第1話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
いつものことであるが、物語を書き出すにあたって、果たしてどこから始めたものか、というのは大いに悩むところだった。
この世界、つまりはリングアンドの成り立ちや有り様を子細に書き連ねることも考えたが、今時そんな始め方で喜ぶ物好きも少なかろう。
で、あれば、問題はいつから始めるか、ということだ。
度重なる冒険の果てに、俺がこのリングアンドでの役割についてようやく理解したところからか。
この世界での出来事を残すために、机に向かって筆を執ることを決めたところからか。
そうでなければ、元居た世界でなんら面白みのない会社員をしていた頃のことからか。
だけどやはり、物語は順番に綴っていくべきであろう。となると、始まりはあの時をおいて他にはない。つまり、俺がこの世界にやってきたその日のことからだ。
申し遅れたが、この物語は、20代の半ばにして異世界に転移してきてしまった、俺……早瀬田陸人と、その仲間たちの冒険譚である。読んでいるのが、日本人であることを切に願っている。
◆
最初の記憶にあるのは、夢だ。
原初の意味をなさない羅列の空間。空間という概念もない。表現することもできない虚空。そこからすべては始まる。
まず初めに空できて、そこに太陽と月と星が産まれる。火と水と土と風と雷と光と闇と、あらゆるものが混然として、やがて世界を形作っていく。
海や大地が出来上がると、そこに命あるものが現れ始めて、営みを始める。穏やかな時間が過ぎていく、平和で起伏のない世界。歴史というものが始まるほんの少し前。
永い永い年月をかけた世界の序章の光景を、その時間通りか、それとも早回しでか、ぼんやりとした意識の中で見続けるような、そんな夢。
次第に、自分の形がはっきりとしてきて、徐々に地面に近づいていく。連なりあう山脈の間、青々とした草原の広がる裾野が原。石造りの街が遠目に見える、そんな一点に向けて。
時間の感覚が混濁する。意識が曖昧になる。夢が終わる。
ゆっくりと眠りが訪れる。
目を覚まして、どうやら自分が夢の続きにいるようだと理解するのに、まあまあ時間がかかったのは仕方のないことだと思う。
「……え、おい、どこだここ」
高く天頂に太陽の輝く空は、抜けるように青く晴れ渡り、周りは見渡す限りの草っぱら。彼方には脈々と続く山並みが見え、その終端から先には……俺は、地平線というやつをこの時始めて見た。背後は小高い丘になっていて見通せないが、きっと似たような風景が続いているのだろう。
見知った光景では断じてない。住んでいた東京のどこからだって、あるいは本州じゃあどこにいたって見られそうにない景色だ。北海道ならわからないが、それにしても。
そもそも、俺は自分の家で寝ていたはずじゃあなかっただろうか。平日の夜に、つまらない仕事からようやく解放されて、酒も飲まずにベッドに潜り込んでいた、はず。
それがどうして、目を開いたら、こんな大自然の真っただ中に放り出されているというのだろう。
何もかも理解が追い付かない。
ただ何となく、この場所にゆっくり降りてくるような、そんな夢を見たような気は、していた。していたが、現実にその場所で目を覚ますというのは、いくら何でも唐突が過ぎる。
まず頭に浮かんだのは、拉致とか誘拐とかそんな単語だったが、それにしたって合理性がない。どこかの監禁場所で気が付くならともかく、なんだってこんなところに置いて行かれるのか。
ならもうこれは、夢の続きだろう。単に俺は、目を覚ましたと勘違いしたまま明晰夢を見ているのだろう。
そうと片付けるには、いささか何もかもが物理的過ぎる。先ほどまで寝転んでいて、今は座り込んでいる草原の感触がちくちくとむず痒いし、時折ひょうと吹くそよ風にわずかに肌寒さを覚える。
だとしたら、果たしてこの状況はいったいなんだ。
一つ、心底肝の冷える考えが湧いてくる。
もしかして自分が気づいていないだけで、俺はもう本当は死んでいるのではないだろうか。それは、あまり受け入れたくない考えだった。
