あの人
私は、勇者の前に姿を現さなかった。
彼が掲げた剣の輝きが、民衆の歓声に洗われて「正義の象徴」へと変わっていく様を、物陰からじっと見届けるだけにした。
もし今、私が飛び出して「お父様を返して」と泣き叫べば、彼はきっと困惑し、民衆は私を「魔王の呪い」として石を投げるだろう。それでは、お父様が命を懸けて完成させた「英雄の物語」が台無しになってしまう。
私は、お父様から渡された古びた信玄袋を握りしめ、城の裏口から外へ出た。
中には、少しばかりの金貨と、お父様がかつて「人間だった頃」に使っていたという、小さな印章が入っていた。
数年後。
私は山あいの小さな宿場町で、茶屋の娘として働いていた。
街の噂好きな隠居たちが、お茶を啜りながら景気のいい話を繰り返している。
「いやあ、あの勇者様も最近はすっかり偏屈になっちまって。何でも、王宮に引きこもって誰とも会わねえらしいぜ」
「力がありすぎるのも考えものだな。次はあの方が災いを持ってくるんじゃないかって、皆、戦々恐々よ」
私は、黙って彼らの湯呑みに茶を注ぐ。
お父様の言った通りだった。
あの日、お父様を刺し殺した瞬間に、勇者様の中の「正義」は死に、新しい「恐れ」の種が撒かれたのだ。
ふと見上げると、店先に一人の旅人が立っていた。
深い笠を被り、みすぼらしい身なりをしているが、その背筋の伸び方には見覚えがあった。
笠の隙間から覗く瞳は、かつての輝きを失い、かつてのお父様と同じ「錆びついた色」をしている。
「……一杯、もらえるかな」
その掠れた声に、私は一瞬だけ手を止めた。
けれど、すぐにいつもの愛想笑いを浮かべて答える。
「はい、ただいま。熱いのがいいですか、それとも温いのが?」
私は彼を「勇者様」とは呼ばない。
彼もまた、私が「魔王の娘」であることに気づかない。
夕暮れ時の静かな茶屋で、かつての仇同士が、ただの客と店員として向き合っている。
それが、お父様が死んでまで守りたかった、退屈で、残酷で、けれどたまらなく愛おしい「平和」というものの正体だった。




