追放された魔術師長は、記憶喰らいの恋人と記憶を編み直す
「以上の罪により、魔術師長エリシア・フェインは、全ての地位と権限を剥奪し、辺境へ追放とする」
玉座の間に響いた断罪の声は、氷のように冷たかった。
石造りの空間に、その言葉がゆっくりと沈んでいく。私の足元から音もなく何かが崩れ落ちていく感覚があった。
罪状は、禁忌魔法への着手。
呼び上げたのは、ガルネスト・ヴァン=ローウェン。
王弟派の中枢に座る男で、私の地位を欲しがっていたことは火を見るより明らかだった。
「彼女は失った者を蘇らせるため、禁忌の力に手を出した」
玉座の間に響く声は、勝ち誇りと作為を隠そうともしていない。その唇の端に浮かんだ薄笑いが、さらに私の胸の奥を焼いた。
示された証拠は、宝物庫の封印を破る私の姿を収めた監視記録。
覚えはない。私がやっていない異常、これは奴らの偽装工作だ。
だが、記録は鮮明で、言い逃れの余地はなかった。
私にはこれが偽装だと証明する方法がなかったのだ。
不当な告発に抗議の言葉を重ねても、議場の空気は微動だにしない。声を張るほど、周囲の視線は水面下へ沈んでいき、孤立の輪郭だけがくっきりと浮かんでいく。
私は静かに息を吐き、すべてを飲み込むしかなかった。
やがて扉が閉まり、石畳に足音だけが残る。廊下には冷たい陽光が差し込み、外套の影を長く伸ばした。
その背後で、誰かがほくそ笑む気配がした。
控えの間に通された私は、下された判決による罪がどういったものになるのかを聞くためだけに、ここに待機させられている。
扉の向こうには、無言のまま立つ二人の護衛兵。彼らは中に入ってくることもなく、私を見張るのは扉越しの気配だけだ。
閉ざされた小部屋の空気は、じっとりと肌にまとわりつく。机と椅子以外に何もない空間で、私は硬い背もたれに寄りかかった。
その沈黙を裂くように 、軽快な音が響いた。
音は足元から聞こえてきたので視線を落とすと、古びた革装丁の本がひとりでにページを震わせている。
それは、かつて遺跡調査の任務で私が発見し、宝物庫に封印されたはずの魔導書だった。
おかしい。封印を破って自力で外へ出られる魔道具なんて、見たことも聞いたこともない。
こんなのは、自分が魔術師長になってからはもちろん、それよりも前の歴史を辿っても、聞いたことがない。
あまりの規格外に、対応の仕方なんてまるで分からなかった。
扉の外の兵士たちは、この異様な光景を知る由もない。
私だけが、これをはっきり認識できている――そんな確信が背筋を冷やした。
ふいに、ページの震えが止まり、ゆっくりと開かれた。本の奥底から、かすかな囁きが漏れ出す。意味をなさないはずの音が、不思議と耳に焼き付いて離れない。
呼吸を浅くしながら、私はその声に耳を澄ませた。
すると、低く、甘やかな声が耳の奥に滑り込んできた。
『やっと見つけた』
聞き覚えはないはずなのに、その響きは妙に懐かしく胸に刺さった。
『さあ、記憶を編み直そう。そうすれば、君は二度と失わなくてすむ』
抗うべき言葉だと理性は叫んでいた。
それでも私は、囁きを無視することができなかった。
私へ下す判決の内容が決まったらしく、私は冷えた石床の広間に立たされた。
そこでは私の行いと、その背後にある意図までもが一方的に断じられていく。
最後に、判事の口から告げられたのは、王国辺境への永久追放だった。
その場で異議を唱えることも許されず、私の身柄は衛兵によって外へと引き立てられる。罪状の真偽など、もはや誰も気に留めない。
手の中にあるのは、いつの間にか懐へ忍び込んでいた一冊の古びた魔導書だけ。
その重みが、これからの私の運命を変えるものだという確信だけは、不思議と胸にあった。
その夜。
辺境行きの馬車の中で、私は膝に置いた魔導書を開いていた。外は闇に沈み、窓を叩く風音と車輪の軋む音だけが響いている。
ランプの光に照らされたページは、ひとりでにめくれ、古代語が淡く浮かび上がった。
『君に教えよう。僕は過去を編み直す力を持っている』
その声は、初めてこの魔導書の声を聞いた時と同じで、耳の奥に滑り込んでくる。
「編み直す?」
『そう、編み直す。過去をやり直すんじゃない。過去に戻る必要もない。君が望めば、その出来事は最初からそうだったように世界を書き替える力が、編み直し。代わりに、僕はその出来事に結びついた君の記憶をもらう。それが糸になるんだ』
魔導書の言っていることが理解できてしまい、思わず息を止めた。
『言葉より、試してみる方が早い。小さなことでいい。僕に書いてみて』
甘い囁きとともに、ページの上で光が瞬く。
もしも、魔導書の言っていることが本当だとするなら、私が三日前に失くした物も、見つけられるのだろうか。
宿屋で落としから、結局見つけられなかった銀のブローチを取り戻したい。
ためらいながらも、私は三日前に起きた出来事を書き込んだ。