脳卒中か、心筋梗塞か。原因はともかく、安アパートで独り暮らしを満喫していた俺だ、もしそうだったとしたら、それはもう揺るぎのない孤独死ということになる。連絡がつかなくなって、両親か友人が様子を見に来てくれるか、意外と一番早くに来るのは無断欠勤になる会社からの誰かかもしれないが、その誰かが見つけてくれるまで、俺はあの狭い部屋に独り横たわっているということだ。
それだけは、是が非でもごめんこうむりたい最期だ。
一瞬背筋に震えが走ったが、それが逆にその考えを打ち払ってくれた。なんというべきか、死んでるというには、生きてい過ぎる、そう感じたからだ。
頭上から降り注ぐ陽射しの温かさが、不安を拭ってくれているような気もした。ただ単に恐怖に混乱が勝っているだけ、という可能性もあったが、それよりはもう少し希望のある考えを見つけるべきだろう。
「ここが死後の世界じゃない、なんて確証はまあ、ないけど」
ではなんだろうか。
喚くよりも嘆くよりも先に、脳裏に浮かんだ次の言葉は。
「異世界転移、とか……?」
恥ずかしながらこの早瀬田陸人、どこに出しても恥ずかしくない立派なオタクだ。漫画もアニメもゲームも大好きだし、インターネット上に溢れるWeb小説を読むのは日課に近い。ついでに言えばTRPGなんかも大好きだ。心の故郷は呪われた島。
であれば、当然ながらそういう作品はいくらでも目にしてきたし、何なら自分でそんな小説を書いたりもした。趣味と魂の職業は素人小説書きなのである。
異世界転移と言えば、現代日本で何の変哲もなく暮らしていた主人公が、突然ファンタジー小説の世界に迷い込んでしまう、あれだ。
神様の手違いか、何者かの召喚か、生まれ変わりか、今まで暮らしていた世界から突然切り離されて、見知らぬ世界で大活躍する。そんな話。遡れば、おすわりが必殺技の女子高生とか、約束はいらない女子高生とか、女の子が主人公なことも多い気がする、あれ。
いやいや、と俺は首を振る。いくら何でも飛躍しすぎだろうと。仮にそういうのがあったとしても、これはちょっと前兆がなさすぎる。俺はトラックに撥ねられてもいないし、変な光に吸い込まれてもいないし、古びたクローゼットの中に潜り込んでもいない。
俺も真っ当なオタクとして、妄想と現実の区別はつけて生きてきたのだ。
念のために自分の身体を見回してみる。
生まれてこの方付き合い続けてきた、よく見知った自分の身体がそこにある。中肉中背。運動不足気味。筋力もさほどない。服は寝巻のままで、何なら裸足だ。
記憶の中にあるままの俺の姿で、安心したような落胆したような。どうやら別人の身体になっていたり、いきなりムキムキになっていたりはしないらしい。
「なんだ、変化なしか」
口に出してから、思わず笑ってしまう。こんな異常な状況だというのに、そんな超展開に期待していた自分がいることに。取り乱さずに済んでいるのは、オタクだったおかげかもしれない。
さてしかし、自分の身体に異変は見つけられなかったとはいえ、この状況がこれ以上もないほどの異変であることには変わりがない。
考えたところで埒が明かず、もはやどうするのが正解なのかと、途方に暮れる以外にできることがなくなってしまった。
寝に入ったままの姿でいる俺は、当然ながらスマートフォンなどという便利なものを持っているはずもなく、すると筋金入りの現代人には、誰かに連絡を取る手段なんてものもからきし思い付きはしなかった。火を焚いて狼煙を上げる、などと考えるも、そうするための火種も火口もありはしない。よしんばあったところで、上手く火を起こす自信なんて、これっぽっちもなかった。
「どうすりゃいいんだ、これ……?」
ただただ、何もなかった。これが何かの物語の始まりなら、もう少し導線を用意してくれてもいいんじゃないだろうか、なんて内心で誰かに悪態をついてしまう。
このままでは無為に時間が過ぎていくばかりじゃないか、と改めて周囲に視線を巡らせて俺は、ようやく状況が好転しそうな兆しを見つけることができた。
「あれは……街、か?」
遥か平原と丘陵の続く先、山脈の麓に、明らかに色味の違う人工物らしきものが見てとれた。距離が遠く、その詳しい様相まではわからないが、山肌に添うように段々と建物が積み上がっているように見える。
いよいよこれは、ファンタジー世界に来てしまった可能性が高まってきたか?
