エピローグ
予定は滞りなく進み、迎えた前夜祭。
そして本祭。
芸術祭は想定された以上に一部は盛況であった。
町内各所に散らばった展示会場は若干ばらつきはあったものの、客数がゼロということはなかった。厳しいが、興味をひき、「見てもらう」のは難しい。初の試みだった行政だけでなく、参加アーティストそれぞれが課題にすべきところだった。
高校を会場にした鷺沢香雅里(協力者との共同制作)の展示にも、客は来た。場所柄、わりに賑わっていた。
後夜祭では町役場の駐車場で大きなキャンプファイヤーが焚かれ、そこそこ遅い時間まではめをはずして騒いだらしい。
朝が来たら、町は夢からさめたように日常を取り戻していた。
* * *
木立に囲まれた石段を、香雅里はのんびりと下りてきた。
町から芸術祭の熱が去っても、有島の描いた絵は寺に残っていた。見てきたばかりのそれを目裏に浮かべながら、一段一段下りていたのだが、足をとめ、ついには座り込んだ。
樹齢何何年という太い幹が両脇に立ち並び、むせかえるような緑の間から、まだまだ強い日差しがまばらに足元に落ちている。
「暑い……」
どれだけ経った頃か、そう呟くと石段をわずかに覆った砂を踏みしめる音が耳に届いた。
「暑さなんか飛んだと思うけど。良い絵だっただろ」
足元に、影が落ちている。
「……もう帰ったんだと思ってました」
「帰るよ」
そう言ったくせに、有島は香雅里の横に腰を下ろした。
「今日は煙草吸ってないんですね」
「切らした」
「死なない?」
「ん。いまのところ大丈夫そう」
最後になるかもしれないのに、意味のない会話をしているなと思った。肩が触れそうで触れ合わぬ距離。
風が吹いて、有島の気配が消えた気がした。心細さに香雅里はついそちらに顔を向ける。その後頭部を有島の手に押さえられた。
「俺のことが好きなの?」
額がぶつかり、香雅里は目を閉ざした。
呼吸を整えて、告げる。
「絵が。作者に会いたいとは思っていましたが。好きなのは絵です」
感情が昂った瞬間、キスをしていた。
されていたけど、嫌じゃなかった。
だけど、それは他に方法がなかったからのような気がする。
絵筆を通じて、あまりにも魂が近づきすぎて、二人ともどうしようもなくなっていただけ。
「ありがとう。俺の絵を好きでいてくれるひとがいる限り、俺は絵描きでいられる。結局はそれが一番なんだ」
どちらからともなく、距離を置くように離れながら見つめ合う。
「私も……。私もそう在りたい」
不意に苦笑いを浮かべた有島は、胸のポケットに手を差し入れる。空振りだったらしく、前を向く。
紡ぐ。
「面白かったな。絵を描くの。それがまだ続いている。俺は自分の絵は自分の絵だよ。ひとと一緒に描きたい気持ちなんかない。だけどあのとき、楽しかったんだよな」
有島みたいに絵を描くひとは、一生それが続くひとのような気がするのだけど。
「息絶える瞬間の詩みたいだった。こんな詩を歌いながら死ねたらいいのかもなって思った」
「それは有島さんの襖絵です。全然敵わない」
香雅里の言葉に、有島は目を閉ざしながら俯いた。顔を両手で覆う。目に見えない何かを追いかけるように。
「本当に一瞬な。掴んだと思ったそばから消えた。いつだってそうだ。満足なんかできない。自分は駄目だなって思うし、また描きたいと思うし、まだまだ描かないとって思うし。本当にそれだけ」
そう言った有島は再び胸ポケットを探り、空振り。
うるさい手だと、香雅里が咄嗟に押さえようと手を伸ばすと、逆に握り返された。そのまま指先に口づけられて、唇が触れるほどの距離で、手に向かって囁かれた。
「この手、好きだな」
言い終えて、有島は立ち上がった。
海が遠いせいか、波の音は聞こえない。
ただ、去っていく後姿を見た瞬間、耳の奥に確かにせせらぎの音が響いた。
月光。
そして雷鳴。
木立の向こうには澄んだ青空が見えていた。
香雅里は、立ち上がって、数段先を行く有島に精一杯声を張り上げて言った。
「いつか、近いうちに、絶対、有島さんのところに、有島さんの絵を見に行きます! あの、私の絵を持って! 満足する絵なんかすぐには描けないと思うし、持っていったからってべつに認めてもらいたわけじゃないんですけど!!」
うまく言えないままの、ごちゃまぜの感情を叩き付けるように。
有島は振り返らず、ただ木漏れ日を掴むように手をあげた。その申し出をたしかに受け取ったというように、光ごと握り締めた。
(了)




