第16話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
角灯の灯りを頼りに、まだ眠い目を擦りながら、夜明け前の暗い炊事場に入る。
火打ち石を打ち付け、竈に点火。一度広間に戻って、暖炉にも。
今日の朝食担当は俺だ。以前はアイラさんが一手に担っていた厨房だが、最近になって、日替わりで俺にも任せてもらえるようになった。なので、皆がまだ寝静まっている中、今日はこうして俺が準備に勤しんでいるという次第だ。
さて、今日の献立はどうしたものか。パントリーの在庫を脳裏に思い返しながら検討する。
腸詰めとパンにはまだ余裕がある。それから、バターも。それだけで十分朝食のラインナップだ。
もうひとつ思い出したのは、昨日市場で手に入れた卵。これはむしろ早く使ってしまいたい。冷暗所に入れてるとはいえ、冷蔵庫ではないのだ、日持ちはしない。そういえば、もう長いこと生卵を口にしていない。この世界では卵を生食する文化はなかったし、俺も怖くてそんなことは試せないでいる。
と言うわけで、今日のモーニングはソーセージのグリルにトースト、スクランブルエッグだ。なんて絵に描いたようなブレックファーストだろう。
おっと、もうひとつ忘れてはいけない。調理台に置いてあった小さな壺の蓋を開けると、野菜と脂の煮詰まった芳ばしい香り。中身は褐色のざらざらとした粉だ。こいつは、先日俺が鶏と野菜数種を一日かけて煮込んだスープを、ティオに頼んで精霊術で乾燥させてもらった、即製なんちゃって粉末ブイヨンである。
そもそもこの世界、あまり食材を煮込んだ汁を調理に使う、という発想がまだ存在していなかった。スープはスープで作ることはあるが、それだけ。味付けに至っても、調味料は塩と胡椒、砂糖。終わり。十分と言えば十分だが、一事が万事その調子なので、どうしても飽きは来る。
そこで試しに作ってみたのが、この粉末ブイヨンというわけである。こいつができてから、料理の味付けの幅も広がったし、調理の手間も減ったとアイラさんからは絶賛だ。食堂で出してる食事の評判も上がってるという。今朝も朝からこいつで、スープを作ってやることにしよう。
知識チートみたいだな、なんて思うものの、自炊程度の知識じゃこれが限界。文化革命なんて起こす気もないが、それでも世話になった宿に貢献できているならば良しとしたものだろう。
そうしているうちに、だんだんと空も明らんでくる。夜が明ければ、みんなが起きてくるだろう。
こうして今日も、俺の一日が始まる。
大山羊との激闘から数日。俺の日常は、また碧いとまり木亭に戻ってきていた。
「おはようございます、リックさん」
「おはようございます」
最初に起きてくるのは、やはりアイラさんだ。朝の支度は俺がやるので、もっとゆっくり寝てていいと言っているのだが、どうしてもこの時分には目が覚めてしまうらしい。起きてしまうと、何もせずにいるのがどうにも落ち着かないというので、もはや習性である。
「朝食できてますから、食べちゃってください」
「はい……本当すみませんね、いつも」
「それは言わないでくださいってば」
昔話のおじいさんおばあさんかな? みたいな会話も、もはや慣れっこだ。
食事を終えると、アイラさんは帳簿を付け始める。今までは夜にやっていたが、朝ゆっくりできる日は朝片付けることにしたらしい。
