第10話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
松明の照らし出すおぼろげな灯りを頼りに、俺とティオはひたすらに森の中を駆け続ける。草木を踏みしめ、木の根を飛び越え、枝葉を潜り奥へ奥へと。
「左です!」
「わかった!」
ティオの声に従い、大きな木をぐるりと左に曲がる。俺の目には見えない誘導が、ティオには見えている。
風の精霊の導きだ。その姿を見ることはできないが、俺たちの行く先に向けて風が吹いている、そんな感覚は確かにあった。
木と木の合間を駆け、風に追われながら、俺たちはドラヴを追う。
斧と松明を手に追跡を再開する前、ティオは俺にいくつかの説明をしてくれた。
「これくらいの距離で、追うべき相手がはっきりしているなら、風の精霊に導いてもらうことができます。道案内は任せてください。ですが、ドラヴ二匹を相手にするとなると……リック、あなたにも戦ってもらう必要があります」
そんなもの、断るべくもない話だった。誰かと戦ったことなんてない。だがリーリアを救うためなら、なんだってする。
「一度に複数の精霊と契約するのは難しいですし、同じ精霊にいくつものことを頼むのも、やはり厳しいです」
時間をかけて準備できるなら別ですが、ティオはそう挟んで続ける。
「ですので、松明は絶対に持っていってください。そして相手を見つけたらまず……」
段取りを打ち合わせながら、ああ、やっぱりティオは冒険者なんだなと、俺は場違いな感慨を抱いていた。遭遇した敵の能力と、自分たちの能力を擦り合わせ、各々の役割をはっきりとさせる。
俺も何度だってやってきたことだ。今まではゲームの中で、これは現実だが、すべきことは変わらない。
そう考えれば、ティオと手はずを整えるうち、煮えたぎってた俺の頭も、だんだんと落ち着きを取り戻した。
俺の役割は、シンプル極まりない。目標は明確に一点だけだ。
「とにかく、リーリアの救出が目的です。その事を絶対に忘れないでください」
「ああ、わかってる」
そして俺たちは再び、暗い森の中を走り出した。
狩場になっているという森は、やはり深い。きっと野性動物たちが豊富に棲息しているのであろう。
だが灯りを照らして走ってみると、思いの外鬱蒼ともしていなかった。頻繁に人が入っているからであろうか、下草も浅く、藪もそう多くはない。
けどそれは、つまり相手も逃げやすいということだ。どうあれ追跡の手は緩められない。
今はただ、余計なことは考えず、走り続けるしかない。
「もうすぐです、リック!」
ティオの声に、斧を握る手に力が籠る。ドラヴの、リーリアの姿を見つけようと目を凝らす。
木立の合間を縫って走る。
木々が後方に流れていく。
風が背中を後押しする。
もう一歩。
「いた!」
思わず叫んだ。
木々の合間から差す月明かりの下に、二つの人影。一方は肩になにかを担いでいる。リーリアを。
人影も、俺たちの接近に気づいて振り返る。
俺はこのとき、はじめてドラヴというものの姿を見た。
思わず背筋が泡立つのが、ありありと感じられた。
そのシルエットは人間とさほど変わりはしない。だが、身には衣類と呼ぶにも粗末なぼろ切れをまとい、酷く曲がった猫背をしている。月明かりの下で見る肌は、青とも灰色ともつかない淀んだ色をして荒れきっている。とがった耳に鷲鼻に、並びの悪い歯。なにより、ぎょろりと見開かれた黄色い目が、薄明かりの中で際立っていた。
ティオをして穢れた種族と言わしめるだけはある。ドラヴは酷く歪んで、嫌悪を催す見てくれをしていた。
人間の、エイーラの子らの敵。
リーリアの危険。リーリアの身に何かあったら。
カッと飛び出しそうになる短気な身体をどうにか押さえつけ、俺はドラヴを見る。すべきことを見る。役割を見る。
リーリアを抱えていたドラヴが、その身体を手放した。リーリアが地面に投げ出される。そのドラヴは粗末な弓を手にしている。
もう一匹は、俺たちに向け、威嚇するように金切り声をあげた。手には錆だらけの短剣。こちらに向かってくる。
「ティオ、奥からだ!」
叫んで俺は、走り出した。俺のすべきことをするために。
奥のドラヴが矢を放つ。俺は思わず目を瞑った。大丈夫だとわかっていても、怖いものは怖い。
俺の周りで風が巻いた。矢は俺に届かずに落ちる。精霊の守護。ティオのかけてくれた矢避けの守り。一度はこれで防げる。次はない。
奥のドラヴに向かって、俺は松明を投げた。
どこに落ちたか確認する間もなく、俺は斧を両手で握り直す。俺のすべきことは、もう目前に迫っていた。
「ぅお!?」
ドラヴが、その錆だらけの短剣を振り上げ、俺に躍りかかってくる。すんでのところで斧を横に持ってそれを防ぐ。
防御されたと見るや、ドラヴはすぐに短剣を引き、続けざまに二撃、三撃と切りつけてくる!
