■第6章|過去軸:姉が崩れた夜
妹が倒れた夜のことは、今でも彼女の中に鮮明に残っている。
季節は冬に差し掛かる頃だった。
施設の建物は古く、廊下は夜になると底冷えした。
その日、妹は夕方から少し咳をしていた。
熱も高くはなかった。
だから、彼女も職員も、その時点では大ごとだとは思わなかった。
夜の見回りが終わって、部屋の灯りが落ちたあとだった。
妹の呼吸が、不意に変わった。
「……っ、……っ」
小さな胸が苦しそうに上下する。
喉の奥で引っかかるような音がする。
「ちょっと……大丈夫……?」
彼女は妹の顔に手を伸ばした。
触れた額は熱く、肌は汗で湿っている。
「呼んでくるから、待ってて」
薄いスリッパを履いて廊下に飛び出す。
壁につけられた非常灯だけが頼りだった。
冷たい床の感触が、足の裏から伝わる。
職員室の扉を開けた瞬間、彼女は息を切らしながら声を上げた。
「妹が……息が苦しそうで……」
職員は椅子から立ち上がり、慌てるでもなく、ゆっくり近づいてきた。
「病院、行く?」
そう聞かれた。
問いかけられているのは、彼女であって妹ではない。
“決めるのはあなた”
という空気が、またそこにあった。
「行きます」
迷いはなかった。
職員はタクシー会社に電話をかけ、「子どもが一人、急病で」と淡々と伝えた。
彼女はその間、部屋に戻って妹を抱きかかえた。
妹の身体は軽かった。
あまりにも軽くて、まるで何かが抜け落ちてしまったようだった。
タクシーに乗り込むと、妹は彼女の胸に顔を押しつけた。
弱々しく息をしているのが、布越しに伝わってくる。
「大丈夫だから。大丈夫だからね」
その言葉は、妹を安心させるために言ったのではない。
自分自身を落ち着かせるためだった。
病院に着くと、看護師はすぐに妹を処置室へ連れていった。
残された彼女に、受付の人が紙を差し出す。
「こちら、緊急の処置なので……今日の会計はだいたいこのくらいになります」
提示された金額は、持っていた財布の中身とほぼ同じ額だった。
ほぼ——
つまり、足りる“かもしれない”が、足りない“かもしれない”。
彼女は唇を噛んだ。
施設に戻れば、追加の費用は後で清算してくれるだろう。
でも。
でも——
その「後で」の間に、妹に何かあったら。
机の上の紙の数字が、急に現実以上の重みに見えた。
彼女は震える手で財布を開き、中身を数えた。
硬貨がカランと音を立てた。
その音がやけに響いた。
彼女は受付の人を見て言った。
「払えます。お願いします」
受付の人は、彼女の年齢を見て驚いたようだった。
けれど何も言わず、手続きを進めてくれた。
安堵したのは一瞬だった。
処置室のドアが開き、看護師が彼女を呼んだ。
「お姉さんですね。妹さん、落ち着きましたよ。今日は様子を見て、朝までここにいましょう」
ベッドの上で眠る妹の頬はまだ赤い。
けれど、規則的に呼吸していた。
胸の奥がずっと締めつけられていたのが、やっと少し緩んだ。
彼女は椅子に座り、妹の手を握った。
その指が小さく動いた。
「……よかった」
安堵が涙になりそうで、彼女は慌てて唇を噛んだ。
泣くのはだめだ。
泣いたら弱くなる。
弱くなったら、妹が不安になる。
泣きそうな顔を上に向けて、深く息を吐いた。
看護師がブランケットをそっと掛けてくれる。
「大変でしたね」
と優しく声をかけられた。
その優しさが、逆に胸を刺した。
大変だった。
怖かった。
本当は誰かにそばにいてほしかった。
でも、そんな願望を抱くことすら許されなかった。
妹が救われたのは、誰でもない、自分が決めたからだ。
——そう思わなければ、
彼女自身が崩れてしまう気がした。
あの夜、彼女は決めた。
(誰かに頼る生き方は、私には向いていない)
(迷うと遅れる。遅れたら守れない)
(だから——自分で決める)
その選択肢しか、彼女には残されていなかった。
だから今も、仕事で怒られるのが怖いのではなく、 “迷って妹を守れなくなったあの夜”が、体に染みついている。
頼らないように見えるのは、強さではない。
誰よりも壊れやすい場所を守るための必死の姿勢なのだ。
そしてその生き方は、今も変わらない。
たった一人——
あの人に出会うまでは。




