8 祈り
照らす光と、炸裂する光。
有島は何を思ってそんな題材を選んだのだろう。知りたい。わからない。知りたい。
おそらく背景は夜の闇。
清らかで少し冷たい月光。
いまひとつは、地上を目指す光。
目を閉じれば浮かぶ。その相反するようでいて等しく「光る」という性質を持つふたつの光が。
あの人らしい、と香雅里は思った。
静謐と激しさと。
あの人は描く。描き切る。あの強靭な肉体、引き締まった腕、大きな掌、しなやかな指を持って。
畳の間では煙草も吸えないだろうから、目を閉じ意識を集中させ。タイミングをはかり、覚醒。そして。
祈りを込めて、筆をおろす。
その動きを自分の肉体に再現し、香雅里は閉ざしていた目を見開いた。
目の前には、広いキャンバス。
ベニヤ板に貼り付けられた布。
高さは二メートル。幅は十メートル。
場所は学校の体育館の舞台の上。
準備に時間がかかったせいで、もはや夕闇が迫り、運動部の人間もひいていた。
その場にいる人間は香雅里と、凪人と、手伝いに来た樹理。相談したらいとも当然のように協力してくれた。
友達がいることも忘れないで、と。
(勅使河原さんも、本当はそうやって有島さんのそばにいたいのかもしれない)
それでも凪人はいま香雅里の後ろにいて、香雅里の動きを注視していた。
筆でまかなえるとは思えなかったので、樹理の父からペンキ一式を借りてきている。
有島が喧嘩を売ってきた以上は「条件を揃えろ」と指定してきたのは、この大きさ。
順位や勝ち負けを争うものではないとはいえ、「アーティストとして芸術祭に参加する」ということ。
高校の体育館は、ここにきて半ば無理やりスタンプラリーに組み込んでもらった。
「できるだけたくさんの人に見られた方がいい。そんなに甘いものじゃないけどな。俺は場所の条件が悪いし、部長はただの高校生だ。一人でも二人でも、『あれは見た方がいい』と口コミで人を呼んでくれるひとをうまくつかめるか。絵を見てもらえる、ひとを呼べる人間なんか一握りもいない。俺がやろうとしていることはそういうことだ。部長は? ただ上手い絵を描いたってひとなんか動かせない。だまって展示していれば誰かが褒めてくれると思っているなら甘すぎる。『どうしても見たい』『他にどんな絵を描くのか見たい』『手元に欲しい』売る売らない、それで食べて行くかどうかはこの先考えるとしても、俺と絵で勝負するというのは、そういうことだ」
そう有島は言った。
それはそうだろう、と香雅里も深く納得した。
名目だけのコンクールで審査され、全員奨励賞で役場や公民館の壁に飾られるよりも、厳しい視線にさらされることになる。プロだろうがアマチュアだろうが、観客は個々の名をそれほど知っているわけではない。ただアーティストを名乗る人間が作品を展示している場所へ、気が向いたら足を運ぶ。
人は何を求めてそこに来るか?
それを考え、考え抜いて立ち向かう。
要求されたのはつまりそういうことだ。
有島隆弘が有島隆弘の名で龍巌寺に自分の作品を展開するのと同じように。
鷺沢香雅里は鷺沢香雅里の名でそこに作品を展示し、人を呼べ。呼ぶだけでなく、捕まえろ。引きずり込め。感情を焼き付け、音を奏で。
そして、叩きつけ。
叩きつけろ。
手にしていた刷毛は、赤いペンキを滴らせている。
まだだ。
まだ力が満ちてきていない。
目を瞑る。
心をこめて、祈る。
祈りを終えた瞬間に、すべてをそこに叩きつけるために。