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黄昏に染まる空がある。
その空を漂う夢を見ていた。
いつもと同じ空を、
いつもと違う姿で。
その染め上げられた空の色と何一つ変わらない、黄昏色の竜として漂う夢だ。
ただ、その空を漂い思うことは一つ。
此処はまるで――虚ろな空だ。
◇◇◇
――三〇〇年前。
人類が地上を追いやられた理由は天災によるものと言われているが、その寸前まで人類が行っていたのは人による人の淘汰――即ち戦争である。
歴史上――それは第三次世界大戦、などとも呼ばれている、恐らく前時代の文明において、それは最大にして最後の戦争だったに違いない。
その時代の兵器において最大の戦力とされた兵器は、核分離現象や核融合現象を利用した『核兵器』と呼ばれるらしいが、友人曰く「そんなものは使った瞬間、使った側が負ける」そうだ。
核兵器とは兵器利用としての観点よりも、他国に対しての抑止力であり、最強の『護身用』だという。
結局のところ、当時の戦争は核兵器を打ち合うようなものではなく、人対人であったそうだ。
研究者の一部は、この戦争はただの戦争ではなく、核兵器に代わる新たな兵器の試験に扱われたと推察している。
無論、真偽は不明だ。
判っていることは、結果として文明は一度滅んだということと、地上は人類が住むにはあまりに過酷な環境になりすぎたということ。
そして地上を捨て、その生存領域を空の上へ移したという、現状が示す事実だけだ。
――空界。
大小無数に建造された、前世紀最大にして最高の技術の結晶たる人口浮遊大陸こそが、現在の人類が生きることを許された偽りの大地だった。
◇◇◇
地面が揺れた――と僅かに感じた。一瞬自分の気のせいだろうか、と思って周囲を見渡し、どうやら自分の勘違いではないらしいことをノエルは悟る。
早朝と言うには聊か時間が過ぎているとはいえ、ほとんどの人間が自宅で朝食を口にしているであろう時間帯。当然ながら公園の人の数はまばらだったが、その人たちの表情が、揃って不安と焦燥の気配を浮かべていたからだ。
虚震――と呼ばれる現象である。
主に対気の乱れによって生じた強風などで、小規模の浮遊大陸が揺れる現象を意味する。空界では決して珍しくない現象だが、人口を百万単位で抱えることのできる巨大な浮遊大陸では、滅多に起きない揺れだ。
勿論、滅多に起きないというだけであって、極稀にだがこのユグド王国の本島でも生じることがある現象である。
実際に、ノエルが生まれてからも過去に数度、この本島を虚震に見舞われたことはあった。しかし、今回のように、多くの住民が気付く規模は本当に珍しいことだと言えるだろう。
過去に起きた虚震を体感できたものはほとんどいない。そのほとんどがのちに王国が公式発表した情報を報道機関が報じたことで認識したというのが常道だった。
つまり、今回の虚震は過去の事態よりも比較的規模が大きいのだろうな、ということだけは何となく理解すると、ノエルは何事もなかったかのように公園の芝生へと再び寝転がった。
――虚震が起きると浮遊大陸が雲海に沈む。
そんな世迷言――もとい、風説がある。そしてその可能性がゼロでないが故に皆は息を呑んでいるのだが、ノエルには大して興味のないことだった。
「そうやって素知らぬふりをしているうちに、お前は浮遊大陸と共に暗雲の中で死ぬのだろうな」
聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
随分と淡々とした――下手をすると冷淡とすら感じられるような声量に、ノエルは微かに眉を顰めながら閉じていた目を開け、声の主を見上げる。
「……おはよう、シエル」
「スノウと呼べ。ノエル」
挨拶の返事はなく、代わりに事務的な言葉が返ってきた。
白髪に銀瞳の、一見すれば老人と見紛う男がそこにはいた。ノエルと同じ士官学院の制服の上に、東方――ヤマト領国で良く見られる羽織と呼ばれる衣を纏った少年。
名をシエル・スノーダストという。
王国士官学院でも随一の変人とされる一人であり、ノエルの幼馴染だ。
そんな全身白に染め上げられたような友人を見上げながら、ノエルは上体を起こしながら言う。
「と言われても、ボクは昔から君をシエルって呼んでるんだ。今更呼び方変えるのも変だろう」
「異論は求めていない」とにべもなく返してきた。少しだけむかついたので、意地の悪い笑みを口元に浮かべながら言った。
「ボクの愛称がノエルで、君の名前がシエル――それが混同するのが嫌って理由でスノウって名乗っているだけだろ?」
すると、シエルはバツが悪そうに僅かに眉を寄せ、「……黙れ」と小さく零した。その様子が見れたので、少しだけ溜飲が下がった。まあ、元々そこまで気にしているわけでもないので、下がったところで大した意味はないのだが。
