質問
世界はセピア色に染まっている。重たそうな雲が、空に垂れ込めているからだ。
「多原は、わりといつでも危機に陥っているだろう」
「そ、それは……」
反論の余地がない。鳶崎物商の若き社長の落ち着いた声に、桜一郎は、答えあぐねてしまう。
……いくら友人になったといっても、そうそう簡単に変わるわけではないのだろうか。多原の危機を伝えたにも拘らず、鳶崎巳嗣は、いっそ冷淡とも言える態度であった。パソコンの画面から目を離さず、キーボードから指を離さず。
思わず、桜一郎はこう言ってしまう。これも、あまり桜一郎らしくないのだが。
「社長は、多原君が心配ではないのですか」
「ここだけの話」
ここでようやく、巳嗣がパソコンから目を離した。桜一郎達を手招きし、パソコンの画面を見せてくれる。文章作成ソフトを開いていたらしい。書き初めの文章には、『あぅあbsfふろぇいdddっっっだ』と書かれていた。意味が不明である。
「こ、これは……?」
意図が全くわからず、桜一郎は巳嗣を見る。巳嗣は、ゆっくりと瞬きをし。
「ここだけの話、とても動揺している」
と言い放った。
「……」
重苦しい沈黙が社長室に落ちる。遠くの方で、烏の集団が鳴く声が聞こえるほどだ。
ここだけの話にする意味がわからない。大体、ここには、有嵜と門脇社長、そして桜一郎しかいないのに。
動揺しているとは思えないくらいに、静かで深い瞳をしている巳嗣は、『あぅあbsfふろぇいdddっっっだ』を一文字ずつ消し始めた。
「なにせ、僕に友人ができたことはないからな」
突然悲しいことを言い始める巳嗣。深い悲しみが、セピア色と共に社長室を包んでいる。
「同年代のみならず、令さん以外は敵だった。だから、友人の危機というものに、僕は慣れていないんだ。簡単に言うならばーー頭が真っ白になっている」
自己考察。あまりにも冷静な。声のトーンを少しも変えずに、巳嗣は続ける。
「多原を助けにいかなければいけないのだが、果たして僕の力を最大限に使って良いものか。使った結果、多原に絶交されないだろうか」
頭が真っ白になっているとは本人の弁だが、これはどちらかというと、考えすぎではないだろうか。普段の彼なら導き出せる結論が、『はじめての友人』という未知の要素によって、ことごとく却下されているのではないだろうか。
あくまでも、想像の範囲だが。
あの鳶崎巳嗣を、こうまで腑抜け同然にしてしまえるとは。友人パワーというのは恐ろしいものだと、桜一郎は密かに思った。
のだが、こうも静かに冷静に頭が真っ白になられると、もどかしい気持ちになってしまう。
「あのですね、社長」
敬意をかなぐり捨てて、桜一郎は、ばん! と机を叩いた。
「あの多原君が、社長をお嫌いになると思いますか? 殺されそうになっても、友達になってくれた子ですよ」
多少過去を抉ることになるが、ショック療法だ。致し方あるまい。
「えぎぃー……」
有嵜がそう呟くが、効果は抜群。巳嗣は、ハッ、と目を見開いた。
「そ、そうか、そうだな、え、いやそうかな……そもそもどうしてアイツは僕と友人になってくれたんだ……どうしよう、友人なのに思考回路がわからない」
またもや、頭を真っ白にしようとする巳嗣に。桜一郎は、畳み掛ける。
「じゃあ、それを聞きにいくことを目的と設定して、多原君を助けに行きましょう」
「な、なるほど……それなら……」
助けに行く云々ではなく、あくまでも、質問しに行くだけ。そこには、手段などは関係ない。それでようやく、巳嗣の中でも踏ん切りがついたようだ。
パソコンを閉じる。静かで深い瞳をやめて、鳶崎巳嗣の、自信に満ち溢れた顔を、桜一郎に向けた。
「多原の居場所に、見当はついているのか?」