ところで、以前にも述べたことだが、この世界の識字率はさほど高くはない。就学制度も整っていないリングアンドで、宿のためと文字を学んだアイラさんや、そのアイラさんから教わっているリーリアは、やはり頭がいい。
俺としても、元の世界に戻る手段を探るうえで、いずれ読み書きが出来るようになりたいとは思うのだが、残念ながら今のところはまだ手を付けられていない。日常的に刷り込まれていく口語と違い、学ばなければ学べない読み書きに時間を割く余裕は、まだなかった。
そうこうしていると、次に起きてくるのはティオだ。
「リック、おはようございます」
「おはよう、ティオ」
ティオも朝はまあまあ早い。彼女がもともと暮らしていたリンデンというのは、森の中に築かれた小さな都だったそうだ。フェルメルたちが統べる青の国の都でもあるリンデンは、ここよりももっと自然に根付いた生活を送っていたらしい。精霊術士が多いというフェルメルたちならではの暮らし、と言われれば、なるほど想像がつくような気がした。
「今日は予定通り行けそうですか?」
「ああ、問題ないよ。朝の仕事が終わったらだな」
今日はティオとある約束をしている。仕事半分、といったところだ。
共に冒険をする約束をした俺とティオだが、大山羊狩りから戻ってからはまだ次の冒険には出ていない。懐に少し余裕ができたというのもあるが、単純にまだ仕事が入ってきていなかった。
やはり、営業に行く必要があるかもしれない。そうしたわけで、ティオとの約束に繋がるわけだが、細部はまたあとにしよう。
「今日の朝食はリックなんですね。ふふ、楽しみです」
「お口に合えば何よりだよ」
席に着いたティオに食事を運び、引き返す途中でふと足が止まる。顔を上げ、暖炉の上に目が進んだ。
大山羊狩りの前と後で、碧いとまり木亭での日常は、少し変化したことがある。そのひとつが、この暖炉の上の壁に掛けられた、カザムコールの頭蓋骨だ。立派な角もそのままに、骨になってもなお、宿の中にその威容をまざまざと見せつけている。
そしてもうひとつが。
「朝からなににやにやしてるのよ」
後ろからいきなり棘のある言葉を投げてくるミュークスの女。
「おはよう、ジジ。いいだろ、自慢の戦利品なんだから」
「おはよ……気に入りすぎでしょ、まったく」
彼女もまた、この碧いとまり木亭にやってきていたのだった。
◆
「取り分の話をしましょう」
ジジがそう切り出したのは、ミナーカでのことだった。
カザムコールを討伐したその夜。ジジの連れてきた人手とイルク車でどうにかすべての荷物を村に運んだ俺たちは、ささやかながらの歓待を受けた。村の同胞を失った弔いを兼ねての宴は、お世辞にも盛況とは言えなかったが、それでもミナーカの人々は俺たちを十分にもてなし、讃えてくれた。
その宴も終わり、寝床として案内された村長の家でのことである。
「取り分?」
そう言われて、それぞれの依頼主から報酬を貰うだけでは、と頭に疑問符を浮かべた俺は、我ながらさすがに抜けていたと思う。
「あんた、あたしたちがなにを狩ったか忘れたわけじゃないでしょうね」
「あ、そうかカザムコール」
なんとなく、村人の仇としてミナーカの人々に渡して終わり、というような気がしていたが、もちろんそんなはずはなかった。あの大山羊の所有権は、狩った俺たちにあるのだ。
「そうですね、臨時収入ですし、どう分けるか決めませんと。すべて捌いたらどのくらいになると思いますか?」
「あれだけの個体よ、どんなに低く見積もっても五十ゴルダは下らないわ」
思いがけず出てきた金額に、俺は目を剥いた。そ、そんなに?
