第9話
かつて、胸躍る冒険に憧れた。
あるいは、今なお焦がれ続ける、すべての冒険者たちへ。
月の明るさは、この世界に来てはじめて知ったことのひとつだった。
かつては、満月だろうと新月だろうと、それが夜の明るさになんて、なんら影響したりしないだろうと、そう思い込んでいた。どれほど深夜であろうと、眠ることにない街に照らし出される夜空には、月の光も霞んでいた。
だがこの世界での夜は、本当に暗い。街明かりなんてありはしない。あっても蝋燭に灯した火の明かりでは、夜闇を払ってくれたりはしない。
そんな夜の中で、世界を照らしてくれるのは、他でもない月の光だった。
月の明るさは、夜の明るさそのものだ。月が丸ければ夜は明るく、月の欠けた夜には自分の手元すら見るのがおぼつかなくなる。月夜の晩ばかりではない、という言葉の意味を、俺は異世界に来てはじめて実感していた。
「今日は明るいな……」
空一面を埋め尽くす星々の中、それらを率いるように輝く満月を見上げながら、俺はぼんやりと呟く。
昼にも感じたことだが、空気が澄んでいるからだろうか。星空も、カザディルの街中で見上げるよりも、より眩く輝いているような気がしている。
この世界にも星座はあったりするのだろうか? そんなことを思いながら、後ろを振り向いた。そこには、今日の俺たちの寝床がある。
宿泊場所として案内されたのは、普段は集会所として使われているという大きな建物だった。中には広間がひとつあるだけの簡素な造りで、最奥では、すでに火の灯された暖炉が、ぱちぱちと薪の燃える音を立てていた。
広間の壁際にはベッドが並べられており、宿のないこの村で、来客が泊まるための場所として使われているようであった。
奥の暖炉の脇には裏口があり、建物の裏は薪置き場になっているという。
もし薪が足りなくなったら、そこから使っていい、とは言われたが、今日はそこまで寒くもない。朝まで焚き続ける必要もないだろう。
男女の別もない寝床だったが、一夜を明かすだけだし構わないだろう、と俺たちはそのままそれぞれのベッドに入った。なんだかんだはしゃいでいたリーリアは、結局ベッドに入ってすぐに寝息を立てていた。
その一方で、俺はどうしてか寝付くことができず、こうして月の光を浴びに外に起き出していた。
寝付けないほど遠出にはしゃいでいるつもりはないし、むしろ慣れないイルク車での遠出で、身体は疲れている。それなのに、どうしてか眠気が訪れてくれなかった。枕が変わると眠れない、なんていうほど繊細ではないし、それだと俺はこの世界に来てから一睡もできなくなってしまう。あるいは、集会所の中でどこからかずっと聞こえていた赤ん坊の泣き声のせいかもしれない。
気晴らしに表に出て見ると、静寂に包まれ、月明かりに照らし出された村の景観が俺を迎えた。
ただただ静かだ。カザディルでも感じたことだが、リングアンドでの夜は早い。日が落ちたらもうその日は終わり。いくらか夜更かししても、月が天頂に至る頃には、もうみんな眠りについている。そして朝は、日の出と共に起き出してくる。そんな生活サイクルが、リングアンドでは至極当たり前に回っているのだ。
夜を夜として過ごしている。それがリングアンドでの暮らしだった。
「眠れないんですか?」
かけられた声に振り替えると、後ろにいたのはティオだった。外套こそ着ていないが、手には杖を携えている。ティオが杖を手放したところは、俺は見たことがなかった。
「まあな、お月さまに挨拶しようかと思って」
「ふふ、詩人ですね、リックは」
ティオは、そのまま俺の隣に並ぶと、なにをするでもなく月を見上げた。俺もまた、一緒に視線を月に向ける。相変わらずひとつの欠けもない満月が浮かんでいる。
「こんなに遅い時間まで起きてるの、久しぶりで」
不意に、ティオはそんなことを呟いた 。
「俺も。この世界に来る前は、そんなことなかったんだけどな」
この時間じゃ、下手すればまだ仕事中だったかもしれない。少なくとも、ベッドに入り込んで寝ているなんてことはなかっただろう。
「そうなんですか? 夜警でもしてたんです?」
「そうじゃないよ。みんな起きていたんだ」
向こうじゃ、一日はもっと長かった。いつまでも明かりが消えず、都会では、夜の暗さはだんだんと追いやられていくようだった。
