宅配は豹である
下品な表現とギャグですがBL的な表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
山田七郎は、宅配ドライバー歴十年ちょっとのベテランである。
名前の通り七人姉妹、末っ子長男として生を受け、厳しい生存競争を勝ち抜き、若かりし頃にはちょっとやんちゃな道にも走ったけれど、今現在は会社の中堅社員として先輩からも後輩からも頼りにされている三十七歳。
飲み屋界隈に行けばその道のお姉さんやお兄さん、さらにはオネニーサンたちまで口を揃えい「抱いて!」と言われる男前。
二メートル近い長身に、しなやかな体躯。
いつもきっちりとアイロンをかけた制服の上からでもわかる、胸板や上腕二頭筋。しかし、ボディビルダーのように不必要に筋肉がついているわけではなく、持久力勝負の職業に多い細身に見えるけれども肉体派!な感じである。
その山田七郎三十七歳は今、人生で最高潮に緊張していた。
――言える。今日こそ言える。絶対言える。
集配の依頼を受けたのは三十分前。
相手は二年前からお世話になっているお得意さまで、いつも山田のシフト終わりと依頼が重なることが多く、初めて受けた時から彼を指名してくれている人だった。
本と言えば車の整備雑誌くらいしか読まない山田は詳しくないのだが、どうも「漫画家」という職業の人らしい。
会うのは殆どが徹夜の仕事明け。目の下に盛大に隈を作りながらも、山田を待たせることに罪悪感を抱くらしく、いつも温かいお茶をごちそうしてくれる優しい人だった。
彼にとっては少々手狭なエレベーターを降り、見慣れた廊下を進む。
年数は経っているが管理がいいのかそう古くは思えないマンション。目的の家の玄関ポーチに入り、そこでまずは深呼吸をひとつ。
今日は完璧に仕事を終え、残すはこの集荷のみ。
口に出したことはないが何とはなしに気付きつつある同僚達の無言の声援を背に、山田は今日人生初、『愛の告白』というものに挑戦つもりなのだ。
そもそも、彼の人生において愛は告げられる物だった。
姉たちの間で揉まれ、小さく産まれたが故に第二次成長期を迎えるまでの彼は、どちらかというと可愛らしい類の少年で。女ばかりに囲まれ躾られた所為か、女性には優しく接するのが当たり前になっていた彼に小学校低学年の男子は厳しかった。
細身なこともあり、散々に「女みたい」と苛められ続けた山田は外見に似合わずきかん坊だった。
文句を言う奴を叩きのめし、バカにする奴を叩きのめししている間に見る見る身体は男っぽく成長し、いつの間にか友達だった女の子達は彼を見ると頬を染めるようになった。
多少不良の道をゆく山田に惹かれる女子は多数。
そんなものかと来る物は拒まずに受け入れて、初恋も知らないままに経験だけが増えていった。
そんな青春を送った彼が自分の人生このままふらふらしていては駄目だ、と気がつき、親戚の運送会社に入ったのが十年前。
散々迷惑と心配をかけていた両親や姉たちは、ようやく末っ子がまともになったと涙を流して喜んだものだ。
最初はきつい仕事に不満たらたらだった彼も、生来世話好きで末っ子気質のせいか人懐っこいところもあり、ちょっと厳つい見た目に反し徐々に信頼される宅配ドライバーへと成長した。
時間の許す限りは宅配のついでにお年寄りの話を聞いたり、電球を変えるなどのちょっとした雑事をしたり。小さな子供のいる家庭にはサービスグッズであるマスコットストラップを差し入れたり、見た目に躊躇して警戒する子供も次第に彼の来る日を心待ちにするという。
それでも、彼はいつも仕事とプライベートは分けるべきだと決めていたし、後輩にもそう諭していた。
宅配ドライバーは意図せずその家庭の内情を垣間見てしまったりする。
しかし、それを言いふらしたりはたまたちょっと可愛い独身女性だからとナンパしたりなど、言語道断。それは一歩間違えば自分だけでなく会社の信用も傷つけかねない。
だから、初めてその人を見た時感じた気持ちを、山田は二年間自分の中に封印してきたのだった。
――相手はお客様なんだぞ、七郎。家まで来る配達員が愛の告白なんかしてみろ。相手は気持ち悪いに決まってる!
