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6 破壊する

 芸術祭の目玉は、招聘アーティストによる作品の展示。


 それも、公民館などの公共の建物で行うのではなく、協力を申し出てくれた町内の民家などに、個々の適性なども加味して検討した結果割り振りを決めている。

 そのため展示会場は町内に点在することになる。

 公開に関しては作品の進行具合とその家の事情にも拠るが、本祭前から順次踏み切っていく予定とのこと。一斉公開になる本祭ではスタンプラリーの企画も進んでいる。

 たとえば日本画家有島隆弘の展示場所は、山の麓に立つ龍巌寺。続きの二十畳二間分の襖を、日本画用の岩絵具を持って描くという。


「『音無しの底』を、見たことがあるの?」

 香雅里の言葉を受け、凪人は驚きを隠しもせずに言う。

「見ました。街角のショーウインドウにあったのを。そのときから、私は有島さんを知っていたんです」

 一方的に。

 見て知り、望んだ。もっと。もっと見たい。知りたい。出会いたい。あの絵に。あの絵を描いた人の絵に。

 どうして?

 惹かれたという言葉はあまりに単純で、確かめたいという言葉はあまりに簡素。

 欲した。

 たぶん、そういう感情。心だけじゃない。肺に取り込まれた酸素が血によって巡るように、身体中のいろんなものが、欲していた。


 たとえばあの絵から流れていた音を。

 焼き付けられた感情を。


 それらはとてもとても静かで、ひとり流す涙に似ていた。

 春先の少し冷たい雨に似ていた。


 それだけじゃない。

 白糸のような川の流れには、(つよ)さが潜んでいた。絹のように柔らかそうなのに、(いわお)にぶつかれば容易に砕け散り、形を変えてしまいそうなのに。

 絶対に、流れ止まず、目指す先までひたむきに流れていく、そういう靭さに満たされていた。

 有島その人を知ったいま、あの背の高い肩の広い人が、どんな風にあのキャンバスに向かったか、目を閉じれば浮かんでくる。


 余白なく夜の色を塗り。

 向かう。

 その後姿は、どうしたって孤独(ひとり)だ。

 たった一人で、何をか信じ、向かっている。

 記憶の底の『音無しの底』の前に、有島が立つ。横顔が見える。煙草がぽろりと落ちる。

 いきなり、動く。


 叩 き つ け る よ う に。


 真一文字に切りつける。

 いつの間にか『音無しの底』は消えて、海が広がっていた。真っ白の壁に広がる一面の海、

 もしくは空。


 香雅里は目を見開いた。

 寄りかかっていたのはハザードランプの付いた凪人の車。

 目の前には白いガードレール。

 向こうには空。


「有島さんは……いつも一人で描いているような気がします」

 ひり、と口の中にひきつれた痛み。

 一瞬と思った追憶の旅は、もしかしたら長い時間のことだったのかもしれない。

 それでも凪人は待っていた。

 隣にいても時間の経過を感じさせず、見守ってくれる人。邪魔じゃない。空気。とても心地よい空気。


「うん。あいつは一人で描く。でも、君にはオレが必要だ。何しろあいつに勝つには君は若すぎて、知らないことが多すぎて、それなのに時間は限られている」

 香雅里は探した。キャンバスを。出来損ないの、人にはもう絶対に見られたくない「うまい、それだけ」の絵を。それは振り返った後ろの座席に置かれていた。手を伸ばした。掴んだ。


「香雅里ちゃん?」

 凪人の声が遠い。揺らいでいる。

 香雅里は一度目を閉じた。それからアスファルトにそれを裏返して叩きつける。見えないように裏返しただけ用心深い。だから冷静。だから大丈夫。

 片足で端を踏みつけ、身体を折り腕を伸ばし、もう片端を掴む。簡単ではなかった。力が必要だった。それでも。

 心に痛みが奔る前に、それは軽快な音を立てて割れた。


「…………壊しちゃった!」

 自分の声が実に明るいことに、香雅里はうきうきしてきた。くす。凪人が笑みをもらす。

「そうだね、やったね。……真っ二つ」

 それから、目が合った瞬間に、こみ上げてきただけ二人は笑った。声を立てて。

「あははは……気持ちいい!」

「うん、見てて気持ちよかった。いい!」

 車通りは不思議なほどなかった。

 見渡す限り人もいなくて、異次元のルールによって時の止められた空間に二人だけ存在しているみたいだった。


 その思い込みはママチャリの鳴らすチャイムの音に簡単にぶち破られる。

 チャリンチャリーンと遠くから近づいてきた音が、二人のすぐそばで止まる。

「道の真ん中で邪魔でーす」

 片目を細めた凪人がすかさず言う。

「やっほぅ、有島。これから襖絵?」

 頭にはすでにタオルを巻いていて、彼なりの戦闘態勢は整えられている。

 表情はひたすら険しくて、香雅里を見ない。

 それからふてくされたように言う。


「そう。誰だかさんが帰って来ないんで、オーナーにチャリ借りた」

「結構なことじゃない。てかそのチャリはオーナーの普段使いじゃないってことかな。明日以降も借りられるのかな?」

「あ?」

 凪人の流れるようなもの言いに、有島は剣呑に聞き返した。

 その目がわずかにさまよい、香雅里の足元を見た。壊れたキャンバス。正しくは、壊されたキャンバス。

 それから、香雅里を見る。

 乾いてはいても、涙の気配の残ったひきつれた頬。赤い目。黄色のママチャリにまたがったまま、有島は息を止める。


 その表情の変化を、凪人は見つめていた。

 目撃はした。けれど関係ない、とさらり流す。

 画家の心の裡など知らぬと。知らぬフリ。そして狙い済ます。


「オレ、香雅里ちゃんと付き合うから」

 香雅里から目を引き剥がして、向けられた目の色を見たときに、凪人は確信する。成功。何らかの動揺を与えたのを、確認。

 画家の瞳が色を帯びる。

 一番良い色になったとき、凪人は口を開く。


「良かったね、チャリ。オレ、これから有島の送り迎えは出来ないところだったから。襖絵はひとりで頑張ってね」

 かがんで砕けたキャンバスを拾い、慌ててその動作にならった香雅里に危ないよ、ときわめて優しく声をかける。有島はその様を物言いたげに見ていた。

 やや間を置いてから、毅然として、断固とした調子で言った。

「淫行条例違反」

 ぎょっと反応したのは香雅里。

 凪人はしれっと笑みを浮かべて頷く。


「黙っててね」


 潮の香りをのせた強い風が、強張った顔の有島、微笑む凪人、唇を引き結ぶ香雅里を次々と嬲るように吹きすぎた。





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