街では、夜も昼みたいに明るかったんだ。そう言うと、ティオは複雑な表情をした。
「なんだか、暮らしにくそうな街ですね」
思わず吹き出してしまう感想だった。
「くっく……確かに、便利だったけど暮らしやすくはなかったなあ」
「人間は、夜は眠るようにできてるんですよ。紡ぎ手の話は覚えてますか?」
俺は頷いた。この世界の創造主たちの話だ。
「人間を紡いだエイーラは、夜を紡いだエレインと姉妹なんです。だから人間は、夜に安らぎを覚え、遠く離れた兄弟たる月や星たちに見守られて眠るんですよ」
あるいは、不寝番のように、役目があって眠ることができないものは、エレインにその加護を祈るという。
俺は、すっかりその話に聞き入っていた。
今まで身の回りのことに必死で、それどころではなかったのだが元々、冒険譚や英雄物語に限らず、神話や伝承も大好きなのだ。
「そういうの、もっと教えてくれないか?」
「紡ぎ手たちのことですか? 例えば、食事をいただくときは、テトニアとグロームデインに感謝を捧げます」
「自然と……獣の命?」
「はい、さすが、飲み込みが早いですね。そういえばリックも、食前食後に何か祈りを捧げていますよね?」
祈り、と言われて一瞬考えてしまったが、すぐに思い付いた。俺はこちらの世界でも、手を合わせての『いただきます』と『ごちそうさま』は欠かしていなかった。
「あれも感謝だよ。ただ、紡ぎ手じゃなくて、命そのものや、育ててくれた人、調理してくれた人、食事に関わったすべてのものに対して捧げるんだ」
「命そのものや、関わったすべてに……なるほど、それは、素敵な考えですね」
「そこまで意識することも少ないけどな」
「それでも感謝することは大事ですよ。よければ、いつもなんて言ってるのか教えてくれませんか?」
「もちろん」
そういえば、日本語を教えるのははじめてだな、と思いながら、俺はティオに『いただきます』と『ごちそうさま』を教える。代わりに俺も、紡ぎ手たちへの祈りを教わった。なんとなく、これがはじめての異文化交流となったような気がしていた。
「これからは、紡ぎ手たちへの感謝と一緒に、いただきますも言わせてもらいますね」
「いいと思う。俺もそうしようかな」
「ええ、是非! それにしても、つい話し込んじゃいましたけど、大丈夫ですか?」
言われて夜空を見上げると、月もすっかり高く昇っている。もうそろそろ眠気もやって来たかもしれない。
「そうだな……そういうティオこそ大丈夫か?」
実際のところ、セイロガに来て一番疲れていたのは、ティオではないだろうか。夕食の時も、どうも様子がおかしかった。
だがティオは、どうにも歯切れの悪い様子で言い淀んでいた。こんなティオははじめて見る。
「ああ、いえ……」
「どうしたんだ?」
「正直に言うと、少し疲れてしまいました。もう、今日は休みましょう」
「やっぱり。ごめんな、夜中に付き合わせて」
「いえ、大丈夫です。二人分の子守りで気を揉んだだけですから」
「そうだよな、二人分の……二人?」
なにか聞き捨てならない言葉があった気がするが、ティオは笑って歩き出してしまい、俺も慌ててその後を追った。
◆
集会所の中は、暗かった。
月明かりの照らす外から入ると、明暗の対比で、一瞬目が眩む。周りが何も見えなくなる。
ぱちぱちと薪のはぜる音に目を向けると、いくぶん火の弱まった暖炉が、それでもまだちらちらとした灯りを投げ掛けていた。
「ん?」
なにか違和感を覚えた。
広間の反対側、暖炉のほかに、もうひとつ明かりが差し込んでいる。
裏口の戸が開いている。
そこから、なにかを抱えた人影が、こちらを一瞥して出ていったようであった。
「誰だ、いまの」
開けっぱなしにされた戸を閉めようと、広間へ歩き出す。ティオが背後で叫んだ。
「リック!」
「ティオ?」
振り返ると、ティオがベッドの脇で何かしている。ベッドの上をまさぐっている。
「リーリアがいません!」
「え、どこに」
どこに行った? と疑問が完成するよりも早く、たった今見えた光景が脳裏で結び付いた。
裏口から出ていく人影。
なにかを抱えた人影。
ちょうど子供と同じくらいの大きさの、なにかを。
「ティオ、裏口だ!」
弾かれたように、俺は裏口へ向かって走った。暖炉の脇の戸口から外を見る。
周囲には誰もいない。聞いていた通り薪が置かれている。人影はない。どこに?