不謹慎にも、にわかに期待を募らせながら、ようやく俺は立ち上がる。
このまま座り込み続けていたところでなにも解決はしないし、ここがどんな場所であれ、人がいる可能性があるのなら、そこを目指して前進するべきだろう。
どれほどの距離なのか今一つ掴めないし、裸足でこんな野っ原を歩き続けられるのか、という不安は当然あるが、無い物ねだりをしても始まらない。
そうと決めて、最初の一歩を踏み出す、それよりも早く。草を踏みしめる音は、俺の背後から聞こえてきた。
「え?」
振り返った先にいたそれを、俺は最初、狼だと思った。すぐに考えを改める。それは、決して俺の知る狼と同じではなかった。
鼻柱は短く寸詰まりで、口の端から覗く乱杭歯が、いかにも凶悪な雰囲気を醸し出している。耳は短く、草を踏みしめる四肢は太い。全身を覆う剛毛は、お世辞にも綺麗とは言いがたい焦げ茶色をしている。
そして何よりその巨体。突如として現れた一匹の獣は、ライオンとだって渡り合えそうな体躯をした、紛うことなき怪物だったのだ。
まずい。どう考えたってまずい。心臓がきゅうと縮み、背中に嫌な汗がどっとにじみ出る。
ぐるる、と腹を震わせる唸り声が聞こえる。前肢が屈められ、獣の上半身が深く沈み込む。
あれは、こんな裸一貫で、いやそれ以前に、ひ弱な一般人が相対していい相手では、断じてない。出会った瞬間に立場が確定する。
あいつは捕食者で、俺はその獲物だと。
そのとき俺の身体を支配していたのは、恐怖と、そして生存本能だったに違いない。
「……ッ!」
我ながらよく咄嗟に動けたものだと、今でも思う。
獣が涎を撒き散らしながら喰らいかかってきたその瞬間、俺はどうにか横に飛んでそれをかわそうとする。すんでのところで噛みつかれることこそ回避できたが、大柄な獣の身体すべては避けることができず、俺は無様に跳ね飛ばされて地面に打ち付けられた。
ごろごろと地面を転がる。何が起きてるのか理解はしている。だが頭が追い付かない。
逃げよう、逃げないと、逃げられるのか?
頭よりも先に身体が動く。少しでもこの獣から距離を取ろうと、腕と足で地面を這って進む。進もうとした。
だができなかった。未だかつて感じたことのない、激烈な痛みが右脚から走り、そしてそれを実感するよりも早く、俺の身体は宙に浮いていた。
もう一度、今度は背中から地面と激突する。
右脚が熱い。身体が冷える。のろのろと足を見ると、だくだくと夥しい量の出血。穴が開いていた。陥没しているというべきか。視線を上げると、じりじりと距離を詰めてくる獣。
「マジかよ……」
あの乱杭歯で噛み咥えられて、投げ捨てられたらしい。
戦う術なんてありはしない。この足では逃げる目ももはやない。あまりにもどうにもならないこの状況に、笑いが込み上げてくる。何もかもが、俺の許容値を超えていた。
死を覚悟する、なんて悠長なことも、この時の俺には出来ようはずがなかった。
その時ぼんやりと頭に浮かんでいたのは、これはもう、ファンタジー世界で確定だな、という何の意味もない確信であった。
獣が踏み出した。俺は腕で顔を覆って、目を瞑った。痛いのは嫌だ、と情けないことを考えながら。
「……?」
痛みは訪れなかった。痛みを感じる間もなく死んでいた、というわけでもない。
恐る恐る目を開けると、獣は変わらず、そこにいた。しかしなにか様子がおかしかった。
四つ足で地面を踏みしめたまま動こうとはせず、いや、どうもなにかに戸惑ったように、げうげうと声をあげながら身悶えている。
もしかして、動けなくなっている?