手練れた動きではない。闇雲でがむしゃらな攻撃だったがしかし、俺はとにかくそれを防ぐので精一杯だった。
じわじわと押される。少しでも気を抜けば、刃こぼれした凶刃が、無惨に俺を切り裂くだろう。反撃の隙を窺うことなんてできない。そんな余裕はない。
だがそれでいいのだ。俺の仕事は、こいつを倒すことじゃない。
ぎぃ! と苦悶の声がドラヴから上がった。目の前のではない、奥で弓を構えていたドラヴからだ。ちらりと目をやればそのドラヴは、火に巻かれてもんどりうっていた。松明から巻き上がった炎によってだ!
ティオだ。作戦通り、松明に宿った火の精霊と契約して、ドラヴを焼いてくれたのだ。
火だるまにされたドラヴの絶叫が、森の中に響き渡る。その声に一瞬、目の前のドラヴが気を取られた。
いまだ!
俺は思いきりドラヴの腹を蹴飛ばすと、斧を構え直して一歩距離を取った。
こいつを倒すのは俺の役割じゃない。俺はただの時間稼ぎだ。
それでも。
ドラヴが短剣を握り直し、憎々しげにこちらを見た。ぎらぎらと光る瞳と目があった。
その時不意に、本当に急に、リオンの言葉が脳裏に蘇ってきた。
目を見ろ、力むな、と。
俺は両の肩から、斧を握る手から脱力し、左手の小指だけをしっかりと握り込む。腰を落とす。正面からドラヴの目を見返した。
ドラヴは威嚇するように声を上げる。まだ来ない。
一歩踏み出した。まだ来ない。
短剣を持ち上げる。まだ来ない。
ドラヴの目が見開かれた。来る!
腰だめに引かれた短剣が突き出される直前、俺は身体を半歩横にずらした。そこに遅れて、ドラヴの短剣が突き出される。
俺は、目の前で伸びきったドラヴの腕に、迷いなく振り上げた斧を、真っ直ぐに振り下ろした。
森の中にまた、ドラヴの叫びが響く。足元に、短剣を握ったままのドラヴの腕が転がった。
「は……ぁっ……!」
いつの間にか止まっていた息を吐き出す。
見えた。ドラヴが仕掛けてくる瞬間が、はっきりとわかった。防戦一方だった時とは明らかに違った。
腕を切り落とされたドラヴは、傷口をおさえ、狼狽えた目でこちらを見た。
まだ来るか? 俺は振り下ろしたままにしていた斧を、もう一度両手で構える。
だがドラヴは、それで戦意を失ったか、ぎゃいぎゃいと不快な声を出しながら踵を返して走り出した。
咄嗟にあとを追いそうになり、踏みとどまる。違う、俺たちの目的は、ドラヴを倒すことじゃない。
ドラヴが木々の向こうへと姿を消したのを確認して、俺は振り向く。炎に巻かれて息絶えたドラヴの傍ら、すでにティオが、リーリアを抱え起こしていた。
「ティオ、リーリアは」
「大丈夫です、気を失ってますが怪我はありません」
ほう……と俺は、気付かず浅くなっていた息大きく吸って、吐いた。よかった。
近づいて傍に屈み込むと、リーリアは猿轡をされ、手足を布で縛られている。その様子にまた腹が立ったが、もうその怒りをぶつける相手もいない。
とにかくリーリアは無事だった。いまはその事をよしとしよう。
ティオと共に拘束をほどいていると、リーリアが身じろぎする。どうやら意識を取り戻したようだ。
「ん……んぅ……」
「リーリア先生?」
呼び掛けると、リーリアの目がうっすらと開いた。
「リーリア先生、大丈夫か? どこか痛いところは?」
「リック……ティオ……?」
幾度か目を瞬かせるうちに、焦点があってくる。するとリーリアは、急に飛び起きて俺の首元にしがみついてきた。
「おっと……リーリア先生……?」
「……っく……ぅぅ……」
「怖かったですよね、もう大丈夫ですよ」
ティオが、震えるリーリアの背中を撫でている。
首元が暖かい。リーリアの体温と、涙が肩口に広がっていくのを感じる。リーリアの小さな心音が伝わってきた。
「……無事でよかった、リーリア」
