5 君に付き合う(1)
たぶん、嫌いなんだ。
猛烈に。
暗闇の中を流れる一筋の川を描いた有島。
壁一面に暴れる海を描いた有島。
同じ人間なのに、その境界を行き来する様はあまりに自由で、楽しげですらあって、思い出すだけで頭に血が上ってくる。
目の前で光がでたらめに明滅する。
チャリのカゴにキャンバスを押し込めようとしたら入らなくて、手でおさえたら風にあおられて、仕方ないから背負おうとして、学校から五分も進んでいない海岸線。
後ろから近づいて着た真っ赤なオープンカーが横付けしてきた。
「だーれかと思ったら、部長の香雅里ちゃんじゃないのー」
のんびりとした声の主は、きっちりと長い金髪を束ねて、ゴーグルのようなカタチの黄色っぽいサングラスをした凪人。口元がにやっとつりあがっている。笑ってる。
「なに、苦戦してるの。それ、運ぶの?」
「苦戦っていうか……背負うにはヒモが必要だと考えていたところで」
香雅里は実に真面目に答えたはずなのに、一瞬だけ真顔になった凪人は次の瞬間には盛大に笑いをはじけさせていた。
「背負うの!? マジで!?」
「他に方法がないので」
何がそんなにおかしいんだろうと思いつつ、香雅里は頷く。
凪人は左ハンドルの運転席から身を乗り出して「どうやって!?」と目を輝かせて聞いてきた。
その手が、いつぞや見たのと同じ、花柄シャツの胸ポケットに伸びている。デジカメを掴む気だ。
睨みながら香雅里は「ヒモはないんですけど」と言ってみた。
「え、なに、ヒモがあれば背負うの!?」
「えぇ」
香雅里は断固としてきっぱり答えてみた。
それだけじゃ足りないと思い、言い添える。
「持ってませんか?」
「んん、ちょっと待ってね」
ハザードランプを点滅させ本格的に車を停めた凪人は、ドアを開けて下りてくる。チャリを停め、キャンバスを抱えて立ち尽くしている香雅里の横を過ぎ、後部座席をのぞきこむ。
「たしかこのへんに……」
その声を聞きながら、香雅里は空を見た。
ふわっふわの白い雲が浮かんだ、青空。
そろそろ気温が上がり始めている。昼のサイレンが鳴った。遠くでモォォォォと。
二十四時間で考えると今日という日はあときっちり半分残っていることにしてくれた。
それを聞いていたら、あまりにも抱えているキャンバスが重くて泣けてきた。
空が青かったり、ガードレールの向こうの海がキラキラしていたり、道の向こうにせせりだした大岩が黒かったり。
そんなのながめているうちに、泣けてきた。
抱えているキャンバスに描きつけた絵がなんの意味も持たず無力であることが、吹き抜けた夏の風ごと身体の中をするりと通過していって、泣けてきた。
最初はぐすっと鼻が鳴って、目の前がぐにゃりと歪んだ。
すぐに、水の中にいるように呼吸が困難になってきて、酸素を求めてもがくように口を開いたとき、声が出て行った。
「あー…………………………」
「ん?」
悪乗りが高じてヒモ探しに専念していた凪人だったが、耳をかすった異音にふと顔を上げる。音、隙間風に蝶番のきしむような、寒々しい音。
「ふぅぅ……ぅぅぅ……あー……う」
一度湧き上がってしまった涙は止まらず泣き止むことができず。
ずるりとキャンバスをサンダル履きの足の上に取り落としてしまい、その痛みも手伝って、いよいよ本格的に声が出てしまう。
「うわぁぁぁん……」
まさかとサングラスの奥で目を見開き、凪人は泣き出した香雅里を向く。
香雅里は、隠しようもなく泣いていた。
ほどけたばさばさの髪を潮風になびかせて、空を見上げたまま、大口を開けて。
目からばらばら涙がこぼれおち、頬は真っ赤で、お世辞にもカワイイとかなんとかとは言えない崩壊っぷり。その泣き顔を見て、凪人は、胸ポケットに手を伸ばしかけ、やめて、ゆっくりと車に腰を預けるようにもたれかかった。
言葉を探した。
ややして、首を傾け言った。
「どうしたの?」
低く、澄み切った声。
息継ぎの合い間を狙い、慎重に続ける。
「問題は、君の手の中の……ソレ?」