「あれです!」
俺の後ろから来たティオが、遠くを指差した。村の中へ駆けていく影が確かにいた。
「待て!」
誰なのか、どこに行くつもりなのか、そんなことを考えている余地は一切なかった。何者かはわからないが、よりにもよってリーリアに手を出すだなんて。
とにかく逃がしてはならない。リーリアに傷のひとつでもつけられる前に捕まえなくては。
無我夢中で月明かりの中を走る。影を見失ってはいけない。
人影は村の中を走っていく。
「誰か! 誰か来てくれ! 子供が拐われた!」
走りながら声を張り上げる。頼むから誰か、あの人影を止めてくれと願いながら。
だが、寝起きの村人たちが出てくるのは、決まって人影が通りすぎたあとだった。
人影は村の中を逃げていく。俺は追い続けた。
やがて村の外れまでやってきた。
「待て、おい!」
「リック、この先は」
追い付いてきたティオが制止するように呼び止めてきたが、俺は構わず走り続けた。
人影はそのまま熊の檻の横を通り過ぎ、東の森の中へと駆け込んでいく。
構うもんか。俺もそれを追って、森へと飛び込んでいく。ティオも一緒に。
途端に視界が狭まる。月明かりが木々に遮られ、見通しが悪い。足元だって見えやしない。
それでも足は止められなかった。幸いまだ人影は見えている。もう息をするのも苦しくなっているが、それに構ってもいられない。飛び出た枝で頬を切っても、無視して走り続けた。
どこまで逃げる気なんだ。いい加減に諦めてくれないか。リーリアを放してくれ。
願っても人影は止まらない。
足が木の根に引っ掛かった。
「うわっ!?」
顔面から転びそうになり、すんでで腕を出した。身体はそのままごろごろと三回転して止まった。
「リック、大丈夫ですか!?」
「平気だ! けど」
俺は擦り傷程度でなんともない。だが、起き上がって前方に目をやると、追いかけていた人影は、木々の影に隠れて見えなくなってしまっている。
「くそ、どっち行った!?」
「わかりません、見えませんでした」
なんでだ。
今更のように疑問がやって来る。誰だ、なんでリーリアを拐った。そんな、考えたところでどうしようもない疑問がぐるぐると脳内を駆け回り、本当に追わなければいけない相手を見失った事実から目を逸らさせようとしてくる。
追わなければ。頭を振って余計な考えを頭から追い払い、どうにか相手の姿を探さねばと辺りを見回す。
どこに行った。どっちに行けばいい!