しかも自分はすでに妻や子がいてもおかしくない年齢である。
個人情報を盗み見たりしない彼だが、その想い人はどう見ても二十代前半。歳の差がありすぎる。
真っ黒な髪が華奢な肩の上で揺れ、殆ど外出することもない――本人談――肌は透き通るように白く、薄い化粧しかしない顔立ちは繊細かつ清楚。
薔薇のように派手な美しさではないが、かすみ草のような愛らしい魅力に溢れている。
荷物の引き取りの際、自分よりも遙かに小さな身長のその人が「これでいいですか」と上目遣いにこちらを見上げる様なんか、もうたまらない。
黒目がちの丸い瞳が好意的な笑みを含んで自分の姿を映している。それだけで、三回は抜ける。
彼女との最初の出逢いを回想していた山田は、思わず反応しそうになった下半身に力を込めた。
――いかん、ここでそれはまずい。
ふるふると頭を振り、それからグローブのように太い掌で自らの顔を撫でつけた。
天鵞絨のように艶やかな黒い毛並みに、一本の癖もついていないように。ぴくぴくと口元で動く髭が少しでも立派に見えるように。
そうして五分ほどかけ身なりを整え、心も整え、おもむろにぷるぷると震える手を呼び鈴へと伸ばす。間違えても鋭い爪で傷つけないよう、細心の注意を払いながら……。
ピンポーン、とどこか間の抜けたチャイムが中で鳴ったのが、猫のようにぴんと立った、けれど少し丸めで左は少々欠けている耳に聞こえた。それに続いて「はあい」という彼女の声と、軽やかな足音までばっちりと。
山田七郎三十七歳の運命のゴングが鳴ったのだ。
どんなにクールを装っても隠しきれない感情が、お尻から垂れた太く長い尻尾を左右に揺らせる。その姿はまさに今獲物に飛びかからんとする肉食獣の如く。
がちゃり、と重々しい音が響き目の前の扉が開く。
そこから顔を覗かせた待ちに待った思い人の姿に、山田は自分の中で一番爽やかだと思っている――その実、鋭い牙をむき出しにした――笑顔を向けて声を上げた。
「毎度ありがとうございます! 黒豹宅配便山田です!」
そもそもこのチキュに人あらざる姿の者たちが出現し始めたのは、もう半世紀も前のことだ。
最初に遭遇したここ東響の人々は恐れをなし逃げまどい、最初はなかなかに騒がしくもあったがそこは日の本の国の人々のこと。
元々好奇心の強いこの国の人々はその人外の者たちが自分たちに危害を加えず、それどころか同じくらい知的であることが知れるや否や、あっさりと変わった隣人として受け入れてしまったのである。
外つ国では迫害や差別の憂き目にあった人外者たちは、日の本の国に居場所が出来たと喜び、そうして日の本の国は世界でも珍しい人と人外達が仲良く暮らす国となったのだった。
人外の者と言っても多種多様。
チキュでは動物園にいるような姿で言葉を話す者から、その姿から少しばかり人に近く二足歩行をする者、そして神話に出てくるような半身半獣の者もいる。
種族毎に得意なものや苦手なものがあり、大体同じ種族で自らの特性を生かした仕事に就いていたりする。
その職業の中で最も多いのが、人外宅配便であった。
人と同じ会社で働く者もあれば、自分たちの種族で会社を興す者もあり、最近では愛らしい姿を売りにしている所もある。
例えばパンダの姿をした者、ちょっと嗜好の偏ったユニコーン、黒猫の姿をした者、子供に一番人気である兎姿の者や、小型犬によく似た者もいたりする。まさに選り取りみどり。
日の本の国に動物をマスコットにした運送会社が多かったせいか、それらは比較的容易に社会の中に溶け込んでいった。
その中のひとつが、山田七郎三十七歳の努める『黒豹宅配便』である。
男性体女性体ともに体格に恵まれ、その俊足と機敏さ、そして外見に似合わず人懐こい性格から、創業以来順調に売上を伸ばしている運送会社。
もちろん、マスコットは三頭身の黒豹子ちゃんで、これはなかなかにネコ科大好き人間達には受けがいい。
