利用
理不尽な怒り方だったにもかかわらず、少年は、怒るでもなく、悲しむでもなく、おろおろしていた。
林檎が一番嫌いなタイプだ。優柔不断で、気の利いた答えが出せない。
「別に、何を食べてようが良いです」
ぷいっ、と少年から目を逸らして、林檎はまた歩いていこうとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「?」
少年の前を通り過ぎようとした時、少年が林檎に声をかける。食べかけのコロッケを持ちながら。
「もうちょっとで暗くなっちゃうよ。子供が一人でこんなところにいるなんて危ないよ」
「貴方がそれを言うのですかっ」
林檎は、これは正当な怒りだと思った。見たところ、ガードレールに腰掛けてコロッケ(おそらく揚げたて)を食べている少年も、林檎と同じくらいの歳だ。そっくりそのまま、言葉を返してやりたい。林檎は立ち止まって、両手を腰に当てた。
「貴方こそ、家に帰ったらどうですか? ここの方なのか、観光客なのか知りませんけれど!」
「うっ、それを言われると何も言えない……」
少年は、しょんぼりとして俯いてしまった。
「実は、ぼく、お父さんとケンカしちゃったんだ」
林檎は目を瞬いた。このおとなしそうな少年が、父親とケンカ?
「ぼくのお父さん、良い人なんだけど……ちょっと、やりすぎなところがあって」
「やりすぎなところ、ですか。コロッケ、食べても良いですよ」
「あ、うん。ありがとう」
少年は嬉しそうに笑って、林檎の前で食べるのをやめていたコロッケを食べ始めた。コロッケがなくなった頃、また、話し始める。
「それで、やめてって言ったら、“どうしてわかってくれないの”って泣き出しちゃって……気まずくて逃げてきたんだ」
それは、喧嘩というのだろうか。
一方的に父親を泣かせて逃げてきた少年は、とっても重たい雰囲気を醸し出していたから、林檎は口を挟む機会を逸した。
「それなら、私よりマシですねっ」
少年が腰掛けているガードレールに、自身も身をもたれかけさせて。林檎は、父親と喧嘩? した共通項を持つ少年に、少しだけ、自身のことを語り始める。
「私の父は、泣いてもくれませんでしたから。“暗くなる前に戻ってきなさい”と、事務的なことを言うだけでしたわ」
子供の家出。今は旅先だから、その表現は相応しくないかもしれないが……父は、林檎が帰ってくると、たかを括っているのだろう。それが、林檎には面白くない。
「だから、もう少し暗くなってから、家に帰るつもりでいるのですっ」
「……ぼくも、そうしよっかな!」
少年は、勇気を振り絞るようにそう言った。林檎は、半眼になった。
「貴方は帰りなさいな」
「な、なんで?」
「貴方に言い負かされる父親なんて、貴方が失踪したら……貴方がどこかに行ったら、何をするかわかりませんよ」
少年は、ぐ、と口を閉じた。思い当たるところがあるのだろう。林檎は、口元を緩めた。
こんな平和な喧嘩をする親子だっているのだと。
誰かに悩みを相談するよりも、誰かの悩みを聞いた方が、気が楽になることがある。捻くれていた林檎の場合は、それだった。
少年は、ガードレールから、ぴょんっ、と飛び降りた。
「なやみ、聞いてくれてありがとっ」
そう言って、林檎に笑いかける。麦わら帽子に隠れた、平凡な笑顔。邪気のなさそうな笑みを見て、林檎は、彼に決めた。
「どういたしまして。ところで、貴方」
「なに?」
駆け出していこうとする少年を呼び止めて、林檎は、笑顔でこう言った。
「明日の朝十時、また、ここに来てくれませんか?」
「……いいよ」
少年が答えるまでには、少しの間があった。林檎は、自分の企みごとに精一杯で、それに気付かなかった。
この、少しの間に気付いていればーー少年の父親が、なぜ、泣くまで大切にしているかに考えを巡らせていればーー林檎は、失わずに、済んだかもしれないのに。
雲行きが怪しくなってきて、多原は、シュークリームを食べる手を止めた。林檎さんの方を見ると、林檎さんは、困ったような顔をしていた。
「初恋の話なのですが、これは私の、懺悔の話でもあるのです」
「林檎、どこに行っていたんだ。心配したんだぞ」
事務的な口調で言われても、林檎には響かない。
「ごめんなさいお父様。少し、海岸で散歩していたの」
笑顔を貼り付けて、林檎もまた事務的に言う。喧嘩をする前に話していたことに関しては、言及をしなかった。
「それより、聞いてくれますか? 私、とっても素敵な出会いをしたの」
「素敵な出会い……?」
林檎は、話し出した。父親に大切にされている少年の話を。
「明日また、会う約束をしています。良いですよね?」
少年は、父親とのわだかまり? を解消できただろうか。少なくとも、林檎はそれができない。できそうもない、したくもない。
だから、表面上の仲直り。
少年に会うことを理由にして、林檎は、父を拒絶した。
「早いのですね」
林檎が約束の三十分前に行くと、少年はもう、ガードレールにもたれかかっていた。今日は、何も手に持っていない。相変わらず麦わら帽子を深く被っている。
林檎が声をかけると、麦わら帽子越しにもわかる、少年は、ぱあっと顔を輝かせた。犬など飼ったことはないが、こんな感じなんだろうかと、林檎はふと思った。
「あれからね、お父さんと仲直りしたんだ。お父さんは、ごめんねって言ってくれて、ぼくも、ごめんねって言ったんだ!」
「そうなのですか」
林檎は、自分達親子とは対照的な仲直りに、心が冷えていくような気がした。
「仲直りできて、良かったですね」
「君のおかげだよ、ありがとね」
無邪気に笑う少年は、きっと、愛情を一心に受けて育っているのだろう。あの海と同じように、林檎は、眩しくて、煩わしくてしょうがない。
けれど、林檎は少年を利用してやっているのだという気持ちが、林檎をこの場から離れさせなかった。
「どういたしまして」
林檎は、父にしたように、貼り付けた笑みでそう答えた。
「だからね、今度は、君の話をしてよ。ぼくは君に話して、心が軽くなったからさ。君の心も軽くなってくれると良いなぁ」
その笑みは、少年がそう言ったことで、崩れに崩れてしまった。
「貴方に話すことなど、ありません」
林檎は、はじめ、少年にそう言った。少年に話して解決することなど何もない。
吐き捨てるように、唇を歪めて言う。
「なんにも、知らないくせに」
突き放すような言葉。
少年がまた、オロオロするかと思って見ていた林檎は、次の瞬間、目を見開いた。
「うん、知らない。だから話して」
ゆっくりと穏やかに、少年は頷きながら、そう答えた。林檎が覚えてきた皮肉は、この少年には、通用しなかった。
「でも、話したくなかったら話さなくていいよ」
そして、この少年は、今考えれば、捻くれた林檎の取り扱いに長けていた。
ーーなんにも知らないくせに!
こんな、のほほんとしている少年に、譲歩する姿勢をとられて、林檎の頭には血がのぼってしまう。
少年の隣にもたれかかる。
そこまで言うなら、話してやろうと。
ーーどうせ、何もできないんだろうけど。
この時の林檎は、悪意を持っていた。自分のことばかりに気を取られて、自分だけが不幸だと、思い込んでいたのである。
「そこまで言うなら、お話ししてあげます。私と父が喧嘩をしたのは……死んでしまった、お母様のことについてでした」




