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未完成  作者: 春灯ゆかし
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■第5章|現在軸:妹の影

翌日の事務所は、普段と変わらない朝のざわつきに満ちていた。


スタッフからの欠勤連絡。

派遣先へのシフト調整。

同僚たちのパソコンの打鍵音。


ただ、彼女だけがいつもと違った。

出社時間はいつも通り。

髪型もいつも通り。

声も、言葉遣いも、強気でハッキリしている。

けれど、その“強気”が一日中どこか空回りしていた。


書類を落とす。

メモを取り違える。

電話の声が少し上ずる。


誰も指摘しなかった。

けれど、みんな気づいていた。

彼女の鎧に、昨夜入った小さなヒビの存在を。

夕方、俺が事務所の片隅で作業していると、彼女のスマホが机の上で震えた。

彼女は画面を見て、一瞬だけ凍りついたように動きを止めた。

その一瞬が、あまりにも決定的だった。


「どうした」


声が自然と出た。

彼女はすぐに顔を背けた。

強気な表情が間に合わなかった。


「……妹からです。ちょっと、体調が悪いみたいで」


あの夜の病院の匂いが、ふと脳裏を過ぎった。


「妹、一人なのか?」

「はい。近くに頼れる人、いないので」


言いながら、彼女はスマホの画面を握る手に力を込めていた。


「様子を見に行くしか——」

「無理です」


言葉が被った。


「今日シフト組まないと、夜勤が穴開いちゃうんで。妹より仕事優先しないと」

「お前、それは違うだろ」

「違わないです。穴開けたら現場が止まるんで。私が行かないと」


その声は強気だったが、強気の下で震えていた。

俺は深く息を吸い、彼女の目線の高さに合わせて言った。


「行け」


彼女は大きく瞬きをした。


「……え?」

「俺が埋める。現場も、シフトも。だから、お前は行け」

「無理ですよ。迷惑かける……」

「迷惑かけりゃいい。会社なんて、どうにでもなる」

「どうにでも……?」


彼女は困ったように笑った。


「そんな言い方、初めて聞きました」

「だろうな」

「普段もっと……なんかこう、ちゃんとしてるじゃないですか」

「お前の前ではな」


言うつもりのなかった言葉だった。

彼女は少し息を飲んだ。


「……それ、本音ですか?」

「本音だ」


沈黙が落ちた。

事務所の空気が、いつもの喧騒とは違う音を立てる。

彼女はゆっくり視線を落とすと、か細い声を漏らした。


「妹が倒れたら、私が行くしかないんです。だって、あの子には私しか……」


言葉が途切れる。


「……でも、行けないと思ってた。行ったら、仕事に穴開けるから。怒られるから。責められるから」

「怒らせとけ。責めさせとけ」

「そんな簡単に言わないでくださいよ……」


初めてだった。

彼女が“怒りに似た声”を出したのは。

でも、その声の奥にあったのは、

怒りではなく——恐怖だった。


「仕事が壊れるのが怖いんじゃない。人に迷惑をかけるのが怖いんだろ」


俺がそう言うと、彼女はゆっくり顔を上げた。

その目には、昨夜の裏路地で見せた弱さとは違う、もっと深い痛みが宿っていた。


「……迷惑、かけたことないんです。ずっと」

「知ってる」

「頼ったら……捨てられそうで」


その言葉は、弱音でも泣き言でもなく、彼女の人生そのものだった。

俺は迷いなく言った。


「捨てない」


時間が止まった。

彼女はその言葉を聞いた瞬間、表情が崩れかけた。

けれど、必死にこらえた。

唇をかすかに噛んで、顔を伏せた。


「……ずるいですよ、それ」

「そうかもしれんな」

「そんなこと言われたら、もう……行くしかなくなるじゃないですか」

「行けよ」


しばらくの沈黙のあと、彼女は椅子から立ち上がった。

震える息を飲み込みながら、カバンを手に取る。


「……行ってきます」

「行ってこい」


彼女は事務所の出口で一度だけ振り返った。

弱さも、生意気さも、強気も、すべて混じった顔だった。


「……ありがとうございます」


その声だけは、昨日と、今までの彼女と、すべてが違っていた。

そして、彼女は走り出した。

誰かのために、自分のために、人生で初めて“仕事を置いて”。


***

彼女の背中が見えなくなったあと、俺は静かに椅子に座り直した。

机の上には、彼女が今日必死で埋めようとしていたシフト表が残っている。


「……まったく」


思わず笑った。

俺はそのシフトを埋め始めた。

彼女のためではなく、彼女が“戻って来られるように”するために。

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