまでは一本道だった。迷う必要はない。出口へと向かって全力で走る。手の中の光で浮かび上がる壁に刻まれた見事なレリーフも、今は一瞥する暇さえ惜しい。
足音が響く。トロールもまだ遺跡の中にいる。あちこちを破壊しながら進んでいる音がする。
足音が響く。俺たちの騒々しい足音に、なお負けずに響くトロールの歩み。
足音が響く。俺たちの。
向こうが止まった。頼むから、どうか逃げ切っていてくれ。
「いたぞ!」
遺跡を飛び出し、開けた洞穴の中に、トロールはこちらに背を向けていた。
その手の中に、握られたジジの姿。
「放しなさいよ、この……!」
トロールは左手に掴み上げたジジに叩きつけようと、右手を振り上げている。
させるか!
全力で走りながら、無我夢中で俺は跳んでいた。
逆さまに握った剣をあらん限りの力で振り上げ、トロールの岩のような背中に突き立てる。剣は深々と、その根元近くまでトロールの背に突き刺さった。
「きゃっ」
トロールが背をのけぞらせ、ジジを手放した。
────おぉぉぉぉおぉ!
もがくトロールに、必死でしがみつく。このまま切り裂いてやりたいが、剣は背に刺さったままびくともしない。
今度は俺が掴まれないように、死に物狂いで身をよじる。
「頭を上げるなよ」
リオンの声が聞こえ、風を切る音がした。
トロールの身体に振動が走り、俺を引き剥がそうともがいていた手が止まる。
そのまま巨体は、前のめりに地面に倒れる。
そしてそれきり、巨人は沈黙した。
もう、動かないだろうか。
恐る恐る身体をを起こした。先ほどまでの大騒ぎが嘘のように、身じろぎもしないその背の上に立ち上がって、その巨体を見下ろす。
トロールは、頭に深々と突き刺さり、頭蓋骨すら真っ二つにしている斧によって、絶命していた。
投げたのか、この両手斧を。なんて膂力と精度だ。俺に当たってたら、と思うが、当てない自信があった、のだと信じたい。
いや、それよりも。
「ジジ、大丈夫か?」
「怪我はありませんか?」
遅れてたどり着いたティオとともに、地面にへたり込んでいるジジに駆け寄る。あれだけ思い切り鷲掴みにされていたのだ、下手をすればどこか折れていてもおかしくない。
「平気……助かったわ」
そこはやはり、さすが獣のようなしなやかな身体を持つミュークスというべきか、幸いにもどこも酷い怪我はしていないようであった。
手を貸して立ち上がらせると、ジジは体についた埃を払い、それからトロールの死体に目をやった。
「とんでもない奴だったわね、まったく。目に矢を受けてまだ生きてるなんて」
本当にそうだ。俺はあの時、間違いなくトロールを仕留めたと思った。だがまさか、そこからこれだけの大立ち回りを演じるとは。
「生命力を見誤っていた」
引き抜いてきてくれた剣を俺に渡しながら、リオンがどこか苦々しい声音で言う。だが仕方ないだろう。誰が予想できるかあんなもの。
「私も驚きました……でも」
私たちは、トロールを倒しました。ティオは感慨深げにそう言った。
そうか、そうだよな。俺たち、今トロールを倒したんだよな。冒険者の登竜門ともいえる怪物を。
「やった……んだよな」
「はい、やりました」
「ちょっとリック、あんた喜びすぎでしょ。こっちは死にかけたんだからね」
「そういうジジこそ、顔にやけてるぞ」
そう指摘してやったら、うるさい、と小突かれた。それを見てティオも笑っている。リオンは、一歩離れて俺たちを見守っていた。
◆
山を下りて狩猟小屋に向かう前に、遺跡の残りを探索してしまおうとなったのは自然な流れだった。
予備の松明に火を灯し、念のためティオの魔法をかけなおして暗い遺構に入りなおす。
大物を打倒したとはいえ、先の見えないダンジョンに変わりはない。俺たちは再び隊列を組んで、慎重に調査を進めていった。