「それが、どこかの飲食店であること以外は、さっぱり……」
「成程」
そう言って、巳嗣はデスクに手をついて立ち上がった。
「それなら、円佐木本家に圧力をかけにいこう。なんだ、その顔は。僕はおかしいことを言っているか?」
「い、いえ……」
今度は、桜一郎達が頭を真っ白にする番だった。芝ヶ崎の外部と言える門脇社長は首を捻っているが。
「お前達も、それを期待して僕に多原のことを伝えにきたんだろう?」
「それは、そうですが……」
まさか、家同士の争いにまで発展するとは、桜一郎達は思っていなかったのである。円佐木に対抗できるのは鳶崎くらいという消極的な理由、それこそ、ひとまず権力者に縋るという情けない理由であった。
間違っても。まかり間違っても。円佐木に殴り込みに行こうなどという発想は、桜一郎達の中には無かったのである。そんなことをしたら、実家が焦土と化してしまう。
いやはや、流石は鳶崎家の子息だと、桜一郎は感嘆せざるを得なかった。
「それにしても多原め、令さんならともかく……」
巳嗣が漏らした言葉の意味は、よくわからなかったけれど。
空はどんより曇っている。まるで、多原の心情を表すかのように。
せっかく眺めの良いビルの高層階で、美味しいパフェを食べているというのに、多原は気難しい顔ばかりしていた。
それというのも、スマホを電源切られて没収されてる上に、あらゆるものから縁を切れと、目の前の自称・芝ヶ崎上位ランカーが言ってくるからだ。
「き、機嫌を直してよ、多原君……」
「別に、機嫌悪くないですけど」
突然多原の目の前に現れて、突然変な話をし出したその人は、円佐木司佐と名乗った。多原は、円佐木の名前は聞いたことがない。それなのに。
「ひ、久しぶりの再会なんだからさ」
これである。多原は知らないのに、あっちは、知り合いだとばかりに、目を細めて言ってくるのである。多原は知らないのに。
「人、間違えてますよ」
「ま、間違えてないよ。君は、多原貴陽君だよね? 染先や、敦埼といた」
「つるさき?」
片方の名前は聞いたことがあるが、つるさきというのは聞いたことがない。多原が首を傾げると、「あれ、違ったかな……」と、円佐木さんが不安そうな顔になる。
「な、なにせ、雑魚の顔はよく覚えられないから……ごめんね」
傲慢なセリフ。多原は、そこに矛盾を見た。パフェを食べるためのスプーンを格好良く持ち、円佐木さんを指差した。
「ダウトです。俺は雑魚なので、顔を覚えられてるはずはない」
悲しい指摘である。多原はあえてドヤ顔を浮かべたが、円佐木さんは、それをあっさりと肯定。
「そうだよね、多原君は、あ、あり得ない雑魚だよね……そもそも多原家なんて、吹けば飛ぶような家系だし……」
思いっきりディスられた。
「い、一代限りの確変なんて、あてにならないし……や、やっぱり、君は、芝ヶ崎から遠ざかるべきだよ……」
しかも、話が振り出しに戻ってしまった。
「どうして俺をそんなに切り離したがるんですか?」
「君はここにいたら、不幸になるから……あっ、今度はこっちの電話だ、ごめんね」
そう断って、円佐木さんは店の外に出てしまう。
少ししてから戻ってきた。多原がちゃっかりパフェを食べきっていることを見て、席に着いた円佐木さんは笑った。割に長い指を、机の上で組む。
「どうやら、あんまり、時間はないみたいだ……多原君」
「はい」
「葉山林檎は、君に、み、見返りを要求したかい?」
多原は、どう答えたら良いかわからなかった。その質問で、円佐木さんが、何を言いたいのかがわからない。
だから、正直に、首を横に振ったーー円佐木さんの口の端がゆっくりと、吊り上がる。
「そ、それなら、葉山林檎に、会ってごらんよ。お、俺の言ってることの意味が、わかるからさぁ?」




