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真夜中。
突然、目を覚ました。
煩い雨音は既に消えていて、夜の闇に水溜まりがキラキラと反射する。
多分、星よりも眩しかったと思う。
渇いた喉を潤そうと部屋を出る。
廊下の暗闇を暫く歩き、ふと足を止めた。
──アスターの、部屋だ。
マリアンヌは無意識に、そのドアノブに手を掛ける。
ここから先には、決して足を踏み入れてはならないと言うのに。
「駄目……」
分かっている。なのに、体は言うことを聞かないのだ。
とても緩い。鍵は、掛かっていなかった。
音がしないように、その緩いドアノブをゆっくりと捻る。
簡単に開いた扉の中からは、確かにアスターの香りがした。──いや、洗剤の香りだろうか、何だかよく分からないが、ふわりと包み込まれるような匂いだということは分かる。
部屋の中は──部屋の半分の面積を埋めるベッドに、ポツンと置かれた茶色い机。
その上には難しそうな本や、何枚も重なる書類が置いてあった。
此処は確かに、アスターの部屋である。
マリアンヌは、つい好奇心で足を踏み入れた。
足元から聞こえる、床が軋む音。
紙とインクのツンとした匂い。
散らかった机の上。
月明かりの差し込む窓とそれの溶ける白い床。
その全てが、マリアンヌの心臓を高鳴らせた。
ふと、エドワードの言葉を思い出す。
『落ちていた日記』
そうだ、日記。
それを見れば、全て──
「いいえ……部屋に、戻らなくちゃ……」
頭ではそう分かっているのに、
いつの間にか自身の腕は引き出しに伸びている。
今この瞬間、マリアンヌの頭は緊張感と興奮で埋まっていた。
別の事を考える余裕も、自室へ戻ると言う選択肢も無かった。
腕を、引く。
「あら」
一段目の引き出しには、机の上に収まりきらなかったであろう書類達が重ねられていた。
仕事が、大変なのだろうか。
そのまま、続けて二段目へと手を伸ばす。
「次は写真……?」
二段目には一枚だけ、家族写真であろうものが入っていた。
一番右下には、幼いアスターだと思われる少年が写っている。
その隣には……姉、だろうか。
美しい女性が座っている。
「……?」
何故か、その女性に見覚えがある気がする。
「まぁ、気のせいね」
アスターの家族とは会った事が無いので、気のせいだろうとそれを引き出しに仕舞いこんだ。
駄目だと分かっているのに、またもや三段目に目線を向ける。
──もう、体はマリアンヌの意思と関係なく動いていた。三段目、最後の引き出し。
見えたのは、褪せた表紙の手帳。
「日、記……」
やはり、大当たりだった。
日記の筈なのに、大切そうに引き出しの中に保管してある。
持っていかなかったのだ。
それとも、忘れ物だろうか。
どちらにせよ、好都合である。
マリアンヌは、吸い込まれるようにその日記を手に取る。
駄目だ、今からでも戻るべき。
見てしまったら戻れない。
ここはアスターの部屋で、ここにある物全てが、アスターの私物──
頭の中は冷静であり、それと同時に酷く興奮していた。
もう、止まらなかった。
途中のページを捲る。
最初に見えた文字は、『お嬢様』
「あら、私……?」
一体何が書かれて──
マリアンヌは、はっきりと、自身の目でその日記を見た。
『お嬢様が話し掛けてこなくなった』
『此方からも近付けない』
『やはり、エドワードとか言う義弟から漏れてしまったのかもしれない』
一昨日の日付。
「……? あら、どういう事かしら」
慌てて一番最初のページに戻る。
最初のページには、読むのもやっとな程、幼く落ち着きのない字でこう書かれていた。
『姉がころされた』
「っ……!」
幸いなのか分からないが、書かれていたのはその一文。
姉が、殺された……。
ページを捲ろうとする指が、いや、全身が震えた。
その後もペラペラと捲っていくと、漸くしてはっきりと読める字が見える。
『姉を殺したのが、スペンサー公爵家の御令嬢だと言うことが発覚した』
「……え?」
一拍。いや、それ以上置いてから、思わず声が洩れる。
スペンサー公爵、御令嬢……確実に、マリアンヌのことだ。それ以外あり得ない。
姉を、殺した?
全く覚えのない。
次のページには、
『スペンサー家の使用人、それも姉を殺した張本人であるマリアンヌ・スペンサーの専属執事の座を手に入れた』
いつの間にかその文字は、大人びて整った形をしている。
何処でどうやって、ここに来たのかは分からない。
でも、これは、アスターの日記……。
そういえば──あの、家族写真。
アスターの隣に写る女性。
『おかさあま!わたくし、あのとってもきれいなおねえちゃんがほしいわ!!』
かつての自身の声。
「ぁ、あぁ……」
顔が、青ざめていく。
息が、苦しくなる。
自分でも分かるほど、肩が熱く、手が冷たくなっていく。
全身が、凍る。
──思い出して、しまった。
**
『あきた!おねえちゃんなんかいらないわ!』
一ヶ月程前、マリアンヌは町中で、庶民の美しい女性を姉にしたいと連れてきたのである。
──けれども、それには一瞬で飽きてしまった。
『えっ』
女性は足に着けた枷の音を鳴らす。
幼いマリアンヌは理解していなかったが、連れてきた女性はマリアンヌと遊ぶとき以外は乱暴に扱われていて、逃げられないように重い足枷を付けられていた。
『あらまぁ、飽きちゃったのね』
お母様はマリアンヌに対して苦笑する。
『あのっ、なら、私は』
すっかり痩せこけた女性が、渇ききった喉からその声を絞り出すと、お母様は信じられないくらいに大きな声で女性を怒鳴る。
『黙りなさい!』
お母様は、女性が庶民だからときつく当たっていたし、辛い重労働をやらせていたのもそのお母様だった。
『その庶民の汚い生意気な目。気に入らないわね……。お前、こっちに来なさい!』
お母様はそう言って、女性を地下室へ連れて行ってしまった。
あの、暗くて怖い、変な臭いがするあの場所へ。
──女性がその後どうなったのか、マリアンヌに知らされることは無かった。
なので、今まで忘れていた。
酷い話だ。
自分が連れてきたくせに、すぐに飽きて、物のように扱って。
「頭が……」
激しい頭痛。
どうして、今まで忘れていたのだろう。
「ベルは……私を……」
恨んでいるのだ。
きっと、今にも殺したがっているだろう。
これがただの使用人だったなら、まだ違っていたかもしれない。
けれども。
誰か、夢だと言ってくれ。
「どうして……」
毎日欠かすことなく丁寧に手入れされた髪を両手でぐしゃぐしゃにして、マリアンヌは繰り返す。
「どうして、どうして……!」
何故、アスターなのか。
何故、自分はマリアンヌなのか。
何故、欲しがってしまうのか。
「ベルは……アスター・ナイトベルは……」
何故、何故、何故、何故。
違う、違う、違う、違う。
マリアンヌがどんなに否定しようと──頭の中には、その事実だけが存在していた。
『恋した人は──私を殺したいほど憎んでいる』