確かにその額は、慎重に分け前を決めなければ不和の目になりかねない。もともと報酬折半で組んでいる俺とティオはともかく、ジジは臨時で組んだ仲間だ。余計になあなあにはできない。
「一番後腐れないのは、全部売りさばいてその金額を頭割りね」
「まあ、無難だよな」
正直に言うと、まだ駆け出しもいいところの俺が均等割りを貰うというのはいささか気が引けるところなのだが、それは言わないでおいた。
技量がさっぱりでもあの大山羊相手に一番身体を張った自負はあるし、ここで自分を卑下しては、俺を評価してくれたティオのことまでないがしろにしてしまうような気がしたからだ。
「一応聞くけど、どこか欲しい部位がある人は?」
ジジに聞かれ、俺は首をひねった。素材を貰ったとして、どう活用すればいいのかがいまいちわからない。
ティオもまた、首を横に振った。
「私は特にありません。ジジはどうなんですか?」
「うーん……強いて言えば皮かしら。でも鎧は今ので満足してるのよね」
であれば、やはりすべて現金にしてしまうのがいいのだろうか。
いや、でも待てよ? ふと脳裏にひらめいた光景があった。
「なあ、角って高いのか?」
「え? そうね、装飾品や錬金術の素材になるし、一番値が付くんじゃないかしら」
となると、両方貰うのは難しいだろうか。
「なに、欲しいの?」
「角というかまあ、頭蓋骨が欲しいかも」
「丸ごと!? 欲張りすぎでしょ!」
目を剥いたジジに食って掛かられた。やはり厳しいか。
「なにか用途があるんですか?」
ティオに訊ねられ、俺は後頭部を掻いた。なんとなく言葉にするのは、少し恥ずかしかった。
「頭蓋骨をな、宿に飾ったら箔がつかないかな、って思ってさ」
この凶悪な角を持った敵を討ち取ったというその証を、すべて現金に変えてしまうというのは、少しばかりもったいない気がしてきたのだ。それに、これが宿にあれば客を呼ぶための話題にもできるのではないだろうかと、そう思ってのことだった。
「それ、いい考えかもしれませんね」
思いがけず同意してくれたティオに、少し自信が湧いてくる。
「宿って、どういうこと?」
事情を知らないジジに、俺たちの帰る場所である碧いとまり木亭のことを説明する。
俺は今、碧いとまり木亭という冒険者の店に、住み込みで働きながら冒険者をしてること。ティオも宿を拠点としており、そこで寝起きしていること。
「こういうのはどうでしょう。私とリックで合わせて頭蓋骨を貰って、あとはジジに譲るというのは」
「え、そう言ってくれるのは嬉しいけど……いいのか?」
「はい、私は当初の報酬で十分ですから」
「なんか、悪いな」
「なに言ってるんですか、私もそういう思い付きは大好きです。それに頭蓋骨とそれ以外でなら、ジジにも三等分以上の額が入るのでは?」
それならそこまで法外な要求でもなくなるだろうか?
交渉の余地はできたのではないだろうか、とジジを見ると、なにやら思案顔で顎に手を当てている。
「なあ、それでどうだ?」
「ちょ、ちょっと待って、勝手に話を進めないで!」
まだなにかダメなのだろうか。そう思ったが、ジジの表情を見ると、どうもそう否定的な様子ではないようだった。
「ねえ、その宿ってまだ空きはあるの?」
「空きもなにも、ティオくらいしか泊まってないよ」
ふうん、そう……とジジはまたなにか考え始める。俺とティオは顔を見合わせて首を傾げた。
そジジが顔を上げた。
「じゃあ、こうしましょう。頭蓋骨はその宿に持っていく、それ以外の部分を捌いて売値を三人で山分け。ただし」
「ただし?」
「あたしもその宿に行くわ!」
そんなわけで、碧いとまり木亭の常駐冒険者が、一名増えたのである。
◆
しかし、経緯を考えると、俺がこの頭蓋骨を眺めて悦に入っているのを、他でもないジジに揶揄されるのは、いささか納得のいかないものがある。
「頭蓋骨について宿に来たジジに、気に入りすぎなんて言われたくないなあ」
「ちょっと、別に骨にくっついてきたわけじゃないわよ。カザムダリアに来て拠点が決まっていなかったし、ちょうどいいからここにしただけよ」
