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3 海(2)

「私自身この名をそれほど愛しているわけでもないわ。それでも敢えて言うけど、うちは『赤い風船』なのよ……壁が真っ青なんて」

 戸口にもたれかかって樹理が呻く。かなり落ち込んでいる。

 香雅里は懸命に言葉を探すも、何も思いつかないままその絵に近づく。


 刷毛を振り下ろし、一気にひいた躍動感があふれている。ところどころの塗り残しは、波の泡にも空に浮かぶ雲のようにも、ウミネコの腹のようにも見える。

 腕を伸ばしてみると、高い位置には届かなかった。

 やっぱりあの人背が高いんだ、と確認。下の方は結構粗い。しゃがんで描いたんだろうか。海を広いなを口ずさみながら? 床すれすれの位置を塗るときはどんな姿勢だったんだろう、としゃがみこむと、床に滴ったペンキの跡を見つけてしまった。


「嬉しそう、香雅里」

 突然、上から声をかけられて、香雅里は慌てて樹理を見る。

 慌てすぎて、笑みを消し損ねた。


「すっごーーーーく嬉しそうよ」

「そ、そう? そんなことないよ。やっぱり有島さんって非常識なんだなって思ってたところだよ。床とか、ほら。迷惑だよね」

 香雅里が焦って指摘すると、樹理もしゃがみこむ。黒ずんだ木目に鮮やかに滴ったペンキ跡を見つけて、「こんなところまで」と呟いた。

「許せない。あの絵描き」


「おっす。おはようございまーーす」

 まさにそのとき、のんびりとした声が食堂に響いた。樹理はびくりと肩を震わせ、香雅里は息を止めてしまった。

「麦茶もらいにきましたー」

 顔を上げてみれば、くわえ煙草の有島がオープンカウンターの向こうに進みかけ、肩越しに振り返った姿勢でいた。その目が香雅里をとらえて、にわかに生気を帯びる。

「かがりちゃんだっけか。おはよう」

 しゃべった拍子に煙草を落としかけ、指でつまむ。

 身体の大きさに見合う、大きな手。長い指。暗い色合いの赤い長袖シャツが似合っている。と思ったところで、挨拶を返さなければと気づいたものの、頭の中が真っ白で言葉が出てこなかった。


 

 ようやくひねり出したのは、樹理の視線も意識して少しだけ非難がましいセリフ。


「有島さん、この壁は……」

「んー。オーナーさんには滞在費がわりに受け取ってもらったから」

「オーナーさんってうちの父親に? このラクガキを売りつけたって意味かな?」

 樹理が小声ながらも非難をめいっぱいこめた耳打ちを香雅里にする。絶対に聞こえる音量で。


 有島と樹里に挟まれた立場の香雅里は、返答に詰まる。

 カウンターの上にあった灰皿に煙草を押し付けていた有島は、のーんびりとした調子で言った。


「聞こえてるよー。俺らの滞在費は町から出てるけど、それだけじゃなんだなってことで、有島隆弘からのスペシャルプレゼント」

「嬉しくないわ……」

 開き直ったのか、面と向かいはしないものの、樹理はさらにはっきりと有島に聞かせる音量で呟いた。


「そぉ?」

 有島は愉快そうに答え、早くもポケットから煙草を取り出して、銀のジッポで火をつけている。

 下を向くと長めの前髪が頬骨のあたりまでかかっていて、少し間違えると火がついてしまいそうだった。


「コレ、寝ぼけて描いたんですか?」

 香雅里の問いに、顔を上げた有島は悪びれなく頷いた。

「うん」

 煙草を指にはさんで口から離し、香雅里を見て続ける。

「どう、天才の仕事?」

 何を言われたのか咄嗟にはわからず、理解できたときには勢いよく立ち上がっていた。

「いいえ、全然。子どものラクガキです」

「言うねぇ」

 有島は煙草をくわえ直すと、長卓と窓際のテーブルの間を抜けて自分の描いた絵のもとへと歩み寄ってきた。スピードこそ感じさせなかったが、大股なのですぐにたどりつく。

「どのへんがダメだ」

 香雅里には一切視線を向けぬまま、絵を見つめて言った。


「ダメとは言ってないですけど」

「ラクガキに見えるんだよな」

 おっとりしているくせに、真剣さが透けている。

 負けられない、と香雅里も絵を見上げた。


 勢いがあったせいか、青の飛沫がところどころ散っている。刷毛は迷いなく壁を進んだようだ。気持ち良いくらい、ぐいぐいと進んでいる。見ていると、自分の手の中に刷毛があるような気がしてくる。今にも、腕を伸ばして、ぐいっと力強く青を塗りたくなる。思ったそばから、身体が動いた。


 空を掴んだ手が、海を描く。

 一塗り。

 返して塗るにはペンキが足りない。

 一度バケツに刷毛を突っ込んで、床に滴っても気にしないでもう一塗り。


 それだけの動作によほどの緊張を強いられたのか、息を止めてしまっていたらしい。肩で大きく息を吐いた瞬間に、自分の手の中には何もないことを思い出した。


 そのことが不思議で、「海」を見た。


 たったいま自分が描いたと錯覚してしまいそうなほど、壁の青は力に満ち溢れている。


「これを鼻歌まじりで描いたとは、どうしても思えない……」

 空の手に視線を落として香雅里が呟くと、有島がおっとりした声で答えた。

「あー、それは当たってるな。そこは、そう、力が必要だった。いまやったみたいに」

 有島の口から煙草が落ちる。

 まだしゃがみこんでいた樹理が悲鳴を上げて拾い上げていたが、有島の耳には届いた気配はない。


 




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