ゆっくりとリーリアの髪を撫でてやりながら、俺はようやく、彼女を無事に救い出せたことを実感していた。
◆
泣き疲れ、安心してまた眠ってしまったリーリアを抱えて村に戻ると、森の入り口にはかがり火が焚かれ、農具を武器にした男たちが数人、見張りに立っていた。
俺たちの姿を見つけると、驚いたように目を見開いて駆け寄ってきた。
「ぶ、無事でしたか! その、ドラヴは……?」
「一匹は仕留めて、一匹は逃げられました。深手を負わせていますが、念のため今夜はそのまま見張りを続けたほうがいいでしょう」
ティオが答えると、村人たちは心底安心したように脱力し、大きく安堵の息を吐いた。
やはり、普通の人々にとって、ドラヴというのはそれほど恐ろしい存在なのだろう。さっきはリーリアのこともあり激昂しかけたが、怖がるのが当然なのだ。俺だって、なにもなければきっと同じだった。
「森の奥に逃げていったなら、もう大丈夫でしょう。本当に、ありがとうございました」
ただどうしてか、俺はその言葉がずっと頭に残っていた。
集会所に戻り汗を拭いてベッドに入り、次に目が覚めたのは、もう昼も近くなってからだった。
三人で集会所を出ると、村の広場にはテーブルが並べられ、その上には村の収穫物や狩猟の成果をふんだんに使った、それは豪勢な食卓が展開されていた。
俺とティオは、村の危機を救った英雄として、村人総出で歓待されることになった。リーリアもまた、無事を盛大に祝福された。
そうして大いに感謝を示され、さらには元々の目的だった買い付けも、お礼の品として、予定していた以上に渡される。そんな荷物を満載にしたイルク車で、総出で見送られながら、俺たちは帰路についたわけである。
高原を下りはじめて、もう後方に村の姿も見えなくなって、俺は幌の中に引っ込んだ。
この分であれば、日暮れまでにはカザディルに到着できるだろう。
「すみません、帰りの御者までしてもらって」
「いいえ、元々そのつもりでしたし、村の英雄をお送りできるなら光栄ですよ」
御者台に座るペリーヌさんにお礼を言い、腰を下ろす。まったく、小旅行を兼ねた買い出しが、こんなことになるとは思ってもみなかった。
「わたし、もうおなかいっぱい」
花冠を頭に乗せたリーリアが、お腹をさすりながら言う。
目を覚ました当初は多少怯えた様子を見せていたリーリアも、宴のご馳走や踊りですっかり元気を取り戻していた。
結局リーリアは、昨夜何があったのかをほとんど覚えていなかった。寝ていたところを突然縛られ、抵抗もできずに運ばれている最中に気を失ったらしい。恐ろしいドラヴの姿も見なかったようで、心の傷にもならなさそうだったのが幸いだ。
リーリアに合わせるように、俺も思いきり膨れた腹を擦った。
「俺もだ、これでもかってほど食べさせられたもんな」
「私も、久しぶりにあんなに食べました」
隣でティオも苦笑している。それほどに大盤振る舞いな宴だったのだ。
「けどドラヴ二匹であの盛り上がり様って、どうなんだ?」
「少し大袈裟、ですね」
まだ基準がわからないので聞いてみたが、ティオにとってもやはり大々的すぎる感謝のされようだったらしい。
「でもセイロガがずっと、そうした脅威と無縁だったなら、こんなものかもしれません」
確かに、セイロガには防護柵もなければ自警団もいなかった。平穏を絵に描いたような村だ。厳しい言い方をすれば、平和ボケしていたのかもしれない。そう思えば、今回の子とはいい刺激になっただろうか。
それに、こう言ってはなんだが。
「悪い気はしなかったな」
「おや」
ティオが乗り出してくる。失言だっただろうか。
「いかがでしたか、今回の『冒険』は」
「ずるくないか、その聞き方」
