■第7章|未来軸:曖昧な答え
あれから、いくつかの季節が過ぎた。
派遣会社の支店は少し忙しくなり、俺の役割も変わった。
彼女も相変わらず強気で、生意気なことを遠慮なく言ってくる。
そのたびに、俺はどこかほっとしていた。
あの夜の裏路地で見せた弱さは、二度と表には出てこなかった。
仕事に戻った彼女は、いつものように“全部ひとりで背負う姿勢”を取り戻した。
ただ——
ほんの小さな変化があった。
シフト作成のとき、彼女は俺のほうを一瞬だけ見るようになった。
“これでいいですか”という確認ではなく、“ここは任せていいですか”という静かな合図。
電話で理不尽なクレームが飛んできたとき、受話器を置いた彼女は深く息をつき、
「ちょっとだけ、手伝ってください」
と言った。
仕事の帰り道、彼女が妹に電話するとき、声が少し柔らかくなっていた。
その変化は誰も気づかない。気づけるのは、彼女の一番近くにいた俺だけだった。
***
ある日、支店の外で彼女に声をかけられた。
「ねえ、あの日のこと……」
あの日。
夜の裏路地。
誤送信。
震える肩。
彼女は目をそらさず言った。
「もし、あなたが来なかったら……私、どうなってたと思います?」
「どうって……」
「たぶん、店に戻ってたと思います。怒られて、また働いて、でも、怖いって言えなくて……」
そこで言葉が途切れた。
夕方の光が、彼女の横顔を柔らかく照らす。
「あなたが来たとき、正直、『なんで来るんだよ』って思いました」
「知ってる」
「でも……来てくれたこと、ちょっとだけ嬉しかった」
“ちょっとだけ”。
それ以上は絶対に言わない。
そういう人だ。
「それと……」
彼女は少し迷って、それでも続けた。
「妹のこと、行けって言ってくれて、本当に助かりました。あれ、たぶん言われなきゃ行けなかったと思います」
「行くべきだった」
「はい。でも、行けないって決めてたのは、私のほうだったので」
彼女は笑った。
強気で、少し不器用な笑い。
「あなたが言ってくれたから、 “頼ってもいいのかな”ってほんの一瞬だけ思えたんです」
それきり黙った。
風の音がふたりの間に流れ込む。
俺はなんと言えばよかったのか、今でもよくわからない。
ただ、その瞬間——
彼女の中で“何か”が変わったのだと、直感した。
***
俺は、ときどきこの日のことを思い返す。
あのとき、もし俺が距離を詰めていたら、ふたりは違う関係になっていただろうか。
もしかしたら、彼女は俺のことを少しだけ好きだったのかもしれない。
もしかしたら、俺も彼女を抱きしめたいと思った瞬間があったのかもしれない。
“もし”を並べれば、いくらでも物語は書き換えられる。
でも現実は、誰も書き換えてくれない。
俺たちは互いの弱さに触れ、互いを支え合いかけ、けれど恋には落ちなかった。
落ちてはいけないと思っていたのか、落ちる資格がないと思っていたのか、今となってはもうわからない。
強気な彼女は今、支店で誰よりも信頼されて働いている。
妹さんは大学を卒業し、元気に暮らしているそうだ。
そして俺は、彼女のとなりで変わらず少し距離を保ちながら働いている。
それでいいのだと思う。
それが“俺たちの答え”だったのだと思う。
少し物足りない結末かもしれないが、その未完成さが俺たちらしい。
恋にならなかった関係にも、恋よりはるかに強い絆が確かにあったのだから。
今でもたまに、彼女がふいに見せた横顔を思い出す。
強気で、生意気で、でも誰よりも壊れやすい少女のままの横顔を。
それを守りたいと一瞬だけ願ったことを、誰にも言ったことはない。
彼女にも、もちろん自分にも。
それでいい。
大人の物語とは、そういうものだ。




