■第4章|現在軸:東京の夜
仕事を終えて事務所を出ると、彼女はいつもより急いでいた。
「今日はちょっと、用事があるので」
それだけ言って、彼女はすぐ駅の階段を降りていく。
いつもは「お疲れさまです」と軽く手を挙げるのに、その日は振り返りもしなかった。
——東京に行くんだな。
彼女が夜の仕事をしていることは、誰も知らない。
俺だけが、たまたま聞いた。
(妹の学費があるんで……昼の給料だけじゃ、ちょっと)
その言い方は淡々としていたが、どこか苦い後味を残した。
夜の都内に着いたころ、彼女の姿はもう雑踏に紛れている頃だろう。
都会の夜は、空気が少し湿っていて、どこか“人の孤独が混ざっている”匂いがある。
その頃、俺は自宅で書類を片付けていた。
彼女が夜の仕事をしていると知っていても、心配して電話をする権利なんてない。
深く踏み込むのは違う。
それくらいはわかっている。
——だったはずなのに。
スマホが鳴ったのは、日付が変わる少し前だった。
支店のグループLINEに、たった一行のメッセージが送られていた。
「……もう無理かも。ごめんなさい。」
送信者は――彼女。
数秒後、削除され、「送信取り消しされました」とだけ残った。
でも、遅かった。
見てしまった。
誤送信だとわかった。
支店のグループに送る内容じゃない。
(どこで、何があった?)
(今、一人か?)
(大丈夫なのか?)
頭の中が、冷たさと焦りで埋まる。
——行くべきじゃない。
——でも、行かない理由もない。
躊躇いは数秒だった。
俺は上着を掴んで家を飛び出していた。
***
夜の街は、昼とは別の生き物みたいだった。
看板の光、酔った笑い声、路地裏の静けさ。
そのすべてが彼女には似合わないと思った。
彼女の店の名前は言わなかったが、場所の“空気”だけは話してくれた。
歩けばわかる気がした。
少し暗い路地の奥に、ネオンの明かりが滲む入り口があった。
その横の裏口に、人影がしゃがみこんでいた。
肩が小さく揺れている。
コートも着ていない。
スマホのライトだけが、弱々しく彼女の指を照らしていた。
「……お前、大丈夫か」
声が思ったより震えていた。
彼女は顔を上げた。
化粧が少し落ちていて、目の下が赤い。
でも、涙の跡はなかった。
泣いていないのではなく、泣くのを我慢した跡だった。
「なんで来るんですか。来ないでくださいよ、こういうときに」
強気な言葉なのに、声が擦れていた。
「誤送信、見たから」
「……最悪」
彼女は額に手を当て、笑うでも泣くでもない顔をした。
「酔ったお客さんに絡まれて……私が悪いみたいに店長に言われて……でも、私、ちゃんとやってたのに……」
言い訳をしようとしたわけじゃない。
彼女は言い訳を嫌う人間だ。
ただ、“事実を誰かに伝えたかった”のだと分かった。
「俺がここに来たのは、お前が悪いなんて思ってないからだ」
「……そんなの、どうでもいいです」
そう言いながら、彼女は少しだけ肩を震わせた。
俺は中途半端な距離を保ったまま、目線を落として言った。
「寒いだろ。帰るぞ」
「でも……怒られるし……」
「怒らせとけ。お前がこんな顔して働くほうが、よほど問題だ」
沈黙。
夜の風がゆっくり吹き抜ける。
彼女はゆっくり立ち上がった。
足取りは少しだけふらついていた。
「……来ないでほしかったけど、来てくれてよかったです」
その言葉は、強気でも、生意気でもなかった。
初めて聞く、彼女の“素の声”だった。
俺は返事をしなかった。
返事をしたら、きっと踏み込みすぎてしまう気がした。
ただ、彼女が歩き出すのを見守った。
少し離れた距離を保ちながら。
ゆっくり帰る道すがら、彼女は一度も振り返らなかった。
でも、歩幅がわずかに俺に合わせられていることに、彼女は気づいていないようだった。
そして、そのことに気づいている自分が、少し怖かった。