ライバルは同じネコ科の黒猫たちだが、それはそれ。
忙しい時期――まさに猫の手も借りたい状態になると、お互いに人材を融通しあったりしている間柄である。
山田が高校を卒業し、定職にも就かずぶらぶらしている時に親類が「とりあえず自分の力で金を稼いでみろ」と紹介してくれたのがこの会社。
それから十年の月日が経ったが、お客に惚れたのはこれが初めてのことであった。
そもそも山田にとっては初恋である。
最初は自分の気持ちに戸惑い、太古の昔に失われたはずの発情期というものが来たのかと勘違いし、誰にも言えずに思い悩んだ日々。
それが恋だと気がついたのは、同じ人外配達便仲間のひと言だった。
彼女の姿が頭から離れない。彼女のことをもっと知りたい。できれば自分のことも知って欲しい、毛並みを優しく撫でて欲しい。
仲間内の集まりで酔った勢いでそう吐露してみれば、向かいに座った兎のラビ子が呆れたように言ったのだ。
それは恋よ、と。
まさに青天の霹靂。
恋とはするのではなくされるものだった山田が素直にそう言えば、ラビ子を含めその場にいた全員は明後日の方向を向いてため息をつき、なぜか会計を彼に全て押しつけて解散した。
それ以来、口では何だかんだと言いつつもラビ子は山田に恋の助言を与えてくれた。
ついに告白すると宣言すれば、愛らしい黒くつぶらな瞳を微かに潤ませながら、「素直に、ストレートによ!」と最後のアドバイスを兎キックとともにくれたのだった。
「……田さん、山田さん?」
「は、はいっ!」
「どうかしましたか? 何だかぼうっとしてましたけど……調子が悪いんですか?」
なんということだ。
うっかり彼女の前でぼんやり今までの人生を回想してしまった。
心配そうにこちらを見上げてくる彼女の瞳にとろんとしかけたものの、山田は慌ててぶるぶると首を振った。
「いえ! なんでもありません! 申し訳ありません、和泉様!」
「やだ、様はつけないでいいですってずっと言ってるじゃないですか。和泉でいいですよ」
「いや、しかしお客様を軽々しくお呼びするのはどうかと……」
「悲しいなあ。私と山田さん、結構長いつきあいだと思ったのになあ」
「えっ。あのっ」
「何なら、下の名前でもいいです。小喜子で」
にっこりと笑う彼女――和泉小喜子のあまりの可愛らしさに、山田の尻尾はぴん!と立ったまま固まってしまう。ネコ科にはよくあること。
思わずそのままその尻尾を彼女の身体に這わせかけて……辛うじて止める。いかん。
「そ、そ、そ、それではその……い、い、い、和泉さん!」
「はい、山田さん」
「しゅ、しゅ、集荷のご依頼をお受けしたのですが!」
見た目が真っ黒な毛に覆われているために気付かれにくいが、山田七郎三十七歳は今、顔から身体まで真っ赤になっている。
勿論、目の前の小喜子はそれに気がつくことはなく、手にしていた分厚く大きな封筒を彼に差し出した。
「いつもの原稿なんですけど、よろしくお願いします」
「ありがとうございます!」
優秀ドライバーとして社長賞をもらった時より遙かに恭しい仕草で、山田は彼女の差し出した封筒を受け取った。
漫画家という職業が具体的にはどういうものかは知らないが、自分を呼んでこれを託す前の彼女といえばかなり疲れていることが多い。
前にそれとなく訊いてみると、「デジタルだったらもう少し楽なんですけど、私アナログな手書きなんで。それに、デジタルだとこうして原稿を宅配で送らなくてよくなっちゃうし……」と、少し頬を赤くしながら教えてくれた。
よくわからないが、アナロググッジョブ。
そのお陰で毎月彼女と山田はこうして顔を合わすことが出来るのだから。
いつもとは違った緊張感で震える手を誤魔化しながら、ゆっくりと所定の手続きを行う。
ぴりりと丁寧に伝票を切り、それを見守っている彼女へと差し出した。
オス豹山田、これが告白のチャンスだ!