文字を置いた瞬間、視界の端が細く歪み、窓の外の森の影が柔らかく揺れ、やがて色が満ちていく。
気づけば、最初からこうだったように、外の景色は元に戻っていた。
ポケットに手を滑り込ませると、指先に冷たい金属の感触があった。
取り出したそれは、確かに私が失くした銀のブローチだった。
「ブローチが、返ってきた……」
嬉しいはずなのに、胸の奥にひやりとした穴が空く。どうしてこのブローチが返ってきたら嬉しいと思ったのかが、私は思い出せなかった。
『その空白は代償だよ。少しだけ、君の物語をもらったからね』
「物語って、記憶のことよね。なんの記憶を……」
『そのブローチをくれた人の顔と名前』
途端に、脳裏にあったはずの記憶が、静かに砂のように崩れ落ちていく。
場面は残っている。光の加減、風の匂い、ブローチの重さも覚えている。けれど、その中心にいるはずの人物が、輪郭だけを残して霞に溶けてしまっていた。
『恐れることはない。失うのは断片だけだ。大切なものを取り戻すためなら、取るに足らない代償だよ』
氷のように滑らかな声が、じわりと胸の奥に染み込み、脈動と混ざっていった。
その夜から、私は魔導書の囁きに導かれ、少しずつ過去を編み直すことを覚えた。
最初は、落とした小物や忘れた約束を取り戻す程度だった。
だが、やがて救えなかった人を救い、追放の原因すら矯正しようと試みるようになった。
改変を重ねるたび、世界は確かに変わる。
同時に、それと同じ速さで、私の中の白い穴は広がっていく。
友の笑顔はモノクロ写真のように色を失い、声の響きは別人のものへとすり替わっていく。
『僕が覚えているから大丈夫』
魔導書はそう言い、私が忘れた情景を淡々と語り直す。
その声に安堵し、覚えてくれている誰かがいるからと自分を誤魔化し、私の指はまたページを開いてしまう。
なぜなら、その先に、二度と戻らないと思っていた大切な人の姿が、確かに近づいていることを感じられていたから。
それは、七度目の改変の夜だった。
窓の外は月が欠け、町は霧の底に沈んでいる。
魔導書のページには、私の震える筆跡でこう記されていた。
あの日、彼が死ななかったことにする。
筆先を止めた瞬間、胸が締めつけられた。
今までとは違う。これは世界の芯を動かす改変だと、直感でわかった。
『願いを叶えよう。代償は、大きいが』
魔導書の声は、私の躊躇いを簡単に溶かしていく。甘美な囁きに塗りつぶされ、私はそれに溺れていく。
「私の記憶で、彼は戻ってくる?」
『もちろん。君の物語から、もっとも深く根を張っているものを頂くけどね』
瞬きの間に、視界が白く塗りつぶされた。
目を開けると、彼は確かに生きていた。
街角で笑い、私を見つけて軽く手を上げる。
けれど、そこには再会の抱擁も、涙もなかった。
私たちはただ、名前を知っているだけの顔見知りになっていた。
ページを閉じた指先が震える。その震えを、魔導書は愉快そうに感じ取っている気がした。
『糸がだんだんほぐれてきた。そろそろ、君と僕の深い糸が結べそうだ』
その声は次第に、耳ではなく、まるで脳内に直接囁きかけてきているように聞こえ始めた。
ページの余白から伸びる影が、光の中で人の輪郭を帯びていく。
黒い紙片がほどけ、そこから現れた腕が私の手を覆う。温もりを持った、人の手だった。
『もう少し、あと少し。君の中の物語を重ねれば、僕は完全になる』
囁きとともに、影はまたページの中へ沈んでいく。
その温もりが離れていく瞬間、ひどく淋しいと思ってしまった自分に、ぞっとした。
それから、彼を助けたことで別の大きな変化があった。
私を邪魔者だとして、冤罪を作って私を辺境へ追いやったガルネスト・ヴァン=ローウェンという人物は、世界のどこにもなかった。
――まるで、初めからその椅子は空席だったかのように。
また、私の記憶を使って生き返らせた彼との関係にも、発展はない。彼は私に気づくと、穏やかに会釈するだけだ。
呼び捨てにしてくれた声も、肩を抱く手も、もう存在しない。
『いただいたよ。彼と君を繋いでいた、太くて赤い糸を』
背後から、懐かしい声がした。
振り向けば、そこに立っていたのは――あの日失った恋人に酷似した青年。
肌の温もりも、笑いじわの寄り方も、全てが恋人によく似ている。
ただ一つ違うのは、声だ。声だけは魔導書のものと同じで、私を甘く誘惑してくる。
彼は歩み寄り、指先で私の頬をなぞる。
『これで僕は、ずっと君の隣にいられる。もっと君を知りたい。もっと……君の物語をちょうだい?』
唇が触れ合うたび、何かが抜け落ちていく。けれど、不思議と恐ろしくはなかった。
ふと、彼が笑って言った。
『そういえば、あの時。君が冤罪になる記録が出来てしまったのは、僕が動いたからなんだ』
冤罪。
その言葉が何を指すのか、私は思い出せない。
ただ、目の前の彼氏が笑っている。胸の奥の空白は、もう痛くない。
私は彼の胸に顔を埋め、その腕の中に沈んでいった。