第66話 水族館
「うわー! 綺麗ぃ!」
「こら、あまりはしゃぎすぎるなよ」
六月のとある日曜日、俺と真白、それに水無瀬と乙羽は市内最大の駅で待ち合わせして、電車で水族館に向かった。
チケットを買って、エスカレーターで上の階に上がると、薄暗い照明によって照らされた大小のクラゲの水槽が神秘的な空間を作り出していた。
それを見て水無瀬が感嘆の息を漏らしたわけだが、ほかの客もいるから宥めておいた。
ここで言及しなければならないのは、乙羽のチケット代についてだ。
最初は俺と真白のお小遣いでなんとかしようと思ったが、楽々浦から封筒を手渡された。
中を覗くと、金が入っていた。
『どういうこと?』と楽々浦に質問すると、彼女はにっこり微笑んで話してくれた。
『今回のことは生徒会の仕事でもあるからね。それでお姉ちゃんと相談して用意したの』
それを聞いてほっとした自分がいる。
少しずつだが、楽々浦は確実に桜小路先輩とのわだかまりが消えつつある。
それが俺の望んでいることでもあるから、すごく嬉しかった。
昔の楽々浦はきっと姉に頼ることはしなかっただろう。
そういう意味でも、楽々浦は変わった。
「先輩、ごめんなさい……」
声の方に振り向くと、乙羽が申し訳そうに俯いていた。
「俺は今日水族館に来るのをすごく楽しみにしていたんだよ」
「どういう意味でしょうか?」
「ずっと一緒に勉強してきたから、遊ぶ時も乙羽がいないと寂しいからね。楽々浦はそういう俺の願いを叶えてくれただけだから気にするな」
「はい!」
気分転換させたい本人を申し訳なくさせては本末転倒なのだから、そこのフォローは俺に任されている。
色々考えてはみたけど、やはり自分が言われて一番嬉しいことをかけることにした。
それが正解だったようで、乙羽は元気を取り戻し、キラキラした目でクラゲの水槽を眺め出した。
「凪くん……」
「どうしたの? 真白」
「手、繋いでもいい?」
「いいよ」
水族館に入ってから少し目が潤んでいた真白の手を握ると、彼女は一瞬驚いて次第に優しく俺の手を握り返してくれた。
真白の手を握ったまま、改めて周りを見渡すと、室内の真ん中に球状の透明な水槽があった。
その中には白い花びらのようなクラゲや、茶色いキノコのようなクラゲが優雅に泳いでいた。
まるで真空に漂う星のように、疎らな光を灯してその小さな世界を照らしている。
「真白、知ってるか? クラゲは実は泳げないんだって」
「今すぐ救助しないとだめですね」
「そんなこと言ってる割に真白は動こうとしてないよね」
「だって、凪くんから離れたくないもの」
不意打ちに放たれた真白の言葉に、思わずドキドキしてしまった。
まるで心臓を摘まれたかのように、くすぐったくも心地がよかった。
「クラゲには骨がないから、泳ぐというよりただ漂っているだけらしいよ」
推測でしかないが、おそらく真白は水族館に来たことはない。
だから真白に楽しんで貰えるように、魚とか海の生物について事前に調べておいた。
「わんちゃんたちが文句を言いそうですね」
「毒があるからどのみち食べられないよ」
真白のほうを見ると、彼女と目が合った。
どちらからともなく、二人してふふっと笑ってしまう。
いつもの噛み合っていないようで噛み合っている会話もいいが、今は真白の話に合わせたい。
今日の彼女はいつもより綺麗だった。それはきっと真白は今日という日を大切にしているということだ。
そんな日を俺も大切にしたい。
真白とのこの穏やかな時間を大切にしたい。
そう考えた時、真白は俺の手を握りしめた。
「凪くんでよかった……」
「うん?」
「私の彼氏は凪くんでよかった」
俺を見つめ直して真白はゆっくりと言葉を紡いだ。
それはすごく照れくさいものだから、自分の頬が熱くなっていくのを自覚した。
「……それはどうも」
だから、照れ隠しに顔を逸らして零すように言った。
「凪くんは?」
「うん?」
「凪くんは私が彼女でよかった……?」
「そんなの当たり前だよ」
俺の気持ちを伝えるように真白の手を握りしめる。
不安そうに少し震えていた彼女の手はやがて熱を取り戻した。
「俺は真白が彼女でよかった。いや、真白以外の人なんて考えられないくらい、俺はお前を愛している」
「ふふっ、今愛していると言いましたね」
「あっ……」
我に返って、とても恥ずかしいことを口走ったことに気づく。
「……水族館だけで満足するなよ」
「えっ……?」
「一緒にアイスを食べて、水族館に行って、ほかにしたいこともあったら全部言ってくれ。全部叶えてあげるから」
クラゲの水槽に目をやったまま、俺は今の真白を見て思ったことを話した。
俺は約束した。
真白の人生がハッピーエンドになるための協力をすると。
だから、水族館だけで満足してもらっては困る。
もっともっと真白にたくさんの楽しいことを知ってもらいたい。
彼女にもっともっと普通の女の子になって、普通に笑っていてほしい。
なぜなら、真白の笑顔を見るのが俺の幸せなのだから。
「凪くん……」
「なんだ?」
「私も凪くんのこと、愛してます」
真白のその言葉に、俺の心臓は再び締め付けられた。
期せずして告げられたその言葉に、俺は真白を幸せにする決意をさらに強めたのだった。




