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雨が止んだのか、辺りは恐ろしいほどに静かだった。
石を踏んだのか、小さな振動が馬車に乗った体を揺らす。
その目の前には、あの公爵が難しい顔をして俯いている。
──無理もない。陛下や殿下達から、あんなことを言われたのだから。
「まさか、マリアが……」
空に浮かぶ青白い月のような顔をして、公爵がそんな事を呟き初めてから、もう数分が経った。
アスターも何も言えぬまま、二人の間には気まずい空気が流れる。
「あんな事を、するなんて」
額にいくつもの汗を流す公爵は、時々息を荒くして苦しそうにする。
時々聞こえる水の弾かれる音。
車輪の振動が此方にまで伝わってくる。
「クソッ、どうしたら……」
お嬢様には興味を無くしたかと思っていたのだが、そうでも無かったらしい。
だが、今回のことで公爵の声は怒りで満ちていた。
「マリアに、話を聞かなければ……」
今にも爆発してしまいそうなほどの怒りを溜め込んだ、公爵の地を這うような声。それを聞いているだけで背筋が凍りそうになる。
「旦那様。ですが、今日はもう遅いので、明日以降に……」
このまま帰ってから話をすれば、きっとお嬢様は朝まで説教を、いや、説教どころではないだろう。
そして何より、自分も側でそれを聞いていなければならない。
何故こんなにも公爵がお嬢様に対して怒りを露わにしているのか……それは、いずれ分かるだろう。
それにしても、お嬢様は可哀想だ。
ありもしない噂を立てられ、周りから恐れられてしまい、母親は不可解な死を遂げて。
更には今──
原因を作ったのは自分自身だが、流石に同情してしまう。あのお嬢様には、ささやかな幸せを生きる権利すら与えられていないのかもしれない。
いや。それが、お嬢様や夫人への報復である。幸せになど、させてたまるか。
家族を奪った相手に加減する必要など無いのだから。
アスターは、間違っていない。
罪人に罰を与える。たったそれだけ。
それが、今此処にいる理由なのだから。
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暫くして、馬車からの振動が消える。
ゆっくりと水を弾く音を立てながら、やがて止まった。
どうやら、屋敷に着いたらしい。
渋い表情を更に歪めながら馬車を降りる公爵。冷静さはあるものの、未だに現実を受け入れられていない様にも見える。
その大きな背中を追っていくと、玄関の大きな扉が見えた。
──もしかしたら、お嬢様が出迎えてくれるかもしれない。
けれども、今の公爵にそれは逆効果だろう。それに最近、何故かお嬢様はアスターを避けている。
出迎えられるのは此方としても気まずい。
「お願いだ……」
公爵に聞こえないように、小さな声で呟く。
扉の先に誰も立っていないことを祈りながら歩く。
そして、公爵が重い扉に手を掛ける。
ゆっくりと開くその隙間から、眩い光が此方を覗く。
すると、やはり聞き覚えのある声。
「お父様、お帰りなさいませ」
予感は、的中。
目の前には、お嬢様と数人の使用人が立っていた。
礼儀正しくカーテシーをする彼女の姿は美しいが、やはり公爵にとっては逆効果だろう。
駄目だ。
今の公爵は爆発寸前。
どうにかしてお嬢様を避難させ、自分も自室へ──
ところが次の瞬間、屋敷全体に使用人の叫び声が響いた。
「旦那様っ、何をっ……!」
アスターの瞳に映るのは、公爵がお嬢様の綺麗な顔に平手打ちを浴びせる様。
「おっ、お父さ……」
お嬢様は自身の赤く腫れた頬を押さえながら、涙を流す暇もなく、驚いたような、怯えたような視線を送っていた。
上品な緑色のドレスのスカートが待って、床に崩れ落ちる。
「五月蝿い!!この役立たずめ!!」
公爵の怒りは、もう収まらないだろう。
明日にしようと提案したばかりだというのに。
「お、父様……?」
何も知らぬお嬢様は、もう一度公爵に呼びかけ、混乱したようにその赤くなった顔を見上げる。
そんなお嬢様を瞳に映した公爵は、顔を真っ赤に染めて目を見開きながら、お嬢様を睨み付けた。
そして屋敷中へ響くような声で告げたのだ。
「殿下との婚約が、白紙になった!!」
あぁ、もう駄目だ。
アスターは目を閉じる。
その目蓋の裏に、王城での出来事──一日前の様子が映る。
あの地獄のような光景を、思い出す。