第15話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
鈍重に風を切る重く低い音が俺の頭上を通り抜ける。頭をかがめた勢いのまま前に転がり、数歩離れて振り返る。
鼻息も荒く角を振り回す、暴れ大山羊がそこにいた。
圧倒的な質量で襲い来る破城槌のような角を、屈み、転がり、身を捻ってどうにか回避し続ける。
剣を前に構えたところで、カザムコールは針の先ほどにも怯んだ様子は見せやしない。とにかく俺にできるのは、カザムコールの暴力的な猛撃を、すんでのところで避け続けることだけだった。
ティオの魔法のおかげで、身体は今までになく動く。だが。
大山羊の背に矢が刺さった。ジジだ。彼女もまた稜線を飛び出し、俺を挟んでカザムコールの外周を走りながら、矢を射かけている。大山羊が煩わし気に背後を向こうとする。
「よそ見するなよ!」
避けざまに剣を叩きつけ、また距離を開ける。離れすぎないように、近すぎないように。
「いい加減、頑丈すぎるのよ!」
悪態をつきながらジジが矢を放つ。ティオもまた、カザムコールの死角になる位置を取りながら、精霊との契約を交わしている。
俺がいくら剣を振るったとこで、カザムコールの丈夫な毛皮につくのはわずかな傷ばかりだ。人間からすれば大怪我だが、こいつにとっては指先の切り傷ほどにも感じていないのだろう。だが、また血走った目に迸る怒りが、俺に向いた。それでいい。
俺にできるのは、ただただこの暴力がティオたちに向かないように、大山羊の気を引き続けることだ。
角の一撃を避けて俺が離れ、カザムコールがまた狙いを定め始める。そこにジジの矢が飛来し、ティオの精霊術で風が巻く。ひたすらにその繰り返しだ。もう大山羊の背は、針山のような有様になっている。それでも、まだ暴れ続ける。
狩りは持久戦だった。果たしてどちらの体力が先に尽きるのか。ティオの魔法とアドレナリンで、どうにか身体を動かし続けている俺か、じわじわとその分厚い毛皮に傷を増やしている大山羊か。
だが狩りをしているのはこちらだ。人間の、冒険者のパーティが、こんな無軌道な暴力に負けるはずがない。そんな確信がある。カザムコールが少しでも脚を止めれば、草がその脚を絡め、急所を矢が狙う。それでもこいつは、俺の簡単な挑発に乗ってくる。
間違いなく狩れる、そう思った。
カザムコールが頭を下げた。後ろ脚が屈む。いよいよ底が見えてきたか?
背にまた矢が刺さっても、カザムコールは意に介さない。
いや、違う。
前脚が地面を掻いた。二度、三度。地面が抉れるほどの強さで。
「避けて、リック!!」
まずい。
そう思った時には遅かった。
大地が揺れた。カザムコールが、発射される。
「おおぁ!!」
目にもとまらぬ速さの突撃は、かろうじて身を捻った俺を捉えこそしなかったものの、その余波はいとも簡単に俺の身体を吹き飛ばした。いつぞやと同じ、だがその何倍もの衝撃が俺を地面に叩きつけた。
ぼぐり、と嫌な音を聞いた。どこだかわからない、だが絶対に折れている。
身体が地面を転がる。自力で止まることもできない。どれほどか、身体のあちこちを地面に打ち付けて、俺はようやく止まった。
横たわったまま、眩む目で空を見上げた。
俺の身体に影がかかる。
影が……俺の上で棹立ちになり、俺を叩き潰さんと前脚を振り上げたカザムコールが。
死ぬ。
頭を潰される。そう確信した。
その影の向こう。カザムコールの頭の辺りで、光がさく裂した。あまりにも強烈な閃光は、俺の身体にひと際強く影を落とし、俺は思わず目をつむった。
衝撃が、来ない。
恐る恐る目を開けると、カザムコールはまだ俺の上にいた。だが、棹立ちのまま嘶きを上げ、身もだえている。閃光の直撃を受けたのは、この大山羊のほうだったのだ。
その時、剣を手放していなかったのは我ながら優秀だったと思う。
咄嗟に俺は、長剣を手に立ち上がり、その切っ先を無防備なカザムコールの脇腹に突き立てた。
「ああああああ!!」
全体重を乗せ、剣を押し込んでいく。ずぶずぶと肉をかき分ける感触が、手に伝わってきた。まだ足りない。全力で地面を蹴り、のけ反っていた大山羊の身体を押す。
その巨体で地面を揺らしながら、俺とカザムコールは再び地面に倒れこんだ。
「こいつ……!」
だがそれでもまだ、大山羊は腹の下にいる俺を引きはがそうと、脚をばたつかせている。
まだくたばらないのかよ……!