ドラヴと遭遇し、トロールと最初に戦った広間までは、もちろんなにもなかった。その先の通路に進んでも、遺跡の様子はさほど変わることはない。
ひとつ、ひどい有様の部屋があった。動物の遺骸や残骸にまみれ、腐臭の漂うその部屋は、トロールの寝床と思しき場所だった。念のために中を捜索してみようかと考えるよりも、臭いに退散するほうが先だった。
遺跡をさらに奥まで進むと、そこにあったのは、地上への出口だった。山の中を抜けて、狩場のどこかに繋がっていたらしい。人がひとり通れるほどの、狭い出入り口だ。
結局、遺跡の中には新たな敵も、収入になりそうなものも見当たりはしなかった。
「今回は追加の収入、なさそうだな」
「もう、カザムコールが特別だったんですよ。ただ……」
洞穴側の出口へ向かいながら話していると、ティオが訝しむ表情で顎に手を当てた。
「ただ?」
「いえ、なんでもありません」
ティオはそう笑うが、それが取り繕った笑みであることは言うまでもなかった。
「なんだよ、気になるだろう」
「ただの考えすぎですよ」
「言いかけたなら聞かせてくれよ。俺の身の上話より突拍子もないことなんてあるか?」
では……と、だいぶ言い淀んだ末、ティオは口を開いた。
「トロールとドラヴが、一緒にいたのが不思議で」
それは、どういう意味だろうか。
「ドラヴは元来、臆病な連中です。トロールの寝床と分かっていたはずなのに、そこに棲みつくようなことがあるでしょうか」
「でも戦争のとき、トロールはドラヴの軍勢に協力していたんだろう?」
「そうよね、あたしもそう教わったけれど」
横で聞いていたジジも同意する。それなら、別段おかしなことはないのではないだろうか。そう思ったのだが。
「トロールはあの通り、理性的な種族ではありません。灰の戦役当時も、協力というよりドラヴによって奴隷のように扱われていた、という話なんです」
ドラヴが、トロールを奴隷にしていた?
「あいつらにそんな力、あるのか?」
今回出会ったドラヴだって、不意打ちだったとはいえ、脅威というには程遠かった。そんなドラヴが、どうしてトロールを従えられたというのだろう。
「個々には大した力はありませんよ。けれど、当時は夥しい数のドラヴが軍を結成していたと伝えられています」
それが人間たちに牙をむいてきたのが、灰の戦役だったそうだ。ドラヴと、それに従えられた黒狼やトロールといった獣たちが、エイーラの子らと激突した、有史に残る人類最大の危機。
「ですので、トロールとドラヴが今も協力関係にあるかと言えば、別段そんなことはないはずなんです。トロールは自分たち以外、あらゆる種族に敵対的ですから」
だが、連中は同じ遺跡を寝床にしていた。
「もちろん、ずる賢いドラヴがトロールを門番代わりにしていただけなら、それでいいんです。でももし、ドラヴに目的があってトロールに近づいていたとしたら」
「目的って、なによ」
「またトロールを従えようとしていたのだとしたら、ということです」
それはつまり。
「ドラヴがまた軍を結成しようとしている……?」
「はい……いえ、ここ最近、ドラヴやその手勢を見かけることが多かったので、気にしすぎですね」
ティオは笑って誤魔化そうとしている。だが、俺も冒険者の店に勤める人間の端くれだ。ドラヴの活動が活発になって、皆が不安がっていることくらい知っている。
だとしても、そんなことが有り得るのか。この世界でまだ日の浅い俺には、それを判断はできない。
耳にしている話なら、ある。
「でも、ドラヴを率いていた奴は倒されたんだよな?」
「倒されていない」
リオンが低くつぶやいた。
「灰色王は、封印されている」
灰色王。
その名が口に上ったとき、どうしてか、周囲の温度がぐんと下がったように感じられた。