こちらの胸の内を知るよしもなく、差し出した控え伝票に伸ばされた小喜子の手を、山田は傷つけないよう、しかし多少強く握りしめた。
ぷにっとした肉球を通して伝わってくる、彼女の手の感触。温もり。
告白に玉砕しても、しばらくこの感触だけで寂しい夜も乗り切れる!と邪なことを一瞬考えた山田の耳に、戸惑ったような小喜子の声が聞こえた。
「あの、山田、さん……?」
「あっ」
山田に手を取られたまま、けれども特に抵抗することもなく、彼女は頬を染めて彼を見上げていた。心なしか黒い瞳が戸惑いでも不快でもない色で潤んでいる気がする。
――言えっ、今だ! 最高のチャンスじゃねえか! 告白するんだっ、俺!
ごくっと生唾を飲み込んで、意を決した山田がずずいと小喜子へと迫り口を開いた――矢先。
「こんばんは! お待たせ致しました和泉様! あなたのケンタウロス急便、リンでございます!」
「てめえええええ! 殺すぅうう! もう今日こそ串に刺して焼いてやるからなこの馬野郎がぁあああっ」
山田の背中に容赦のない蹴りを入れつつ、それで小喜子が抱きつかれないよう自分のほうに引き込むという器用なことをやってのけたのは、同じ人外配達便ドライバーであるケンタウロスであった。
「おや、黒豹の山田君ではないですか。集荷が終わったらお客様に痴漢行為をしてないで、さっさと社に戻ったらどうなんです?」
「してねえよ! 痴漢行為なんてしてねえだろっ!」
「そうですか? 私には今にも美しい人にケダモノが襲いかからんとしている風に見えましたけどねえ」
「おっ、襲いかかろうとなんてして、ない、だろ……!」
蹴られて玄関に倒れ込んでいた山田は、その言葉にいきり立ち、しかし多少の疚しさを覚えて目を逸らした。
「ふうん」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたケンタウロスに、山田は苦々しい思いを噛み締めた。
このケンタウロス急便というのは、近年急成長してきた運送会社である。
その名の通り半身半獣のケンタウロス達のみが勤める会社であり、始まりはオフィス街で活躍するメッセンジャーだった。
そんなこともあり主に大型の荷物よりは小型の荷物を専門としている彼らだが、最近は高齢者への買い物サービスや特定の地域内なら即日配達等のサービスが受け、徐々に人外配達便として存在感を増していた。
特にここ数年始めた女性向けサービスがとてつもない人気を得ている。
ケンタウロス族というのは、全てがオス。そして非常に整った顔立ちの持ち主達なのである。
黒や赤や金に銀など、多種多様な髪の色に目の色。
どこぞの国の彫像のように掘り深く甘い美貌。引き締まった上半身に続く馬の下半身が、非常に怪しげな魅力を醸しだしている。
しかも、彼らは宅配ドライバーとして異色の、ベストに白いシャツという乙女心をくすぐるような姿で配達に来てくれるのだ。
聞く所によると、集配の際には玄関で跪き「お荷物お届けに参りました、お嬢様」だとか「お荷物お預かりに参りました、お嬢様」だとかやるという。
人外配達人たちの間では通称「ホストドライバー」と呼ばれていたり、いなかったり。
その中で、山田と担当区域が重なっているこのケンタウロス――通称リンは、仕事上のライバルでもあり……恋のライバルでもあったりする。
「小喜子さん、umazonからお荷物が届いておりますよ」
「あっ、やったあ! 頼んでいた本だ! 今朝頼んだばっかりなのに早いですね!」
「umazonの配達はケンタウロス急便の専売特許ですからね。それに、あなたの喜ぶ顔が見たくて」
何か「喜ぶ顔が見たくて」だ、ちくしょう。気安く名前で呼んでんじゃねえ!と唸る山田を後目に、リンはさっと甘い笑みを浮かべると恭しく小喜子へと荷物を差し出した。
それを見て小喜子もぱっと全開の笑みを見せる。
「嬉しいっ。これ早く読みたかった本なんです!」
――かっ……可愛いっ。
思わず顔をゆるめた山田の横っ腹に、またもや前脚の蹴りが入る。
「っ! てめえ、さっきから何してくれちゃってんだ!」
「申し訳ありませんねえ。ちょっと邪魔なんですよ、山田君。用事が済んだならさっさと出て行ってもらえませんかね」
「てめえのそのでかっ尻のが邪魔なんだよ、てめえこそ荷物渡したらとっとと出てけ! この馬野郎が!」
「毎回言ってますけど、その『馬野郎』というのは差別用語ですから。毎回言ってますけど」
怜悧な美貌に計算された不機嫌さをかもし出しつつ、一分の隙もなく後ろへ流した前髪を嫌みったらしく掻き上げたリンに、山田はにやっと意地の悪い笑顔を向けた。
その顔を見て、む、とリンの眉間に皺が寄る。
「あーあー、そうだったよなあ、リン君。いやいや、林馬太郎君よお!」
殊更に彼の名前を強調してみれば、リンこと馬太郎の美貌に亀裂が入った。彼が自分の名前をあまり気に入っていないことを知っていての攻撃である。
「なぁにがあなたのリンです、だ。本名は馬太郎だろうが、馬太郎。親にもらった名前だろ、大事にしろよ。なっ」
にやにや笑いながら馬太郎の肩に腕を回し、山田はそのまま玄関の外へと彼を引きずり出す。
――帰れ、今すぐに帰れ。俺はまだやることが残ってんだよ!
