7 襖絵(1)
「有島がいま何を描いてるか、知りたくない?」
知りたくないわけなんかあるもんかってことをつきつけて、凪人は悪戯っぽく笑った。
「倒すべき相手のことは知っておかないと。闇雲に暴れたって意味がないから」
明けて翌日。時間はふたたび午前。
緑の木立を涼しい風が吹き抜けている。
瑞々しい薫り。
潮の匂いを払う風。
けれどここもまた海の町。
見下ろした石段には、浜から運ばれてきたのかもしれない細かな砂が薄くのっている。
山の麓。龍巌寺に向かう石段を、一段一段。
足をすすめるたびに汗が噴き出て、疲労感がつま先から沈殿していく。
数えたことはないけれど、その階段は果てしない。
ここを、と香雅里は思う。
有島は毎日上って通っているんだ、と。
「有島さんが、いま取り組んでいる絵」
それは見たいだけじゃない、知らなければと。
虫の声。鳥の声。
人の声が絶えても鳴り止まない数々の声に耳を傾け、生命のざわつきを知る。
木立の奥に、緑の奥にいったいどれだけの生きとし生けるものがいるのか。
たぶん気が遠くなるほど。
先を行く凪人は思い出したようにときどき振り返る。
「『月光上人之図、そして雷鳥』」
ガッコウショウニンノズ……、無理脳内漢字変換無理と諦めそうになりながら考える。
「月の光、夜の絵ですか」
「うん。それと、稲妻を描いているんだ」
思い描こうとした。
暗闇を照らす月の光。そして稲妻。
……稲妻は月の光と共存するのか?
絵だから共存できるんだ。
「照らす光と炸裂する光、だよ」
到着。
凪人の片足が石段の頂点を踏みつけて、先へと進んでいく。香雅里も追う。
ジリリリリリリ、と蝉の声が痛々しいほど迫ってきた。
けぶる緑の庭園へ続く石畳。寺の黒い屋根が見えている。
手前の生垣で赤い花が咲いていた。
「描いている内容はともかく、こんな場所だったら、観客はあまり足を向けてくれないですよね」
当初から抱いていた危惧を香雅里はついもらしてしまう。新進気鋭の画家有島隆弘の名前に、そこまでの価値を見出してくれる人間がどれほどいるのかと。
耳を傾けていた凪人は、穏やかな声で暗雲を払う。
「個人展示の多くが協力を申し出てくれた民家や、どこかの建物で期間限定なのを考えれば、有島の絵はこの寺がある限りたぶん大事に保存されるはず。選択としては最善だったとオレは思う」
「ああ……そうですね。この町に、ずっと残るんだ…………」
有島が去ってもその絵は残る。龍巌寺は何年、何十年くらいの歴史があっただろうかと考える。この先何年在るのだろうと思いめぐらす。
十年、二十年、四半世紀、もっと……。
描いた人が死んでも残るのかもしれない。
残す価値のあるものを描いているのだとしたら。
それは、知らなければと思った。
玄関にたどりついていた。