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人々の騒がしい声。それが鬱陶しく耳にへばり付く。
時々鼻を掠める煙臭い煙草の香り。自分自身もその臭いを纏いながら、街中をふらふらとしていた。
ここに来てから時々スリに遭ったりもしたが、もう慣れた。もう見慣れた汚い街並みを目にしながら、当てもなく適当に歩く。
無計画な暗殺は失敗し──あれから、三ヶ月が経とうとしていた。
屋敷を追い出されてから、生活は意外にもこれまでの貯金で何とかなっていた。
が、それももう尽きようとしている。
適当に仕事を見つけて頑張ってはいるが、以前のような生活など出来る筈が無かった。
「……またか」
暫く前に買った小屋に帰ると、室内は散らかっていた。
あぁ、まただ。
以前もこうして空き巣に遭ったことがある。
幸い、貴重な物は全て、カーペットの下にあるとても小さな倉庫(とは言えないかもしれないが)に仕舞ってあったので取られてはいなかったが、片付けが面倒そうである。
アスターは溜め息を吐きながらも、そのまま屈んでバラバラになったガラスの破片を拾う。屋敷では、こんなことは無かったのに。無意識に不満を口にしながら、静かに立ち上がった。
一時間程掛けて片付けを終えると、疲れ切った体を癒やす為に硬く肌触りの悪い布団に体を埋めた。手触りの悪いシーツが頬を擦る。
まだ夕方だというのに、眠気が意識を襲ってくる。
まあ良いか、と目蓋を閉じると、ふとあのお嬢様の顔が浮かんだ。
艶やかで風に靡く髪に、同じように輝く宝石を閉じ込めたかのような瞳。
雪のようなその白い肌には、淡い色味のドレスがよく似合う。
──あの細い首を掴んだとき、自分はどんな顔をしていたのだろうか。
もう終わった筈なのに、そんなことを考えてしまう。
もう、忘れたい。
消えてしまいたい。
中途半端に終わってしまったことが、これほどなく悔しくて。虚しくて。死にたくなる。
なのにあの時、お嬢様を殺せなかった事へ“安心感”を覚えたのも事実であった。
閉じきった目蓋に力を入れる。溢れそうになる涙を乾かすために体を起こして仰向けになる。こんなの、情けない。
そんな自分を、呪いたくなった。
**
次に聞こえたのは、何者かが扉をノックする音だった。
時計を見ると、既に早朝。
汗を流すのを忘れていたが、そんなことはどうでもいい。取り敢えず出なくてはと返事をする。
夕食を食べていない為ベッドから起きるのもやっとだったが、そのまま扉の前へと向かった。
一体誰だろう、こんな時間に。
髪を掻き上げ、軽く整えてドアノブを捻る。そのまま扉を開くと、そこには懐かしさを感じさせる青年の顔があった。
目を少し見開き、そのまま口を開く。
「エドワード、様」
一体どうやって此処を調べたのか。
そう思ったが、気付いてしまった。結局、お嬢様の訴えは認められず、罪人であるアスターを捕らえに来たのだろう。
──でも、もういい。このまま生きていてもつまらない。
そのまま抵抗せず動かないでいると、エドワードは硬い表情をしながら、静かに“それ”を差し出した。
「お前宛だ」
そうやって、猫のような鋭い瞳で睨んでくる。その様子を見ると、どうやら、アスターを捕らえに来た訳ではないらしい。
「手紙……私に、ですか?」
すっかり荒れた手でその手紙らしき物を受け取る。
こんなもの。一体、誰から。それに何故、エドワードが届けに来たのだろうか。それに、手紙には差出人が書かれていない。
疑問に思っていると、エドワードがそれに答えるように言った。
「知らないのか? ……まあ、新聞を買えるほどの金も無いんだろうな」
彼は、こんな人だっただろうか。──こんな風に笑うような男だっただろうか。
口調も変わっているし、何より表情が硬い。
「……?」
慌てて白い封筒を開ける。その中には、綺麗に折り畳まれた真っ白な紙が入っていた。
それを開くと、今度は丁寧で美しい字が目に入る。
読む前に差出人を確認しようと下の欄を見てみると、確かに『マリアンヌ・スペンサー』と、これまた美しい字。
「お嬢様が……?私に」
慌てて目を通す。
一体、何が書かれているのか。
嫌な予感がする。
──いや、きっと、気のせいだ。
そうに決まっている。
黙々とその文章を目で追っていく。途中、震える指先でペンを握ったのだと分かる程、文字は滲んだり崩れたりしていた。所々に読めなくなっていた所もある。
──泣いて、いたのだろうか。
「……お前、知らなかっただろ」
すっかり低くなった彼の声は、少しだけ揺れていた。
「……っ」
読み終え、紙がくしゃくしゃになる程、その手紙を握り締めた。
そして、既に分かりきった事を問うのだ。
「……お嬢様は」
自分で思っていたよりも、小さく怯えたような声が出る。
「あぁ、死んだよ。一昨日首を吊って」
中途半端に開いた唇。
はっきりとそれを耳にして、手紙を、いや、遺書だと思われる物を乱暴に振り下ろす。
「それ。それが、引き出しに、入ってたんだよ。お前に渡せって」
エドワードは今にも泣き出しそうな表情をして、唇を強く噛んでいる。
丁寧に書かれた遺書には、謝罪の言葉が多く鏤められていた。
──アスター・ナイトベル様
──貴方がこれを読んでいるということは、私は既にこの世に居ないと言う事でしょうか。
──お恥ずかしながら、手紙を書くのは初めてですので、何からお話しすれば良いのか迷っています。
──少し、昔の話をさせてください。
くしゃくしゃの遺書をもう一度広げると、そうやって落ち着いた様な印象で始まるのだ。
出会った時から現在までが、丁寧に、話すように書かれているのである。そこから先は、先程とは別の水滴のせいで滲んで読めなくなってしまった。
「何故、どうして」
悲しめるような、後悔できるような立場でないことなど、分かっていた。でも、だって。こんなこと。
「分かってる筈だ。婚約破棄にお前の裏切り、居場所なんて何処にも無かったって」
俯いたエドワードは、悔しそうに拳を握る。
「──確かに、あの人はお前を許したし、ここまで逃がした。でも俺は、お前を一生許さない」
少し前まで、『僕』とまだ子供のような印象だった。
けれども、今の彼はそうやってアスターを睨む。三ヶ月。たった三ヶ月で。
そんな彼を見ていると、暫くして此方を突き放すように後ろを振り向く。
「あの人が死んだのは、お前のせいだ。……これから一生、この償えない罪に苦しんで生きてろよ」
それだけ。本当にそれだけを伝えに来たのだ。わざわざ、こんな所まで足を運んで。
たった、これだけ。静かに言い残して、大きな背中を向けたまま去って行こうとする。
どうして。どうして。
アスターには、それを止めることさえ出来なかった。