その焦りに、森の影が答えた。
男の叫び声が聞こえてきた。
「今のは」
「こっちです!」
駆け出したティオに続いて、森の木々の間を縫って進む。
果たしてそこには、男が一人倒れていた。たぶん村人だ。昼間見た覚えのある顔だった。
男は右手で肩を押さえて呻いている。その肩には、縮れた矢羽根を持つ矢が一本。
「大丈夫か!?」
「う、うぅ……」
その時、俺たちの来た方から、がさがさと枝葉を踏みしめてこちらに近づいてくる複数の足音が聞こえた。それに、松明の灯り。
「村の人たちみたいです。おーい! こっちです!」
ティオが声をかけると、それに導かれ、村の人たちが姿を現した。男性ばかりではなく、女性もいる。みな斧や鍬を手にしていた。
「どうした、何があったんだ!?」
「待ってくださいね、少し痛みますよ」
言いながらティオが、男の肩に刺さっていた矢を引き抜いた。
「ああああああ!」
男が苦悶の声を上げる。引き抜かれた矢は粗末な作りだが、矢じりには小さな返しがついている。俺は思わずその痛みを想像して、顔をしかめた。
「今夜が満月で助かりました」
そう言ってティオは杖を手にすると、なにか聞き慣れない言葉を呟きはじめる。
すると、どこからか小さな光がいくつも現れ、ティオの差し出す空いた手の周りをふわふわと漂った。その手を傷口にかざすと、みるみるうちに傷が塞がっていく。
周りで見守る村人たちのどよめきを聞きながら、あれは俺ははじめてティオに会ったあのときにかけてもらった魔法だと、獣に襲われた日のことを思い出していた。
「光の精霊は人の肉体が持つ力を引き出してくれます。月の光は特に癒しの力が強いんです」
ティオの精霊術をきちんと見たのは、このときがはじめてだった。
男が落ち着いたのを見ると、ティオは肩から抜いた矢をためつすがめつ観察し、目を見開いた。
「これは、ドラヴの矢です」
ティオが魔法を使ったときよりも大きなざわめきが、周囲で起こる。
「ドラヴ……って?」
「ドラヴは穢れた種族です。ヤーシェダによって闇と共に紡がれた……何があったのか教えてください」
ティオが男に詰め寄ると、唇を震わせながら話し出した。唇だけじゃない、射抜かれた肩も、それを押さえる手も震えている。
「そ、そうだ、ドラヴがいたんだ。ドラヴが二匹も……」
「じゃあまさか、そいつらがリーリアを」
「そうだ! 女の子がやつらに連れていかれちまったんだ!」
俺にはまだ、そのドラヴというのがどういう種族なのかわからない。だが、周りの反応を見る限り、そして男に射かけられた矢を見る限り、拐われたティオがどうなるのか、よい結末はひとつとして思い浮かばない。
「ティオ、ドラヴは人間を襲う、んだよな」
「そうです。子供を拐ってどうするつもりなのかは、想像もしたくありません」
俺は立ち上がる。こんなところでのんびりしている場合じゃない。
「急いで追いかけよう、リーリアを助けないと!」
だが、俺の声に反応してくれる村人は、一人もいなかった。みなが目を逸らし、俺の言葉に口をつぐんでいる。
「ど、どうしたんだよ。早くいかないと、リーリアがなにをされるか」
「無理だ」
斧を持った男が答えた。
「私たちにドラヴと戦う力なんてない」
気付けば俺は、男の胸ぐらを掴みあげていた。
「ふざけるなよ、見殺しにするのか!? その斧はなんのために持ってきたんだよ!」
男は目を逸らしてなにも答えようとしない。周りの誰も、なにも答えない。
思わず振り上げた手に、誰かがしがみついた。
「ダメですリック! 彼らに怒ってもどうにもなりません!」
ティオだった。
そうだ、こんなところで時間を使ってる場合じゃないんだ。
俺は男から斧と松明を取り上げ、森の奥へと一歩進む。俺たちを取り囲んでいた村人が、怯えるようにその進路を開けた。
彼らが臆病なのではない、これが普通なんだと、血の昇った頭で理解しようとはしても、焦りと、誰に向けるべきかも見失った怒りが先に来ていた。
「リック、どうするつもりですか?」
「決まってるだろ! リーリアを助け出すんだ!」
ティオが、俺の行く手に塞がるように立った。
「一人でどうやってドラヴを探すんですか」
「それは……」
俺は言い淀むしかない。森の中でドラヴとやらを探す術なんて持ってはいない。こんなことをしている間にも、リーリアになにがあるかわからないというのに。
「落ち着いてください、リック」
ティオは、そんな俺の焦燥を払拭するように、月明かりに照らされながら、不敵な笑みを浮かべた。
「私は冒険者、フェルメルの精霊術士、リンデンのティオニアンナ、あなたの先生ですよ? こんなときに私を頼らなくてどうするというのですか」