■第1章|現在軸:火花
派遣先の工場から電話が入ったのは、昼を少し過ぎた時間だった。
薄い壁越しに同僚の声が混ざる静かな午後、その一本だけが空気を鋭く切った。
「そちらのスタッフさん、今日のライン作業で手順を無視したって聞いてます。どうなってるんですか?」
電話口の声は冷たく、怒気を含んでいた。
俺は状況を整理しながら聞き返す。
「すみません。状況を確認します。担当者から折り返します」
担当者——彼女の名前が、自然と頭に浮かんだ。
「例の件、もう聞きました?」
背後から声がして振り返ると、彼女が書類を抱えて立っていた。
27歳。強気で、早口で、悪い意味でも良い意味でも“押しが強い”。
派遣コーディネーターとして有能だが、責任を抱え込みすぎるのが弱点だ。
「さっき工場からクレームが入った。手順無視って——」
「無視してません。指示のほうが間違ってたんです」
迷いのない言い切りだった。
「でも現場担当、相当怒ってたぞ」
「怒りたいなら怒ればいいんです。あの人、毎回うちのスタッフにだけ厳しいんですよ」
声は強いのに、目の奥にだけ小さな影が揺れた。
「お前、工場に行くつもりか?」
「行きます。私が判断したことなんで」
(またそれだ)
と、心の中でため息をつく。
“自分が判断した”
“自分が責任を負う”
その言葉は、彼女の口癖であり、鎧のようでもある。
「一人で行っても話はこじれるぞ。俺も行く」
「いらないです。一人で十分です」
強気な言葉が即座に返ってくる。
「十分じゃない。お前が悪いんじゃなくても、お前一人が怒鳴られる構造は良くない」
「怒鳴られませんよ」
と答えながらも、彼女のまつ毛の下がわずかに揺れた。
そこは見逃さなかった。
工場までの移動の途中、彼女は一度も俺と目を合わせなかった。
長い沈黙の中で、車のエンジン音だけが響く。
派遣先の担当者は案の定、彼女に対して語気を荒げた。
彼女は眉ひとつ動かさず受け止め、事実を順序立てて説明した。
説明は正確で、彼女の判断は妥当だった。
けれど、怒られるのはいつも“若い彼女のほう”だ。
押し黙った工場担当の前に、俺は一歩出た。
「判断については、最終責任は私にあります。改善策はこちらでまとめて再提出します」
そう言った瞬間、横にいた彼女の肩が揺れた。
驚きか、怒りか、安堵か。
そのどれでもいい。
ただ、彼女は何も言わなかった。
事務所に戻る車の中で、彼女がぽつりと呟く。
「……別に、かばわなくてよかったのに」
「かばったんじゃない。あいつと話すなら俺のほうが早い」
「そういう問題じゃ——」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。
窓の外を眺めるその横顔は、強気の仮面を貼りつけたままなのに、どこか疲れて見えた。
俺は余計なことを言いそうになるのをこらえた。
踏み込みすぎてもいけない。
踏み込まなくてもいけない。
この人は、そういう距離感を要求してくる。
「……すみません」
小さな声だった。
「何がだ」
「今日は、ちょっと……」
彼女はそこから先を言わなかった。
言わなくてもわかった。
強気な彼女が“少しだけ”疲れている日だった。
俺たちの距離は、まだゼロ地点のまま。
けれど、その“ゼロ”には、ほんのわずかな熱が宿り始めていた。
それを認めるのが、少し怖い気がした。




