第19話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
周囲を壁に囲まれ、陽射しも遮られて薄暗い路地の行き止まりで膝を抱えて俯いていると、自分がどんどんと小さくなって、やがては消えてしまうのではないかという、リーリアはそんな、暗闇に沈んでいくかのような空想に、心をすっかり取り込まれはじめていた。
帰り道を見失ってから、もうどれほどの時間が経っただろう。道もわからず、頼れる人もなく、両手で抱えるのは大きくて重たい剣。リッケルトはあんなに軽々と持ち歩いていたというのに。
持ち歩くのも一苦労だった剣を壁に預け、少し休もうと腰を下ろしてから、しかし一向に立ち上がろうという気力は湧いてこなかった。
どうしてこうなってしまったのだろう。
アイラの目を盗んでこっそりと宿を抜け出し、話に聞いていた通りに山に向かって坂を上り、薄暗くて少し不気味に感じられた穴を抜けて、はじめてくる街へやってきた。なにも恐ろしいことなどなかった。ただそうしたかった。坂を下りてゲオルグを見つけたところまでは、すべて順調だった。
大きな剣は重たかったが、目的のものを手に入れて、リーリアは意気揚々と宿に戻る。そのはずだったのに。
思っていた以上に持ち運ぶのに苦労する剣を何度も抱え直しながら、どちらから来たのだっけと考えながら角を曲がったときにはもう、自分がどちらから来たのか、少しもわからなくなってしまっていた。
はじめて来るノウラ・カザディルは、いや、カザディルという街は、まだ小さなリーリアには、あまりにも大きすぎた。
手にした剣を置いていってしまおうかと、そんな考えも何度となく脳裏を過ったが、それだけは受け入れなかった。そんなつもりはない。ただ、ベッドの下にでも隠しておくだけのつもりだった。それに、この剣は絶対に手放してはいけないという、説明のできない予感もあったのだ。
だからリーリアは、もう自分ではどうすることも出来ずに、ただ路地の行き止まりで、膝を抱えていることしかできなかったのだった。
どうすればよかったのだろうか。ただ、宿で大人しく待っていればよかったのだろうか。だがリーリアには、なにもせず、ただ時間が過ぎていくのを待っているだなんて、そんなことはできなかった。
そう、ただ膝を抱えているだけだなんて、絶対に嫌だった。
リーリアは顔を上げた。涙は流れていなかった。
ここでこうしていても、きっと家には帰れない。大好きな母親にも、冒険を教えてくれる姉にも、不思議な生徒にももう会えない。
それをよしとするほど、リーリアは弱々しくなどしていられない。宿を飛び出してきたその時と同じ気持ちが、またリーリアに湧き出しはじめていた。
地面に手をついて、膝に力を入れる。少し震えたが、立ち上がれた。
大きな剣を、やっとの思いで抱え上げる。
視界の端でなにかが瞬いたのは、そのときだった。
「……?」
なんだろう、と目を向けると、それは小さな光だった。小指の先ほどの小さな光の粒がひとつ、リーリアの鼻先をくすぐるように舞っていた。
思わず手を伸ばすと、光はそれを避けるように、すい、と遠ざかってしまう。だがどれほども進まず、その場でちらちらと瞬いた。
リーリアが一歩踏み出すと、光はほんの少し遠ざかる。もう一歩、もう少し。
誘われている?