二人の険悪なやり取りを心配そうに見つめる小喜子にばれないよう、山田は馬太郎の腹にワンパンを入れる。
ぐっ、とくぐもった声を上げた彼に、山田は殊更心配そうに「馬太郎君、頑張りすぎだよ、帰ったほうがいいよ」と声をかけた。
「ほら、早く帰ってゆっくり休め、な?」
「ふふふ。山田君こそ、女性にちょっかいかけてる場合ではないじゃないですか?」
「あん?」
名前をばらされたことも、さっきのワンパンも、綺麗さっぱりに忘れましたと言うような笑みを浮かべ、馬太郎は山田に怪しげな視線を送る。
何だよ気持ち悪ぃな、とちょっと身を引きつつ、山田は首を傾げた。
「何のことだよ」
「その左耳のことですよ」
「はあ?」
馬太郎の言葉に、指摘された左耳がぴくりと揺れた。
山田の左耳は、若い頃にした喧嘩の所為で一番上の辺りが少し欠けている。特に機能に問題もなく、気にしたことはないが……。
「俺の耳がなんだってんだ」
「ああ、わかりますよ、山田君。男としてこんなに辛く切ないものはないですよね」
「だから、何だってんだ!」
もう一発くらい食らわせとくか、と猫パンチならぬ黒豹パンチを用意し始めた山田に、馬太郎は首を振って仕方ないとため息をついた。
「私、聞いたんですよ。耳が欠けているのは『去勢』された証拠なんですってね。山田君にそんな過去があったなんて……。心の底から同情しますよ、同じ男として」
一瞬、時が止まる。
わざとらしく涙を拭う仕草まで見せる馬太郎を呆然と見つめたまま、山田はそのまましばらく立ち尽くしてしまう。
――きょせい。キョセイ。巨星。虚勢。……去勢!?
「や、山田さん、あのっ」
小さな声に固まった顔をぎぎぎと向ければ、玄関先で顔を真っ赤に染めた小喜子。
視線は山田の左耳となんとはなしに股間辺りを行ったり来たり。そうして意を決したように拳を握る。
「あのっ、あんまり気にすることないですよ!」
「ちがっ、ちがっ……!」
「そ、そういうことで私、山田さんを差別したりとかしませんし! 人にはそれぞれ事情があると思いますし!」
あまりの展開に否定の言葉も出ない山田に、小喜子は何故か物凄く懸命に励ましの言葉を贈り続ける。それを見ていた馬太郎は、深く静かに頷いた。
「まあ、彼は人でなく豹ですけどね」
その言葉でぷつり、と山田の中の何か大切なものが切れた。盛大に切れた。
「馬太郎、てめぇえええええええええ! んなわけあるか馬鹿野郎がああああああっ!」
「え、違うんですか? 隠さなくてもいいんですよ? ねえ、小喜子さん」
「勿論です!」
「ちがぁああああああああああああうっっ」
ばっしんばっしんと尻尾で廊下を叩きつつ、山田は最早ちょっと涙目ですらあった。
「俺のジャガーは毎晩、ちゃんと右手と仲良くしてるわああああああ!」
「またまたあ」
「んなに疑うんならな、今っ、この場で見せてやんよお!」
言うや否や山田は自分のベルトに両手をかけ、マンションの廊下には相応しくないようなかちゃかちゃとした音を立てた。
そうして去勢なんかされてないことを証明してやろうと、ズボンとパンツを一気に下げた所で――我に返った。ちょっと遅かった。
「き――きゃあああああああっ」
大きな叫び声を上げて身を翻すと、小喜子は山田が止めるよりも早く部屋の中へと走り去ってしまった。
残されたのは、その彼女に告白しようとして何故か廊下で下半身を丸出しにし、閉じられた部屋のドアに向かって虚しく右手を挙げたまま固まっている黒豹山田。そして、それを見つめながら「終わったな」と呟くケンタウロス馬太郎だけだった。
