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5 君に付き合う(2)

 泣き続けていた香雅里は、ひくっと息を継ぐ一瞬、頷いてみせた。

 けれどもはや自分の意志だけでは泣き止むことができず、涙は再びあふれてくる。

 凪人はうんうん、と頷き、サングラスを外して後ろを見ずに車内に投げ落とすと、優男めいた端整な顔に艶やかな笑みを浮かべて言った。

「泣きたいときは泣きなさい。なんだったら胸でも肩でも貸してあげるから」

「いりません」

 香雅里は当然のように拒否。

 べつに、誰かの腕に逃れるために泣いているわけではないのだと、知っているから。


 なんで泣いてる?

 くやしいから。ただそれだけだ。


 拒否された凪人は腕を組み、香雅里を見つめたものの、そっと視線を外して空を見た。

「絵。見ていい?」

 返事の代わりに、香雅里は足の上に落っことしていたキャンバスを渡した。

 受け取った凪人は、表情を変えずにそれを眺める。

 車にもたれかかったまま、両手でキャンバスを持ち、わずかに首を傾けて。


 ひいては寄せる、波の音。


 頭上を白い腹をさらして海猫が飛んで行って、香雅里はそれをながめていた。

 待ち時間は長かったけど、何を言われるかは大体わかっていたから、やるべきことは腹をくくることだけだった。涙は不要だった。

 だから、息を止めて空を見ていた。凪人が低く話し始めた。

「自分では、どう思ってる?」

「うまい。それだけ」

「そうだね」

 宣告を残酷だと思わないように心は準備していたから平気。傷つけられる前に自分で傷つけていたから、痛みも容易に紛れ込んだ。

 泣く。

 それでも涙が出てきそうになる。意志とは無関係。

「それで、泣いてるの」

 うん。頷いて、香雅里は最短の言葉を探す。

「くやしい」

「有島?」

 通じた。

 もう一度頷く。そのまま俯く。

 凪人はふたたび絵に目を落とした。

「うまくて、かわいそう。うまくなれとは言えない。何にも言ってあげらんない。ただこの絵が壁にかかっていたときにオレはどうするか? たぶん、スルーだ。有島の絵と並んでいたら? 写真に収めるのは有島の絵だ。有島の壁画は見た?」

「はい」

「もしあの上にかかっていたら、外す。美術写真家として作品に向かうとき、たぶんオレはそのくらいのことをする」

 プライドにかけて話す、全否定。

 価値が叩き潰される。わかってはいた。わかっていたからこそ、その絵はもう美術室には置いておけなかった。どこにも置いておけなかった。


「私は絵を描きたいんです」

「うん」

 凪人が耳を澄ましている。

 描く人間としての香雅里を否定はしたけれど、人間としての香雅里には耳を傾けてくれている。それはわかる。悲しい。わかる。わかることが悲しい。


「描きたいのに描けていない。技術もあるのに、描けていない。これは絵じゃない。どうして。どうして描くだけでは絵にならないんでしょう」

「『どうして有島は描くだけで絵になるんでしょう』と続くの、その疑問は」


 香雅里は頷いた。

 時間をかけて構想を練って、丁寧に描いてきたはずなのに、青ペンキを刷毛で塗りつけただけの壁画にすらてんでかなわない。なぜ。どうして。

 凪人がキャンバスから顔を上げて香雅里を見る。

 その目を見ずに香雅里は続ける。


「その答えが『才能』とか『実力』の差っていう、わかりやすいものなら私はいらない。埋められない超えられないからいらないんじゃなくて……。そんなんじゃなくて、もっと根本だと思いたいんです」

「根本?」

「人間として、です。私が劣っているんです。あの人より。絵を描くのは指先じゃない。人間です。描かれているものはその人です。私の絵が有島さんに及ばないのは、私があの人に劣っているせい……」

「と、『思いたい』?」

 首肯。


 才能の有無なんか知らない。実力差があるのもわかっている。だけどそれだけじゃない。

 この差はどこから生じ、何をもって解決されるのか。

 心とか身体とか、いろんなものが、きしんで壊れそうなほど考えた結論。

「あの人に、勝ちたい……」


 凪人はうかがうように香雅里を見る。はかるように。香雅里は頷く。凪人はわずかに考える。ためらいの間。口を開く。


「十歳年上の、プロの絵描きに? 本気?」

 十歳年下の未熟な絵描きが頷いた拍子に、涙が一滴路面に滴る。

 乾いたアスファルトに染み。

 香雅里はそれをぼうっと見つめた。凪人も見下ろした。見つめた。この染みが出来たいきさつを。

 顔を上げたときには決まっていた。


「付き合うよ」

 ゆっくりと、確実に。香雅里は傾いでいた首をしゃんと正し、凪人を見る。

 風が吹いていた。

 凪人の染め抜いた前髪がなびいていて、でもそんなことには揺らがぬプロの写真家の凪人は地に足をつけて立っていて、薄い茶色の瞳で香雅里をまっすぐに見ていた。


「君に付き合う」

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