エピローグ
「これでいい? 姉さん」
とうの昔に消えた彼女。
ありもしない噂に呑み込まれ、存在していたかも分からなくなってしまった人。
その存在すらも否定され、その度に曖昧な答えを出しては放置され続けてきた。
ただ事実として残っている記憶さえも、今は色褪せて消えようとしている。
あの人は、一体何者だったのだろうか。
そもそも、本当に存在していたのだろうか。
そんなことを考えながら、窓の外の景色に目を細める。
側で妻に見守られながら、限界まで目を開けていようとその手を握り締めた。
結婚してからお互いに年を取り、喧嘩した数だけ皺が出来た。
元は黒かったその白髪さえも愛おしい。
「ありがとう。私は、君に見守られながら年を取れて、空に還ることが出来るんだ」
自分の手を硬く握っていた彼女は、透明な涙を拭いながら微笑む。
「そうね。私こそ、幸せだったわ」
そうだ。この笑顔が、好きだった。
襟元のブローチはエメラルド色に光を反射させている。
目を閉じると、目蓋の裏に緑色の痕がくっきりと残っていた。
まだ、光を記憶することが出来る。
まだ、自分は此処にいる。
もう一度目を開けて、妻の表情を目に焼き付けようと微笑んだ。
「泣かないでくれ。病でなくとも、私はいずれこうなっていた」
もう動かない手には一方的な暖かさが伝わって、それが切ない。
そこでふと、思い出した。
今もまだ鮮明な、あの日の記憶。
もう、何年も昔の話になる。
町で見付けた彼女は、確かに笑っていた。
その年で二十歳。
思い出す度に、あの時自分がしたことは本当に正解だったのか。間違っていなかったのか、と何とも言えない気持ちになる。
今もまだ、それに対しての答えが出ていない。
でも、ただ一つ言えるのは──彼女は、幸せだったのだということ。
腰のラインがくっきりと見える真っ白なワンピースを身に纏い、無邪気にクルクルと回っている。
──今思えば、隠れる気なんて、最初から無かったのかもしれない。
これでいい、これでいいのだ。と、自身に言い聞かせるように胸を張って。少しも怖気付くことなく。
彼女は、笑っていた。
彼女を中心に視線が吸い寄せられる。だが、そこは一人の世界ではなかった。
彼女を中心とした、彼女のために作られた世界。
そんな言葉がぴったりと嵌まる。
それくらいに、美しいのである。
堂々と、軽やかに。
頭から足の指先までが滑らかな動きを見せて、まるで天使のように。
時々頭から浮かせる麦藁帽子には遊び心が見えるし、そこが可愛らしくて美しい。
──今から、何処かの誰かに会いに行くのだろう。
両手で花束を抱えるその姿が、嫌でも目に付く。
誰に渡すつもりなのか、或いは貰ったのか。
考えても答えは出ない。いや、そもそも一つしか無いのである。
細くて華奢な茎からは想像もできないくらい、大きくてきれいな花。真ん中が丸く盛り上がり、その周りにフリルのような愛らしい花びら。とても柔らかい。
ふと、彼女の横顔が見えた。ふっくらとした白い頬には薄く紅色のチークが乗っている。
はっと息を吸う。それ以上に出来ることなど無かった。
彼女がそのまま白いスカートを翻したその時。
花束から零れ落ちた花弁が軽やかに宙を舞った。
それが頬を掠めて、擽ったいような焦れったいような気持ちが押し寄せて、思わず泣き出したくなってしまう。
喉の奥に絡まった言葉が邪魔をして、本当に伝えたい意味を探せない。何と言うべきか分からない。話し掛けてもいいのかすら謎だった。
意味を持たない声が掠れて零れ落ちる度に、これも駄目だと焦ってまた別の言葉を探す。
「あら」
人々が込み合う大きな町中で、ただ一人の彼女と目が合った。
黒髪が風に靡くその姿は、昔と全く変わらない。
「久し振りね」
そうやって微笑んだ、気がした。
「スカビオサの花束」は、これにて完結となります。
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またご縁がありましたら、次作もよろしくお願いします。