リーリアはそう直感した。
光のあとを追って歩き出す。不思議と、休む前よりも足に力が入る気がしていた。
路地を出て、光の案内に従って角を曲がる。
大きな影が、リーリアの体に覆い被さった。
「リーリア!」
「リック……?」
気付けばリーリアは、リッケルトにきつく抱き締められていた。
◆
いた。見つけた。
駆け抜けていた路地の先、不意に横合いから出てきて、危うくぶつかりそうになった小さな影。
反射的に俺は、その身体を腕の中に抱き締めていた。間違ってももう見失わないようにと。
「リーリア……! よかったやっと見つけた……どこも怪我してないよな? 痛むところは?」
「んん……くるしいよ、リック」
腕の中で身じろぎするリーリアを放し、改めてその姿を上から下までよく観察する。怪我はしていない。どこも擦りむいたりもしていない。
そして俺の剣を抱えている。間違いなくリーリアだ。
その大きな瞳が、じわりと潤んだ。
「ああもう、怖かったよな。もう大丈夫だからな」
もう一度、今度は苦しくないようにと気を付けて抱き締める。
リーリアはその小さな腕で、俺にしがみついた。
「う、うぅ……ふ、うう……!」
押し殺した嗚咽が聞こえてくる。俺は、もう大丈夫だからな、と何度も繰り返しながら、その背中をさすり続けた。
「リック! 見つかりましたか!?」
「よかった、いたのね」
ティオとジジも駆け付けてくれた。
「ああ、この通り、無事だったよ」
ティオがほっと胸を撫で下ろし、ジジも安堵の笑みを浮かべている。それで俺も、ようやく安心できた気がした。
それからリーリアが泣き止むまで待って、俺は抱き締めていた腕を緩めた。目を赤くしたリーリアが顔を上げる。
それと同時に、俺の中に疑問が湧いてくる。どうしてこんなことをしたんだ、と。言葉を荒げないようにと努めながら、俺はリーリアの目を見ながら聞いた。
「リーリア、なにがあったんだ? なんでひとりで剣を受け取りに行ったりしたんだ?」
「あ、う……」
だが、リーリアは目を逸らして俯いてしまう。
「あのね、あんたみたいなのがそうやって迫ったら怯えるに決まってるでしょう」
後ろからジジに肩を捕まれて引き剥がされた。怯えさせるつもりなんてなかったが、そう言われると引き下がらざるをえない。
入れ替わるようにして、ティオがリーリアの横に並ぶように膝をついた。それに倣って、俺とジジも膝を曲げる。
「リーリア、私たちは誰も怒ったりしていません。ただ知りたいだけなんです。リーリアがなにを思って、ひとりでおでかけしたのか」
それでもリーリアは顔を俯かせていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……だって」
「はい」
「だって……だって、どこにも行かないでほしかったんだもの!」
リーリアは、また目に涙を浮かべながらそう叫んだ。
「ティオは言っていたもの、いままで見たことのないものが見たいって。それにリックも、どこかわからないくらい遠くから来たって」
嗚咽の混じったかすれた声は、リーリアの思い詰めた、他にどうすることもできなくなってしまったその内心を表しているように聞こえてならなかった。
「それに、リックも冒険者になってしまって、もう本当に、二人がどこか遠くに冒険に出てしまって、帰ってこないんじゃないかって……」
小さなリーリアには、それを止める方法が他に思い付かなくて。
「それで、剣を隠してしまえば、私たちが冒険に出られないんじゃないか……って思ったんですか?」
「ごめんなさい……」
弱々しく頷くと、リーリアはまたわんわんと泣きはじめてしまう。
俺は、すっかり参ってしまっていた。
まさか俺が冒険者になったことで、リーリアがそんなに思い詰めているだなんて、想像もしていなかった。
「セイロガから帰ってから元気がない、って思ってはいたけど……俺が原因だったのか」
「きっとあたしが来たのもその一因よね」
そうぼやくと、ジジはリーリアの頭にそっと手を置いた。
「ねえ、あたしも、リックやティオを連れていくんじゃないかって思ったの?」
リーリアは泣きながら、ひとつ頷いた。ジジがリーリアに嫌われてるんじゃないかと思った謎が、これで解けた。