めちゃくちゃに振り回される脚が危うく体をかすめる。こんな体勢でも、当たろうものならひとたまりもない。早く、早く。
「リック、そのまま!」
駆け寄ってきたジジが、足でカザムコールの頭を踏みつけた。ぎりぎりと弓を引き絞り、放す。ずんっ、と重たい衝撃がカザムコールの身体に走る。
どうなった?
俺は、そろそろと顔を上げる。カザムコールの脚は、もう襲ってくる様子はない。
それきり、暴れ続けていた大山羊は、ぴくりとも動かなかった。
のろのろと身体を起こす。あちこちが痛い。呼吸をするたびに激痛が走る。それでも、生きてる。カザムコールはもう微動だにしない。
狩れた。
「立てますか、リック?」
「あ、ああ、大丈夫」
ティオの手を借りて立ち上がり、まだカザムコールを踏みつけたままのジジの傍による。
うわ、おっかねえ。
見れば、ジジの放った矢は、カザムコールの眼球を貫いてその頭部を地面に縫い付けていた。そりゃあひとたまりもないだろう。
「……った」
「ジジ?」
震えるジジの声を聞き取ろうと耳を寄せる。
どんっ、と身体に衝撃が走った。
「え、なん、ジジ!?」
気づけば、ジジは俺の胸元に飛び込んで、思い切り抱き着いてきているではないか。
「やった、やったわ! こんな大きな獲物はじめて!」
歓喜に震えるジジの身体はどこまでも少女らしく、ああ、こいつこんなに華奢だったのか、と考えないほうがよさげな感想が脳裏を過る。ちょうど耳が俺の鼻の辺りでぱたぱたと動いて、くすぐったい。
それよりも、何か聞き捨てならないことを言っているような。
「なあジジ、はじめてって……いってぇ!」
「え、やだ、ちょっとリック!?」
俺を抱きしめる腕がずれた瞬間、心臓の下で強烈な激痛が走り、俺はその場にうずくまった。
間違いない、肋骨だこれは。指先になにか動いてはいけないものが動いている感触がある。
「ちょ、ちょ、動かないでください!」
身悶えながらその場に腰を下ろし、ティオに玻璃瓶で癒しの魔法をかけてもらって、どうにか痛みは治まった。焦った、これで骨が変なところにくっついていたらどうしようかと思ったが、そんなこともないようだ。
「その、悪かったわね。感極まっちゃって」
ジジが決まりの悪そうな顔で謝罪してくる。それは別に構わないのだが。
「いいんだけど、こんな大物はじめて、って?」
「う、く……それは……」
突っ込むと、ジジはさらにばつの悪そうな顔になってそっぽを向いた。あれだけ迷いなく狩りを進めていたジジだ、てっきりこんな狩りにも手慣れたものなのかと、そう思っていたのだが。
「そうよ! はじめてよ!」
あ、開き直った。けれども、顔が赤い。
「そりゃ、狩りには参加してたわ。でもほとんど母さまたちの手伝いみたいなものだったもの。自力で狩ったって言える大物は、はじめてなのよ……」
悪い? とにらみを利かせてくるが、さすがに頬が赤いままでは凄みも感じられない。
なんだ、思ったよりも子供っぽいところがあるんだな。
俺の無知をさんざん詰められた、その仕返しをしてやろうかと思いもしたが、それは大人げないし、後が怖いのでやめておいた。
「ふふ、気を張ってたんですね。さっきまでとは別人みたいです」
「ちょっと、やめてよもう」
ティオに笑われているほうが効いてそうだし。
それよりもむしろ、俺の中に湧いたのは親近感だった。
「本当のところ、俺も今叫びだしそうなくらい興奮してるよ。まさか、初仕事でこんな大物狩りをすることになるなんてな」
「ほら、あたしだけじゃ……初仕事!?」
信じられないようなものを見る目で見られた。
◆
空は高く晴れ渡って、しかしもう間もなく陽も傾き始め、宵闇も忍び寄ろうかという頃。
俺はティオと二人、草原に転がる岩に腰を下ろし、先頃討ち取ったカザムコールの亡骸を見張っていた。
この場にジジはいない。彼女は村から借りてきていたイルクを駆り、ミナーカまで人を呼びに行っている。
元々の目的であった農具と御者、それにこの巨大な大山羊の回収。少なくとも荷車が二台に、人手も五人以上は欲しいところだ。果たしてそれでもこの巨体が乗るかどうか。最悪この場で少し解体する必要もあるかもしれない。
大山羊をその場に残していく選択肢は誰にもなかった。ミナーカの住民に、同胞の仇を討ったことを報告しなければならない。
ジジのやつ、陽が落ちる前に戻ってきてくれればいいのだが。
こうして見張っているうちに、野犬や黒狼のような獣が寄ってこないかという心配もあったが、そこはティオがいてくれた。風の精霊との契約で、臭いを閉じ込めてくれている。便利だな、精霊術。