「通報されないうちにしまっておいた方がいいと思いますよ、それ。じゃあ、私はまだ仕事がありますから。失礼」
軽やかに去っていく蹄の音を聞きながら、山田は静かに涙を零したのだった。
おまけの小喜子さん
下半身丸出しのまま山田が廊下で涙している同時刻。
叫び声を上げて部屋に戻った小喜子は――喜んでいた。
「まみちゃああああんっ、まみちゃん、まみちゃああんっ」
居間までの廊下を駆け抜けつつ奥に向かってその名を呼べば、どこか眠たげな女性が一人顔を覗かせた。
「なんですかあ、せんせぇ。徹夜明けなんですよお、寝かせて下さいよお」
「それどころじゃないのっ! それどころじゃなのよ、まみちゃんっ」
「もおぉ、なにー?」
もう一度奥に引っ込もうとする若い女性――小喜子のアシスタントである櫻井麻美をひっ掴まえ、とりあえず炬燵の前へと座らせる。
そうしてテロリストがテロ計画でも立てるような真剣な顔を近付けた。
「見ちゃったの」
「えぇ? 何をですかあ?」
「ジャガー」
「はいぃ?」
「山田さんの、ジャガーよ、ジャガー」
多少頬を染めながら小喜子が謎の単語を繰り返せば、しばらくぽややんと首を傾げていた麻美がガッと目を見開いた。
「まじすか!」
「まじっす!」
そして二人は無言で見つめ合い、がしっと手と手を組み合わせた。
まるで革命に成功した同志達がお互いの健闘をたたえ合うかのようなその姿に、飼い犬のコロ助がどことなく冷たい視線を送る。日常の光景なのだ。
「どどどど、どんな、どんなでした!?」
「いやだ、まみちゃん。どもりすぎ!」
「だって、だってっ」
妙齢の女性が二人、炬燵の前で鼻息荒く興奮する様は異様である。しかし、ここに彼女たちを止められる人物は存在しなかった。
小喜子は詰め寄る麻美を片手で制しつつ、炬燵の上に散らばっていた紙に近くに転がっていた鉛筆を使って「山田のジャガー」を描いて見せた。リアルに。恐ろしいほどの瞬間記憶力。
それを見た麻美はもはや言葉もなく、ばんっばんっと炬燵に掌を叩きつけた。
「せんせぇ、マジ絵が上手すぎますっ。大好きです。一生付いていきますっ」
「まあまあ、まだ美味しいネタが色々あったのよー」
「まさか、まさか、リンさん!? リンさん!?」
「当たり!」
きゃーっと声を上げ今度はひっくり返った麻美に、小喜子はふふふと悪魔的な笑みを浮かべて見せた。
「あのね、そもそもリンさんが山田さんに突っかかってきてね、それで山田さんの欠けた耳が『去勢された証だ』って言い出して」
「うわきた、ツンデレ、ツンデレ! 気になるからかまっちゃう男心入りました!」
「それで山田さんが切れちゃって、『じゃあ見せてやるよ!』って……」
「美味しいっ。それ美味しいじゃないですか! 冬コミ突発本いけますよ! ツンデレケンタウロス攻め、鈍感黒豹受け!」
「やばい、私、徹夜明けだけどネーム作っちゃえるよ、この勢いで……」
「やりましょう!」
「やろう!」
起きあがった真美と小喜子が歓喜の抱擁をするのを見つめながら、コロ助は小喜子に恋心を抱く黒豹がいつになったら彼女のこの本性に気が付くのかとしょっぱい気持ちになるのだった。
作中に出てくる兎のラビ子さんは、Tm様よりお借りしました。
耳が欠けてるのは去勢された猫、というネタは此花タロウさんとのやり取りから。
漫画家さんの仕事については、全て想像です。間違っていたらごめんなさい。