9 欠落と飢餓の生命(2)
話し声。
凪人、一人じゃない。
光の届くところまで歩いてきたのは、想像したとおりの二人組。
「なーんだ、やっぱ全然進んでねぇのな」
「そうそ、言ってやって有島。この子まだなんかためらってんのよ」
味方してくれるかと思ったら凪人までそんなことを言っている。咄嗟に弁明できない香雅里。かわって樹理が立ち向かう。
「灰が落ちるわよ! 屋内でのくわえ煙草はやめて! 最低!」
頭にタオルを巻いたままの有島は、おそらく仕事帰り。
煙草を口から外して、隣の凪人に「怒られた」と小声で呟いて「自業自得」と返されていた。
それから、ちょっと悩むような表情をする。
凪人が嫌そうなため息をついて胸ポケットから携帯灰皿を取り出しつきつける。そのやりとりはあまりに早くて、香雅里が目をしばたいて見たときには有島はすでに新しい煙草に火をつけていた。
樹理が聞こえよがしな溜息をつく。
有島はそれを黙殺した。
口から煙草を離し、煙を吐きだし、香雅里の顔を見据える。
「何ためらってんの」
「ためらってるんじゃなくて……待っているんです」
「何を」
「有島さんは。そういうことないんですか」
少しだけ、有島は首を傾げた。
目は逸らさない。
寡黙に見つめ合ったそのとき、視線の交わる場所の空気が息を潜めて退いた感覚があった。
二人の間の、距離と時間が途絶える。
床に向けられた煙草の先から煙が立ち上り、黒くなった灰が落ちる。
有島―、と凪人が咎めるように言うのと、樹理が悲鳴を上げるのがほぼ同時。
凪人はすみやかに有島が差し出した煙草を回収。
有島は、香雅里から目を逸らさず、ほとんど無意識のようにその動作を終えて近づいて来る。
階段は使わずに、手を一瞬だけ舞台上の床についてひらりと飛び乗る。
「何を待ってる?」
あくまで言語化を要求するのかと、香雅里は眉根を寄せて考え込む。
その手から、有島が刷毛を奪い取り、キャンバスに向かう。
「赤……」
そこではじめて色に気づいたように呟いた。
横目で香雅里を見る。
それから無垢の刷毛を探すと、しゃがんで拾い上げ、そのまま缶につっこむ。何をする気だろうと見ると、そのままの体勢で香雅里を見上げて言った。
「二刀流」
「まさか」
「じゃあひとつはやる」
立ち上がった有島に差し出され、受け取る。
有島はすぐにキャンバスに向かう。
広い、白いキャンバス。
まだ何も描かれてない。
二人で並んで見つめる。
「俺はさ」
香雅里にしか聞こえない音量で有島が囁いた。
ほとんど顔を動かさずに香雅里が見ると、目元だけで笑っていた。
「たぶん、君に少しだけ甘いんだ」
「……なに」
「君もそうだ。俺には少しだけ甘い……気がする」
何の話をしているのか、わからなかった。
わからないまま見上げると、目を閉じ、口元に微かに笑みを浮かべた有島が、空いた手で拳を作り、自分の胸をトントン、と叩いた。
目を見開いてその動作を見つめると、視線を感じる。薄く目を見開いた有島が、香雅里を見て低く囁いた。
「待ってたもの、来ただろ」
その後の動作を、香雅里は自覚していない。
先に動いたのは有島だった。
踏み込む。
真一文字に左から右へ切り上げる。
「渇いてる」
呟いて缶に刷毛をつっこむ。
思い直したように刷毛を床に置き、缶をひっつかむ。
「そこにいると危ないぞ」
少しだけ甘い、その分だけギリギリの忠告。
ほぼ同時に香雅里は身体を退いていた。
その侵入を、許している分だけ。
キャンバスに距離を置き、有島は缶を振り上げる。止める間もない。真赤の滝が音を立てて流れる。
返り血のような滴を浴びて有島は不敵に微笑む。
赤以外にも缶は用意してあった。
有島はすでにそれを把握していた。
キャンバスを背にし、床に並べてあった刷毛を掴むと今度は黄色の缶につっこむ。振り返らぬまま、左の手に持ち替え叩きつける。
唇をつりあげて笑い、香雅里を見る。
「このままだと俺の絵になるぞ」
挑発。
もちろん乗る。
気がついたら凪人と樹理も舞台に上がってきていて、缶の蓋を片っ端から開けていた。
視界にその姿は入っていた。
でも見えているのは有島だけだった。
香雅里に背を向け、キャンバスを見ている。肩の広い、大きな後姿。
「黄色、そこ違う」
「そう?」
振り返った有島が面白そうに聞き返してくる。
香雅里はその腕に掴みかかり刷毛を奪い取ると、有島がぶちまけた赤の中心に振り下ろした。
有島が、唇に笑みを浮かべる。
「なるほどね」
「ほんとにわかってます?」
生意気なのは重々承知ながら香雅里が尋ねると、有島は絵を睨みつける。
「さて。次の一手が正解なら」
有島に、黄色の刷毛を差し出したのは凪人。当然のように受け取って、香雅里ののせた黄色の上に置く。そこから、勢い良く跳ね上げる。
「正解?」
思いがけないほど至近距離で、屈託のない笑みを向けられて香雅里は違うと言い損ねた。
なるほど、少しだけ許してる、と思う。
でもこれは香雅里の絵だから、許すのはほんの一瞬。本当に少しだけ。
樹理の差し出した刷毛が赤であるのを確認して、有島のひいた黄色の線を潰す。
「おい」
「ちょっと違うの」
「ふーん」
機嫌を損ねた声。続く動作をその場にいた全員が、有島以外の全員が予測した。
「だめでーす! 煙草禁止!」
「右に同じ!」
「同じ!」
樹理、凪人、香雅里と三人に言われた有島は、いいだけむくれて「吸わねーよ!」と声を張り上げる。その勢いのまましゃがみこんで黄色の缶を掴む。
「また『滝』ですか!」
「その方がいい」
香雅里の確認を肯定し、再び缶をふりかざす。
キャンバスの上ではぜる黄色。
床を叩く水音。
このままだと本当に丸ごと持ってかれると香雅里もムキになり、有島もひかず。
結局キャンバスが色の洪水になるまで二人は続け、いつの間にか介添え人は退去。
どこかで鳥のさえずりが聞こえた頃、ようやく動きを止めて絵を眺めていた。
「……いいんじゃねぇの」
今にも、キャンバスから色が飛び出して竜巻みたいに襲い掛かってきそうだ。
見ているだけでも、引きずり込まれそうな危うさがある。
(向こうに側に、見たこともない世界が広がっている)
両手を伸ばしても足りない、縦にも横にも広い絵のその先に。
記憶に焼き付けるように見つめて目を閉ざした瞬間、青は青空と噴水となり、赤は連なる街並みの屋根となり、黄色は道になる。
異界の住人たちが、さえずるように話しながら行き交う。
香雅里の横を黒髪の少年が走り抜けた。
目で追いかけると、気付いたように振り返る。
同時に、その場のすべての目が香雅里を見た。
絵の世界に引きずり込まれる。