それにしても。
改めてその偉容を見ると、よくこんな怪物を退治できたものだと思う。結局俺のしたことと言えば、ひたすら囮になったくらいのものだが、それでもやり遂げた実感はあった。この獣の腹に剣を突き立ててやった感触は、まだ手に残っている。その剣を引き抜くのだって、カザムコールの筋肉が硬直してしまって一苦労だったのだ。
俺にもできた。仲間と共に恐ろしい生き物と戦って、打ち勝つことができた。
その感慨が、間を開けて打ち寄せる波のように、俺の心胆を繰り返し震えさせていた。
俺も冒険者になれた。その感激で胸が溢れそうになっている。
「やってみるもんだな」
「なにがですか?」
無意識の零れ落ちた言葉をティオに聞かれたらしい。背中を合わせるように座っていたティオが、半身を捻ってこちらを見ている。
なんでもない、自己完結みたいなつぶやきだったのだが、改めて言語化しようとすると、面映ゆいものがある。
「いや……俺、自分はもっと臆病者だと思ってた、って話かな」
敵対者を前にして何かしらの行動が取れる自分、なんていうのは、まったくもって想像の埒外だった。むしろ、いざ他人の暴力にさらされたら、きっと俺は身動きが取れなくなる。そんな風に思っていた。
あるいは無我夢中で、感覚が麻痺していただけかもしれないが。
そんなことを話すとティオは、まるで出来の悪い生徒に言って聞かせるように、こう言う。
「それは、自分を見る目がありませんね」
「そんなに高評価できるほど自分を信じられやしないよ」
だから俺は、今までずっと、何をするにも尻込みしてきたのだ。自分が何かを成し遂げられるなんて、そんな自信がどこにもなかったから。
「前にも言ったかもしれませんが、リックは勇敢です。それは私が知っていますよ」
「そうかな」
そう言ってもらえるのは、すごく嬉しい。今の達成感と一緒になら、そんなティオからの信頼を、素直に喜びで受け止めてもいいような気がした。
「あの、リック」
「ん?」
少し調子を落としたティオの声に、俺は振り返った。俯いたティオの表情は、よく見えなかった。
「昨日の話なんですけれど」
そう言われて思い出した。そういえば、その話には決着がついていなかった。
「リック、私はあなたと冒険がしたいです」
「うん、覚えてる。でも、お使いみたいな仕事に付き合わせるのは、って思って」
「違うんです」
ティオは首を振った。違う?
「どんな仕事が、とかじゃないんです」
そう吐き出された言葉には、どうしようもなく強い熱が籠っているようだった。
「あなたにとって、この世界はすべてが冒険だと思います。リングアンドの外から来たあなたが、何も知らないこの世界をどんな風に見るのか。その目にどんな冒険が映るのか。私はそれが見たいんです」
「俺の見る、冒険」
「はい。そして、その冒険の一端に、私も携わりたい。そう思ったんです」
そんな風には、考えてもいなかった。確かに、この世界は俺にとって、何もかもが冒険だ。なんだったら、ただ街道を歩いているだけでだって、立派な冒険に感じられる。
それをティオが求めているなんて、考えてもいなかった。
「ですが、もしリックの邪魔になっているなら」
「邪魔なんてことあるか!」
俺は、思わず語気を荒げて言い返していた。
「俺だって、ティオが一緒にいてくれたらどんなに心強いか。でも、いつまでもそうやってティオの足を引っ張ってたらって思って」
「何を言ってるんですか」
今度は、ティオの語気が強くなった。
「リックは立派に、戦士としての仕事を果たしたじゃないですか」
「戦士としての……」
「はい、敵を私たちに近づけさせない、それが冒険者の戦士の仕事です」
だから、私の足を引っ張ってなんていません。
そう強気で言い切られ、俺にはもうぐちぐちと理屈をこねる隙なんて、どこにもありはしなかった。
「俺、まだまだ知らないことたくさんあるぞ」
「それがなんですか。そんなの、私にだってたくさんあります。知っている方が教えればいいんです。それに」
「それに?」
「言いましたよね? 私は、見返りを求めてリックにいろんなことを教えてたんですよ」
そうだ、確かにそう言われたんだった。そのときは、ティオの知らない、俺の世界のことを教えたりすればいいのかとか、そう思っていたのだけれど。
「だから、リック。私に、あなたの冒険をわけてください」
今度こそ、本当に。
それが殺し文句が、俺の冒険者としての歩みと、その最初の仲間が決まった瞬間であった。
「じゃあ改めて……これからもどうぞごじっこんに、ティオ」
「はい、こちらこそ」