そんなの、答えは決まってる。本当に肝を冷やしたし、恐ろしい思いもした。それでも、無事に終わった今となっては。
「楽しかったよ。それに、感謝もされたし」
「わたしも楽しかった! ちょっとこわかったけど、ご飯も美味しかったし!」
リーリアもそう言って笑う。彼女になにもなかったからこそ、こう言えるのではあるが。
「前にした話ですけどね、リック」
ティオはまた、行きのイルク車でのように、佇まいを直して切り出してきた。
「冒険者になる、って話、考えてみませんか?」
「……うん」
なんとなく、そう言われる気はしていた。
冒険者にはならない。その理由を、俺は戦う術がないからだ、としていた。けれども、その言い訳は、この一件で半ば潰されてしまった。
「けど、今回はとにかくがむしゃらだっただけだ。あれで戦いに出られる、なんて言えるのか」
そう返すが、ティオにはそれも折り込み済みだったようだ。
「技術的なことを言えば、訓練は必要でしょう。けど、それよりなにより、リックには冒険者の素質があると思います」
「素質って?」
ティオは、指を二本立てた。
「大きくは二つです。すべきことをできる」
「すべきことっていうと」
「ひとつも迷わず、リーリアを助けに行けたこと。それに、ドラヴとの戦いで、自分のやるべきことを見失わずに全うしていました」
それは、それ以外にやりようがなかったからだ。あの局面、ティオと二人で戦うのに、他の役割分担はあり得なかった。
「はじめての戦いで、それを冷静に判断できたのが、リックのすごいところですよ」
そんな風に手放しに褒められると、むず痒いものがある。今までいろんなゲームで学んできたこと、なんてとても言えない。
「もうひとつは、冒険を求めていること。これは、リック自身がよく知ってると思いますが」
そりゃ、そんなもの、求めていないわけがない。ただそれで、本当に危険な世界に飛び込むのは軽率が過ぎるという話で。
けれどもう。
憧れの世界で、剣と魔法の世界で、俺は、危険な敵と戦って、少女を救い出した。
リーリアの無事に安堵すると同時に、俺の中には、確かな達成感があった。その気持ちを、否定はできない。
村の英雄として喝采を受けたときの喜悦を、俺はもう知ってしまった。
冒険者になる。その誘いに、首を振るのがひどく難しくなっていた。
「それに、ですね」
「それに?」
「私が、リックと冒険をしてみたいと、そう思ったんです」
「……そんなの」
ずるいだろ。
ティオに上目使いでそんな風に言われて、どうして断ることができるだろうか。
「……わかった、わかったよ」
「! それじゃあ」
俺はついに、首を縦に振った。振ってしまった。
「やるよ、冒険者。その代わり、これからも色々教えてくれよ」
「もちろんです! よろしくお願いしますね、リック!」
眩しいほどの笑顔で言われ、俺は頭を掻いた。それでティオに喜んでもらえるなら、今までの恩も少しは返せるかな、なんて思いながら。
「冒険者リックの誕生ですね!」
「あー、それなら」
荷車に揺られながら、俺はティオに、改めて名乗り直した。日本人としての本名ではない。それは、いつも俺がゲームなどで使っていた、本名をもじった名前だった。その方が、この世界で名乗るにはうってつけだと思ったから。
こうして、俺のリングアンドでの最初の冒険が幕を閉じた。そして同時に、これが俺の、冒険者としての幕開けでもあった。
この先に待ち構える、想像もしなかった冒険と戦いの日々を、俺はまだ知らない。
後の世。
数多の脅威や謎が世界に降りかかり、数々の伝説や英雄譚が綴られることになったこの時代。
世界を駆け抜けた幾人もの英雄の一人として、冒険者リッケルトの名が人々の口に上るようになるのは、これからもっとずっと後になってからのことである。