1 あの絵のひと(1)
五月。
連休明け。
朝のざわめきの中、生徒通用口で靴を履き替えて、リノリウム床の廊下に踏み出す。
正面、並んだ窓の向こうには、明るい陽射しに照らされたグラウンドが見えていた。乾いた土埃が風に舞う中、ユニフォーム姿の野球部や陸上部が朝練している。
元気だなあ、と横目に通り過ぎようとしたそのとき、窓に貼られた見慣れぬポスターが目に飛び込んできた。
『御崎町芸術祭 八月二十四日~ 』
“なんの変哲もない”
“センスのカケラもない”
“いかにもお役所仕事の”
“学校祭と見間違えるような”
およそ、田舎町の役所が作ったときに囁かれる揶揄や批判は一つも当てはまらない。
目を奪われる。
一目で、あのひとの絵だとわかった。
(有島隆弘の絵だ)
圧倒的な星空。
誰も見たことがないはずの、銀河の涯。
暗い下地に、宝石を砕いて作ったかのような岩絵具が、金色を纏って叩きつけられている。
それでいて、乱雑な印象は微塵もない。
麗しい輝きの奥に、透徹とした静謐がある。
さんざめく光の華やかさ。星々の瞬きと煌めき。賑やかな画面は、耳を澄ませてみても厳然として無音なのに。
キラキラと、細かな金属がぶつかりあう澄んだ響きが鳴り始める。
「あ、これ。香雅里気になる? 学生部門もあるからね、うちの美術部はみんな出品するのかな?」
立ち尽くしていた香雅里の横に、ふわふわ茶髪の女生徒が肩を寄せてきた。
ポスターを見上げている。
野崎樹里。小学校からずっと一緒の、幼馴染だ。
御崎町は小さな海辺の街で、高校はひとつしかない。
香雅里はその唯一の高校の美術部部長。
「三年生は一学期で引退だから、どうかな。日程的には夏休みだし」
「香雅里ちゃん、出せば良いのに」
樹里の言葉に香雅里は曖昧に微笑んでみせた。
キリリ、と胸が痛んでいる。
(描けるものなら描く。だけど、最近、筆が迷う。線が決まらない。自分の絵は何もかもが間違いのような気がしている)
有島隆弘の絵を見た、あの日から。
自分の描いているものは、「絵」ではないように思えてならない。
恐れを覚えながら、ポスターにちらりと視線を向ける。
(絵が描けない私には関係のない話)
そう思いながら目を離そうとしたそのとき。
招聘アーティスト一覧の中にその名前を見つけた。
有島隆弘
(ポスターに採用されているんだし。当たり前か)
日本画家。
たしかまだ二十八歳。大学を卒業したかどうかの若さの人。
知ってる。
以前、その絵を見たことがある。
名前を見ただけで、そのときのことを思い出していた。
川の絵だった。
暗闇を流れる一筋の川。
たまたま香雅里の絵がそれなりの賞に引っかかって、運よく展示された都市に他の部員と見に出かけた二年生の秋。通りすがりの画廊のウインドウで見かけた。
慣れない雑踏の中、道を見失わないように顔を上げて歩いていた。
はしゃげる体調ではなく、友人たちとは別行動。
視界には、急ぎ足で歩く知らないひとばかり。
一人の解放感と、失敗できない緊張感で一足ごとに踏みしめるように進んでいた。
少しだけ耳鳴りと頭痛がしていた。
水の流れる音が聞こえたのは、そのときだった。
はじめ、どこから聞こえたのかわからなかった。幻聴だと思った。見渡しても人の波。ビルに区切られて見える空はぼんやりとした青。雨の気配もない。
けれど、音を探して首をめぐらせたときに、確かに再び聞こえたのだ。静かで、それでも力強いせせらぎが。
海の町でなじみのある、寄せてはひく波の音とも違う。
それは流れる水の音。
「……川だ」
こんな街中に? といぶかしみながら香雅里は注意深くあたりを探り始めた。
頭の中にしみこむようなその音に、そうと意識はしていなかったものの集中力が戻ってきていた。
やがて一枚の絵に行き着いた。
しばらくその意味がわからなかった。
写実的に風景を描いたものとは、違う。明るく華やかで目をひくようなものでもない。まして映像でもない。音など携えているわけがない。
ただ、ウインドゥの向こうにあっただけだ。
けれどその絵の存在を意識にのぼらせた瞬間、三度あのせせらぎが頭の中で響き始めた。