2 画家と写真家(1)
いくつも並んだ大小のキャンバス。
誰かが取り組み中の木彫りの海猫は、広げた翼に彫りカスをまとわりつかせたまま机の上に鎮座している。
夏休みを迎え、授業での使用を気にしなくなった途端、美術室は部員たちによって使いたい放題の空間になっていた。香雅里を含めて九人の部員はみなそれぞれ出品の予定で制作を進めてきた。
開け放した窓のそばで、黄ばんだカーテンが揺れていた。
「お、海見える、いいなー」
有島はそう言うなり、案内してきた香雅里の横をすり抜けて、美術室の中へと踏み込んで行った。足元に落ちていた、絵具のこびりついた梅皿を器用に避けて歩く。
洗いざらして白っぽくなった黒いTシャツ。肩幅があり、背中は広い。
「風がさ、いいよね。きれいだ」
まるで風が目に見えているかのように、凪人もそう言って有島の後を追う。手ぶらの有島とは違い、凪人は重そうなバッグを抱えていたが、窓の下の空いた空間にそれをおろした。中から取り出したのはずっしりと重そうなカメラ。
窓枠に両手をついて髪をなびかせていた有島が、肩越しに振り返る。
「準備オッケー?」
「オッケー」
短いやりとり。
立ち上がる凪人。
両手は窓枠に置いたまま、腰を預けるようにして室内に向き直る有島。
「よし、はじめるか」
肩で空を切る。
大きな歩幅で前に進みながら、窓から離した手を身体の前で打ち合わせた。
シャッター音が同時に響く。
有島の強すぎる視線が、戸口に固まっている部員たちに向けられる。
カメラをずらして、凪人が楽しげに微笑んだ。
「早くしろ。時間が足りなくなる」
低い声。
有島のまとう空気が、ひりつくほどの緊張感を立ち上らせている。
一度その流れに乗り遅れると、飛び込むのを躊躇してしまうほどの切り替えの早さだった。
実際、誰もついていけてない。
美術部の面々に、無言で鋭い視線を投げてから、有島は片手で前髪を後ろに流す仕草をした。しゃがみこんで、凪人のカバンに手をつっこむと、白無地のタオルを取り出し、頭に巻きつける。しゃがんだ体勢のまま首をひねるように振り帰り、ひた、と香雅里に焦点をあてる。
「かがりちゃん。見て欲しい絵はどれだ。俺は厳しいよ?」
咄嗟に、言葉が出てこなかった。
香雅里は唾を飲み込んだ。言い終えると同時に、くしゃっと破顔した有島に見とれたせいとは、絶対に思いたくなかった。
「絵は……」
有島がしゃがんでいる、その横のイーゼルに描きかけが乗っている。
目が泳いだのを、有島は見逃さなかった。
「これか」
言うなり、立ち上がる。香雅里は息を呑んで駆け出した。
「見ちゃだめです!」
なに? と有島が足を止めたすきに走りこんで、キャンバスを身体でかばう。
遅れて有島が香雅里の前に立つ。
「見えねぇぞ」
「それでいいんです」
勢いで飛び掛ったときは無我夢中だったが、あらためて対峙した有島は、香雅里が首を傾けなければ視線を合わせられないほど背が高い。
そしてやっぱり、澄んだ目をしていた。
「何がいいんだ」
声は平らかに凪いでいて、機嫌の良し悪しはうかがい知れない。表情からも。
香雅里は意を決して言った。
「まだお見せするほどの出来ではないんです」
有島は、かすかに眉根を寄せた。
「それ本気で言ってたらバカだぞ」
「バカです」
売り言葉に買い言葉で答えたら、有島はバカの押し売りを始めた。腕を組んだ姿勢で、表情をろくに動かさぬまま香雅里がくじけたくなるほど、バーカバーカバーカと。
香雅里がうっと表情を変えたところでようやくストップ。
「高校生が。気取ってるヒマあったら技術の一つでも盗むつもりでこいよ。絵なんて見られてナンボだよ。自分のためだけに描いてるってなら別だけどな」
そして興味を失ったように、ふいっと香雅里の前から移動する。
「他の連中が来るまで、せいぜい町内の空気を盛り上げておけってお達しが出てるんでな。しかもなんだ、全員芸術祭に出品予定なんだって?」
格別大きくもないのに、よく通る声だった。
どこかで聞いた声だな、という記憶は最近ではなく、香雅里の心の中に沈み込んでいた一枚の絵にたどりついていた。
音無しの底。