プラスチックの目の中に
二月九日。関東では十三年ぶりの大雪らしい。見慣れた自宅周辺の景色が雪によって一変しているのを見ると、まるで違う景色を見ているようだ。翌日僕は少し寝坊をして、一年に一度使うか使わないかの雪かき用のスコップを持ち、近所の人たちとの作業に加わった。約一時間の作業は、とても気持ちの良いものだった。人一人が、十分に歩ける道を作る。今日、誰かがこの道を歩くために、雪をかき分ける。僕には、目の前の雪しか目に入らなかった。真っ白で眩しい雪の中で、朝の冷たい空気を顔に感じながら、ただただ、一生懸命雪をかき分けた。
途中、ピッチの声が頭の中で響いたような気がした。「クレタ、やけに張り切るね。」最近よく聞く声だ。いつもその声が聞こえる度に、目の前のものが何もかも、見えなくなる。でも今日は違った。一瞬の後に、僕の目の前にまた、白い世界が広がった。
猫のぬいぐるみのピッチは、黒い目をしていて、体の色は全体的に茶色っぽく、内側だけは真っ白をしていた。大きさは実際の猫の半分ぐらい。四足歩行の姿勢ではなくて、お尻をついて座っているぬいぐるみだった。僕が三歳の時に父親がユーフォーキャッチャーで取ってきてくれて以来、ずっと大事にしていた。その質感、愛くるしい表情、僕はピッチの全てが大好きで、小さい頃はどこへ行くにも連れて行っていた。
小学校の頃のある日。僕が気を失いそうになるほどに体調を崩して、学校から帰ってきたことがあった。家のドアを開けるなり玄関に倒れこんで、母親の介抱を受けてなんとか部屋にたどり着いた。あとで聞いたところ、三十九度の高熱だったらしい。僕は苦しみながらもなんとか眠りについた。そして、目を覚まし枕元を見てみると、そこにはピッチがいた。心配そうな目をして、「クレタ、大丈夫?」と聞いてきた。僕はかすかにうなずき、朦朧とした意識の中で考えた。「あれ、ピッチを枕元に置いたっけな。」かまわず、僕は布団の中でピッチを抱きしめてもう一度眠った。その時、ピッチがほっと息を吐いたのが聞こえた。
人生で後にも先にも一度だけ「万引き」をしたことがある。中学校のころ、仲の良い友達と二人で、ちょっとした出来心で近所の駄菓子屋の十円ガムをポケットにいれた。店を出た瞬間がスリルのピークだった。二人で近くの公園まで全速力で駆け出し、ぜえぜえ息を切らしながら、商品の封を開け、その「手柄」を噛み締めた。結局店のおばちゃんにもばれなかったし、家族にも、学校にもばれることはなかった。家に帰り、夕飯の、味付けの濃いサバの味噌煮を食べ、部屋に戻ると、真っ先にピッチと目が合った。ピッチに表情はなかった。ガムの味は、長い間僕の口の中に残っていた。
高校受験を翌日に控えた夜、僕は母親の作ったカツ丼を美味しくいただいた。我が家では、カツ丼が勝負事の前日に恒例となっている。直前の模試では十分な点数をとり、普段通りに力を発揮できれば問題なかった。ピッチは僕の目を真っ直ぐに見つめ、「クレタなら、大丈夫だよ。勉強頑張ってるの、僕はいつも見ていたよ。」と言ってくれた。僕は翌日の最終確認をすることなく眠りについた。受験は、無事成功した。
そんなピッチが僕の目の前から消えたのは昨年末の大掃除の時。部屋中のゴミでいっぱいになったビニール袋の中に、倒れて入ってしまったのに気がつかなかった。ゴミ袋はそのまま市の収集車に回収され、今頃はもう跡形もなくなっているだろう。
収集車が家に来たのは、僕がちょうど母親に買い物を頼まれた帰りだった。手際よく作業している横を、何の気なしに通り過ぎ、家に入ろうと外の門を閉め、振り返ると、いっぱいに詰まったタンクのゴミ袋の中にピッチが見えた。収集車が出発した。僕は短い悲鳴をあげ、追いかけようとしたところ、もう遅かった。胃液が逆流するような感じがした。その時の光景が忘れられない。ピッチの目には、僕が映っていた。
今日は二月十日。雪かきは、きりのいいところまできた。僕は額に汗を浮かべ、数十メートル先の自宅まで、道ができているのに目をやった。僕の目にもう雪は映らない。そしてまた、暗い気持ちの中へ沈んでいった。
———僕は、余計なものを手に入れすぎた。あの時ピッチがほっと吐いた一息、十円ガムの味、受験前日にかけてくれた言葉、全部覚えている。
そう思うと、かき分けて道の端に寄せた、雪の山が目に映った。それは、あまりにもキラキラしていた。僕は、この雪をかき分けることだけの為に生きていきたい。目の前の雪だけに必死になりたい。それでも、この突き抜けてキラキラした雪も、何日か経てばなくなってしまう。七月になれば、誰もが二月のことなんて忘れたかのように「暑い、暑い」を口ぐせにするんだ。それはきっと、僕も同じなんだろう。
僕はあの時と同じように門を閉め、家の中へ入っていった。
そうそう。思い出した、というよりは、やっと気がついた、と言った方が正しいのかもしれない。
僕がピッチを見ると、ピッチの目には、いつでも僕の目が映っていたんだった。