「まさか嫉妬されてたなんてね、この女泣かせ」
そういう話じゃないだろうと、からかうようなジジの視線に抗議する。それに、それだと俺も嫉妬されていた側みたいなものだ。
それはともかくとして。
どこか遠くへ、か。
いつかの話、俺がもとの世界に戻れるときが来たならば、きっとそれはこの世界に別れを告げるときなのだろう。
だからその日には、俺は確かに、遠くへ行ってもう戻らないかもしれない。
けれど、それは今日ではない。
「なあ、リーリア」
「ひっ……く、う……」
「聞いてくれるか? 俺にとって冒険っていうのは、ゆきてかえりし物語なんだ」
「……ゆきてかえりし……?」
それは、数ある物語の類型のひとつであり、そしてあの西堺の赤表紙本の第一篇の表題であり、俺にとっての冒険の原型でもあった。
ある物語の主人公にとって、冒険の終わりとはどこであろうか。強大な敵を打ち破ったそのときか、大いなる謎を解き明かしたそのときか、あるいは探し求めていたものを手に入れたときか。
けれどそれは、どれもまだ冒険の途中なのだ。
冒険に終わりがあるとするならば、それは帰るべき家に帰ってきたそのときか、あるいは二度と帰ることのなくなった、そのときなのだと思っている。
ゆきてかえりし物語か、かえらざりし物語、冒険の結末はそのどちらかだ。
それを選べるというのなら、俺はゆきてかえりし物語を選びたい。
だってそうだろう。
家に帰って、自分の冒険の記録を残さなければ、誰がその物語を語り継いでいけるというのだろう。
「確かに故郷はあるよ。けれど、この世界に俺の帰る場所が、碧いとまり木亭以外のどこにあるっていうんだ」
リーリアから剣を受け取り、その小さな身体を背中におぶった。
陽も傾きはじめている。もう家に帰る時間だ。
「……冒険に行っても帰ってくる?」
肩口に垂れるリーリアの髪が、俺の頬をくすぐる。
「そうじゃなきゃ、どうやってリーリアに俺の冒険物語を聞かせればいいんだ?」
「私も、まだまだリーリアに話したいことがたくさんありますよ」
「それじゃ、ついでにあたしの話も聞いてもらおうかしら」
リーリアを連れて、四人で来た道を戻っていく。途中でゲオルグさんに挨拶をして、坂道を上っていく。暗い抜け穴を通って、サウラ・カザディルへと向かう。
その途中で、ティオがこんなことを言い出した。
「私は、リーリアにも冒険者の素質がある、そんな気がしますね」
「わたしに?」
「はい。成し遂げたいことがあったとき、いてもたってもいられずに行動に移してしまう。それも、冒険者の素質です」
「そうだなあ。それにリーリアは、ひとりでこの暗い抜け穴を通って、はじめての街で俺の剣を見つけ出したんだ。素質どころか、もう立派な冒険者じゃないか?」
「わたしが、冒険者……」
まあ、外に冒険に行くにはまだ小さすぎるけどな。そう言ったら背中をぽこぽこと殴られた。
「ちいさくないもん! リックのばか!」
「まったく、女心がわからないやつはこれだから」
いたいいたい。隣でティオの笑う声が聞こえた。
光が差している。抜け穴の出口だ。
陽光の眩しさに目が眩んだ。手でひさしを作りながら、そろそろと目を開ける。
「おぉ……」
「わぁ……!」
「へぇ……」
「ふふ、今回の冒険の報酬はこれですね」
目に移るすべてが、鮮やかな赤と橙に輝いていた。
もう夕刻だ。西から差す夕焼けが、カザディルの石造りの町を赤く染め上げている。外壁の向こうに広がる平野も、南の丘陵地帯も、西のスウェンドルの高原地帯も、まだ訪れたことのない土地も、なにもかもが緋色に輝いている。
東の空に目をやれば、天頂から徐々に色を変え、地平線はもう濃紺に染まっている。夕と夜の狭間にある空には、エイーラの子らの遠い親戚たちが、ちらちらと瞬きはじめている。アマルニアが、エレインにその空を明け渡そうとしていた。
サウラ・カザディルの一番高いところにあるディオムの抜け穴からは、それが一望できた。もうそろそろ住み慣れたと思い始めていたサウラ・カザディルの、まだ見たことのない景色だった。
「帰ってアイラさんに、リーリアのゆきてかえりし物語を聞かせないとな」
「うん!」
これが、この小さな冒険者リーリアの、最初の冒険物語だった。