その理由はすぐに判明した。
草だ。
獣の足元の草が、音もなく身の丈を伸ばし、意思を持つかのようにその四つ足をがんじがらめに締め付けているのだ。
奇妙な光景であった。獣は口で不器用に草を噛み千切ろうとするが、毛皮にきつく食い込んだ草の拘束は、 そう簡単に解けそうにもない。
思わず自分の周りの地面に視線を落とすが、何の変哲もない草原が広がっているばかりだ。動き出したり、俺に絡まってくる様子はない。ただ、そよぐ風に揺れている。
そよぐ、風に……。
何かがおかしかった。風が絶え間なく吹き込んできている。俺にではない。獣に向かって、 だ。周りの空気が、獣に向かって集まっていくようだ。
何が起きてる?
その答えはすぐに示された。
周囲から獣に集まっていた空気が、突如として唸りを上げたのだ。ひゅんひゅんと音を立てながら吹き荒れる風が、獣を取り巻いていく。一挙に勢いを増した風の鋭さたるや、あたかもそれは、鋭利な刃物のように、身動きの取れない獣の身体を切り裂いていくではないか。
獣が苦悶の声を上げる。
その折、持ち上がった首筋を風が深く切り裂くと、獣の動きがぱったりと止まった。獣は力なく地面に崩れ落ち、それきりぴくりとも動くことはなかった。それを確認したかのように、獣を拘束していた草も、また静かに元の草原の一部へと戻っていた。
「助かった……?」
起きた出来事が、端から端まで奇想天外過ぎて、恐怖や驚愕とは別のところで思考が追い付かなくなっている。それでも身体は正直なもので、ひとまず命の危機が去ったと解ると、今度は獣に噛まれた足の激痛が襲ってきた。前言撤回、命の危機は去っていないかもしれない。痛いし、出血が酷い。
けどそれよりも、俺の意識は別のところにすっかり捕らわれていた。
倒れた獣の亡骸の向こう。ちょうど獣が現れた、丘の頂。新たな登場人物が、俺のことを見下ろしていたからだ。
背丈は小柄で、俺の胸元に届くかどうかというところ。右手に携えている木製の杖は、逆に俺の身の丈ほどもありそうだ。目深に被ったフード付きの外套には、縁や裾に見事な刺繍があしらわれている。ここまで走ってきたのだろうか、わずかに息が上がっているようだった。
どんなに鈍くても判る。つい今しがた、草や風を操って俺を助けてくれたのは、きっとこの人だろう。
フードの人物は、丘を駆け下りて、獣の身体を飛び越え、俺の側に屈み込んだ。俺の足の傷を見ると、被っていたフードを下ろして、俺の顔を見た。
「うお」
変な声が出てしまったことを責めないでほしい。
何せフードの下から出てきたのが、金の髪に碧い眼をした美少女だったとなれば、この反応だってやむ無しだと思ってもらえるだろう。なにより、そのボブカットほどの金髪から覗く、わずかに先の尖った耳。
ほら、やっぱりファンタジーだ。
けれども、ここまで超展開が続くのであれば、もう少し手心というやつを加えてほしかった、と思うのは贅沢だろうか?
「======、=====?」
なぜなら俺には、心配そうな顔で俺を見上げる、この少女のかけてくる言葉が、何一つ理解できなかったのだから。