3 海(1)
芸術祭が始まる。
たった二人が現地入りしただけで、空気が変わり始めていた。
おそらく、香雅里自身敏感になっていたということもあるだろうが、三日もすると小さな町ではすぐに噂が飛び交い始めていた。
有島はザルのように飲み、凪人はまったくの下戸。という夜の会合における二人の噂もあれば、真っ赤な車で町内を回っている凪人があちこちで写真を撮っているというもの、有島が寝ぼけて世話になっている民宿の壁に大きなラクガキをしてしまった、という笑えるかどうか微妙な話まで様々だった。
なお、最後のラクガキの一件に関しては。
「事実よ。最低よあの男」
当の民宿の一人娘で、現在は彼らと同じ屋根の下で暮らしている香雅里の同級生、野崎樹理が証言を添えた。
「止める間もなかったの。朝方突然ふらっと食堂に現れて、『早いんですね』って声かけたけど返事がなくて。手にペンキと刷毛を持ってて、どこから見つけてきちゃったのかな、と思ったら、いきなりよ。本当に、突然壁一面に青ペンキを塗り始めたの!」
小さな拳を握り締め、震えるほど力説。
二つに結んだ天然パーマのかかった天然茶髪まで細かく揺らしながら、くっきりとした瞳を見開き、形の良い小さい唇を震わせて続けた。
「しかも『海は広いな』を鼻歌で歌ってたのよ! バカ? この男はバカなの? ってあのチンピラもどきを呪いたくなったわよ。ちゃんと見張っててほしいわけ」
「チンピラもどきってまさか勅使河原さん……。いや、でも、有島さんのその所業は、とりあえず勅使河原さんには関係ないと思う……」
ところは、問題の民宿『赤い風船』の玄関。
部活ばかりもしていられず、受験勉強のためと来たものの、出会いがしらの熱弁に呆気にとられていた香雅里だった。
気を取り直して青の水玉柄のビーチサンダルを脱いで揃え、スリッパに履き替える。
民宿というよりも、『赤い風船』はどちらかというとペンションと呼んだ方がしっくりくる外観、内装をしている。
真っ白の外壁に真っ赤な切妻屋根。
海からの潮風にさらされて傷みもあるけれど、オーナーである樹理の父はよくペンキ塗りをしている。それが苦ではなく、むしろ好きらしい。
一方、中はといえばまるで外国の物語に紛れ込んだような内装となっている。香雅里が思い浮かべるのは『赤毛のアン』。
きしむ木の床に、きれいな白い壁。
廊下を進むと右手には、午前中の涼しい光の差し込む食堂。
足を踏み入れ、向かって正面には大きな窓。十人は座れる長方形の卓があり、窓際には四人掛けが三つ。左手には調理場に続くオープンカウンター。そして右手は真っ白の壁。
「……うわぁ」
小花柄のワンピースを着た樹理の後について食堂に案内された香雅里は、記憶とはたしかに違う光景を前に声をもらしてしまった。
海だった。
真っ青な海が空いた右手の壁一面に塗りたくられていた。
窓からの光を浴びて、きらきらと伸びやかに輝いている。