そう不服そうな顔で返してくるが、そんなジジがいつも暖炉の前の席を陣取っていることも、頭蓋骨を見てはご満悦にしていることも知っているのだ。
「それに、頭蓋骨を飾るだなんて、勲章みたいなものよ。それをあんたたちだけの手柄みたいにされるのも癪だもの」
「それはまあ、ごもっとも」
そんなことを話しながら、ジジの席にも食事を運ぶ。
でもそうだな、言われてみれば、これは勲章かもしれない。俺がこの世界に来てはじめて手にした、冒険者としての勲章だ。それが初仕事でというのは、身に余るものかもしれないが。
実際、これを持って宿に帰ってきたときは、まあまあの騒ぎになったものだ。アイラさんもたいそう驚いていたし、近所でも話題になって、ひと目見ようと今までにない客入りになったりもした。それ以来、夕食時の客は確実に増えている。
大物を狩るというのは、それだけの箔をつけてくれるのだ。思っていた以上の反響に、少々慄いたくらいだ。
そういえば、リーリアはどうしているだろうか。宿に帰ってきてからというもの、なんだかんだでまだ話ができていなかった。もう元気を取り戻しているといいのだけれども。
「そういえば、リック」
そんなことを考えていたら、ジジに呼び止められた。
「ん?」
「あんた、今日は暇なの?」
「今日? いや、今日はティオと出かける予定だけど」
そう答えると、なんだ、とジジは卓上に頬杖をついた。露骨につまらなさそうな表情だ。
「なんかあったのか?」
「なんかってわけじゃないわ。ただ、あたしまだこの街に慣れてないから、案内してもらおうかと思っただけよ」
そう言ってそっぽを向いてしまう。
「なんだ、それならちょうどいいじゃないか」
「なにがよ」
「俺も今日、ティオに街を案内してもらうつもりなんだ。この街に一番慣れてるの、ティオだから」
そう、ティオとの約束というのはそれである。
俺ももうこの街にきてそれなりに時間が経つが、実のところ活動範囲はこの宿と市場、それから職人街にたまに行く程度で、それ以外の地区に関してはほとんど把握できていないのだ。
けれど、冒険者を始めたところで、それではよろしくない、となった。
ただ待っていても仕事は来ない。以前から思っていたことだが、この世界で冒険者の仕事というものは、想像していたほど多くはない。冒険者の店の掲示板だって、基本的にはがらがらだ。以前、偵察がてらよその店を覗いてみたことがあるのだが、そこでもやはり一枚か二枚、受け手の見つからない長距離の護衛仕事が貼られている程度だった。そもそも識字率が低いこの世界、ほとんどのやり取りは口頭で行われている。常に仕事が貼りだされている、なんてことはありはしないのだ。
ではどうやって仕事を探すかと言えば、やはり売込みだ。なにか困ったことがあれば、自分たちに言ってくれと宣伝して回る。仕事はないかと探して回る。ゲオルグさんの言っていた通り、それが駆け出し冒険者の仕事なのだ。
過去の実績があり、繁盛している冒険者の店に顔が売れていれば、仕事も向こうからやってくるかもしれないが、俺にはそのどちらもない。ティオが精霊術士ということもあり、多少評判はあるようだが、まだまだ名高い冒険者というにはほど遠いのが現状だ。
そこで今日は、街の案内をしてもらうついでに碧いとまり木亭と、そして自分たちの営業をしようではないかと、ティオと決めたのだった。アイラさんにもそのために時間を貰っている。
本当のところを言えば、一番街に詳しいのはカザディルの出身であるアイラさんなのだろうが、さすがにそんなお願いをするわけにもいかない。
「ついでに、ゲオルグさんのところに手入れに出した剣の回収もあるしな」
「ふうん……でもそれ、あたしが一緒でいいの?」
「問題あるか? むしろ、あの大山羊を狩った三人だ、って宣伝して回ろうぜ」
「まあ、あんたがいいならいいけど」
なにやら含みのある口ぶりなのが気になるが、ともかくこれで決まりだ。今日は三人で、カザディル観光と洒落込むとしようじゃないか。