そんなことを考えているノエルの隣に腰を下ろしたシエルは、忌々しげに舌打ちを一つ。
「そもそも、お前が名前を略すのが可笑しいのだ、ノエシス・リーデルシュタイン。別に略すほどの名でもあるまい」
「それは言っちゃあいけない約束だよ。ボクが悪いんじゃない」
「だから、腹立たしいのだろう!」
あははと空笑いするノエルの言葉に、シエルが憤慨する。
そう。ノエルの本名はノエシス・リーデルシュタインといい、ノエルというのは、昔ノエルが世話になった人が勝手につけた略称であり、今では親しい人間は揃ってそう呼ぶようになっていた。
なお、シエルはノエルという呼び名と自分の名前が似通っているのが気に入らないらしく、以降は名前ではなく姓のほうを名乗り、且つ略称として『スノウ』と名乗っているというのは余談である。
「まあ、それは置いておこう」
「お前はまたそうやって俺の話を――」
「置いておこう」
強引に話を切らないと、この話は延々と繰り返されることをノエルは誰よりも理解している。このやり取りだけで、もう何百回繰り返したか判らないくらいなのだ。
ノエルは無理やりにでも話の方向を変えるため、溜め息一つついてから口を開く。
「――それで、なんか用があって来たんだろう?」
「む……」
なおも名前の件を言及しようとしていたシエルが言葉を詰まらせ、元々渋面だった表情が一段と険しくなった。
数秒の沈黙の後、彼は仕方がないとでもいう風に溜め息を吐いてから、苛立ちを誤魔化すようにその癖のない白髪を掻き上げながら言った。
「新入生の間で、すでにお前のことが噂になっているぞ」
「あー、やっぱり?」
あっけらかんとした様子で苦笑いするノエル。それとは相反するようにシエルが顰め面になったのを見て、ノエルは申し訳ない気持ちになった、
「まあ、仕方ないさ。栄えある士官学院にボクのような異分子がいたら、嫌でも目立つだろう?」
「だからこそ、お前は気を付けなければいけない。問題なのは公然と知れ渡っている部分ではない。お前はひた隠しにしなければならない部分のほうだ」
「お目付け役も大変だね?」
やんわりと肩を竦めるノエルに向けて、シエルは剣呑な視線と、底冷えするような声量で告げた。
「ふざけている場合ではないぞ」
「ふざけているつもりはないよ」
対して、ノエルも極力平静を――というより、平坦な声で応じた。
そうしてしばしにらみ合っていたが、やがてシエルが諦めたような溜息を漏らしたことで緊張が途切れた。それを見計らって、ノエルは脱力したように微笑を一つ。
「君は心配性だな」
「お前が楽観的すぎるのだ」
処置なし。とでも言う風にシエルが舌打ちした。そうして無言のまま立ち上がり――刹那、その右腕が煙るように動く。
同時に風を切り裂く音が空気に走り、ノエルは条件反射で右手を動かした。
ぎぃぃん……という金属同士が咬み合う音が反響する。
ノエルの手には武骨な、それでいて鍔の代わりに甲冑のような飾りのついた鋼刀が逆手に握られており、対してシエルの手には純白に彩られた麗美な刀が握られている。
それらが交錯し、手にする両者は互いを見合い――やがてシエルは嘆息一つ零して刀を引いた。そしてそのまま鞘に納めるのを見て、合わせるようにノエルも納刀する。
「少なくとも、腕は鈍っていないようだな」
「その確認だけのために本気で切りかかるのは止めてくれないかな? 今の角度、少しでも遅れてたら僕の首が堕ちてたんだけど」
「そうか。実に残念だ」
まるで悪びれた様子もなくそう言い捨て、シエルは何事もなかったようにその場を後にする。
遠くなる背中を複雑そうに見送るノエルが大きく吐息を漏らす。どうやら無意識に緊張していたらしい。
実際に、シエルの剣の腕は士官学院でも突出している。だと言うのに、その才能を生かす『騎士科』ではなく、響律科の――響律式を応用した道具の技術を学ぶための響装技巧を専攻しているという事実がノエルには複雑だった。
最も、その彼の響装技巧の産物にあやかっているのだから、文句の言いようもないのも事実である。
先ほどシエルが振るった刀も、今ノエルが腰に帯びている刀も、共にシエルが鍛造した一品だ。正直言って、此処まで見事に個人に合わせて調整出来る技師にはなかなか巡り合えないので、今のところは彼に造った刀を使っている。
まあ、それは余談として。
何はともあれ、シエルの言いたいことは概ね理解出来た。理解出来たが、彼の意に沿うのはなかなかに難しいものがある。
「そもそも去年あれだけ目立ったのに、今年は目立たずに――ってのは無理だろうね……」
諦念と共に一人ごちる。
「『無能者』なんて、苛めっ子にしてみたらこれ以上ない標的に決まってるだろう?」
――『無能者』。
誰も扱えて当然の技術――《響律式》を扱う才の持たない凡人以下の存在。それこそが、ノエシス・リーデルシュタインが去年一年間の学生生活を経て捺された、逃れようのない烙印だった。