写し鏡
「お父様、私は、鏡が怖いのです」
それは、父が生きていた頃。こう言うと語弊があるが、父が倉にいて、令と会話していた頃である。
「朝起きて、身だしなみを整えて。侍女がいる間は良いのですが、一人になると、私は、鏡を見ることが怖いのです」
令にとって、父は、顔もあまり覚えていない、けれど話を聞いてくれる他人であった。あの事件のせいで、しばらく名前を出すことを厭われた父は、芝ヶ崎の重圧に潰されそうな令にとって、ちょうど良い息抜きの相手であったのだ。
「お父様は、そのようなことがありましたか?」
「ああ、僕にも、そういうことはあったなぁ」
令は、顔を輝かせた。自分だけではないという気持ちは、令を喜ばせた。
「なにせ、ほら、僕は格好良いだろう? 鏡を見るたび、自分の格好良さが怖くて、どうにかなりそうだったよ」
「お父様」
令はすぐに、不満げな声になった。せっかく、意を決して悩みを打ち明けたのに、扉一枚隔てた父親は、令の相談を茶化したのだ。
令は、頬を膨らませる。
「そうではなく……」
「だから令も、自分が怖いんじゃないかな?」
膨らませていた頬を、萎ませて、首をかしげる。
「自分が、怖い、ですか?」
「ああ。侍女がいる間は、鏡が怖くないんだろう? だったら令、君が恐れているのは」
「自分自身だよと。父は言いました」
太陽が隠れてしまった世界で二人きり。巳嗣の左隣に座りながら、令は、どこか懐かしむように目を細めながら。
巳嗣は驚いていた。芝ヶ崎格は、公には、十七年前に死んだことになっている。だが、しばらくは生きていたのだと本人から聞かされていたが……まさか、令がこのことを話し始めるとは思わなかったのだ。
「自分を写す鏡を見て、自分に怖さを感じているのだと……私は父の答えに納得が行きませんでした。その頃には、自分のことがわかっていなかったからです」
自嘲するように笑う令。彼女がこんなに長く、自分のことを喋るのは初めてだった。
「長く喋りすぎました。手短に話しますね」
そう言われて、巳嗣は、首を横に振った。未練の一言。もっと、この人と話していたかった。
「最後なんです、ゆっくり、話していってください」
令は、緩やかに、唇の端を持ち上げた。
童話でも読み聞かせるような、優しい声音。母を思い出したいところだが、巳嗣が思い出すのはあの女ばかり。
「……ある時。私は、自分のことを、鏡でじっくり見てみようと思いました。私は負けず嫌いなので、どうして自分のことが怖いのか、あわよくば、自分に勝ちたいという気持ちになりました」
今思えば、おかしなことですと、令は穏やかに笑う。
「子供特有の万能感でしょう。そうして私は、自分が、自分のことを怖いと思う理由を知ったのです……」
照明が輝いている。だから、この部屋に、暗闇なんてないはずなのだ。
侍女が去った部屋で、令は、鏡の前から動かなかった。動けなかった。
「……だれ?」
思わず、そう言ってしまうほどに。目の前の、黒髪の少女は、令が思っているような形をしていなかった。
令が手を伸ばすと、黒髪の少女も手を伸ばす。令が怒ったような表情をすると、彼女も怒る。令が笑うと、彼女も笑う。
同じような表情。なのに、令は、それが自分だと信じられなかった。
まっくろな瞳の奥には、令の知らない令がいた。
ドス黒い感情が渦巻いている、自分だけしか知らない自分。
「ああ、そっか。私は」
「全てを下に見ている。自分を絶対だと信じている。そんな醜い私が、そこにいたのです。もう、ここまで話したらおわかりでしょう」
巳嗣をひたと見て、微笑みかける。
「だから、貴方と私は同じだと言ったのです。貴方は、私と同じ目をしていた。全てを下に見ていて、自分を絶対だと信じているーーアレは自分のものだと信じて疑わない」
声は、低く、低くなっていく。
「初めて会った時、私は、私に対する貴方の執着を感じ取りました。そして、鼻で笑いました。同族嫌悪というものだったのでしょう」
けれど、私は、鼻で笑っていられなくなりましたと、令は呟いた。
その表情になったとき。令はとても美しかった。恍惚。眉を下げ、頬を緩め、一見慈愛には見えるけれど、両者には、大きな隔たりがある。
「けれど、けれど。私は、出会ってしまったのです。貴方が私に向けていた、汚い欲のようなものを、抱いてしまったのです。似たもの同士とはいえ、そこだけは違うと思っていたのに。私はまんまと、アレは、貴陽は自分のものだと信じて疑いませんでした。あの子の小さな手を取った時、絶対に、逃してやるものかと思ったのです。多原は小さな家です。私が本気を出せば、すぐに囲い込めると思いました」
運命の出会いでした、と令は高揚していた。
「都合よく、貴陽にとって敵だらけの環境です。優しくしてやりました。すぐにあの子は懐きました。レイ姉ちゃんという呼び方を強制しました。嬉しそうにあの子は私の名前を呼びました。ふと手を離した時の不安そうな顔がたまりませんでしたーーなのに、貴陽は、未だに、私の手からすり抜けるばかり。どころか」
一息おいて。
染先が、令と伊勢隼斗の恋仲の噂を話した時と同等の殺気が、巳嗣を襲った。
令は、ぎり、と歯を軋ませた。
指先一つ動かせない巳嗣に、怨嗟をこめて吐き捨てる。
「お前のような虫ケラまで、自分の身を危険に晒して助けたんだ」
「あっ、レイね、令さん! 巳嗣さん! お話は終わりましたか!」
呑気に手を振ってこちらに走ってくる多原に、巳嗣は助かったと思ってしまった。
雲の切間から、太陽が顔を覗かせる。
巳嗣を縫いとめていた令の殺気は、愛しい少年の登場によって霧散したようだ。
ーーいや。
情けないことに腰が抜けている。巳嗣は、まじまじと、二人のやり取りを見ていた。
ーー僕の目は節穴だったのかな。
風景パズルのピースを外して、新たに嵌めて。巳嗣は、殺気の代わりに、多原に向けられた執着の濃さに身震いする。
「さあ、帰ろうキョウ。それでは、巳嗣さん」
ついてくるなと、令の目は言っていた。巳嗣は会釈した。
目の前で手が繋がれる。前はそれを憎らしく思っていた。だが、巳嗣はもうわかっていた。
芝ヶ崎令が、自ら手を繋ぐ。それは。
ーー逃がさないという意志、か。
アホヅラ晒した多原は、令と手を繋ぐことをまったく疑問に思っていない。もう二人とも高校生の男女なのに、それを当然のように思わされているのである。
二人きりの世界。それは、令が必死に構築した箱庭の断片……
「多原」
巳嗣が声をかけると、多原が振り返る。
「あ、巳嗣さん! やっぱ一緒に帰ります!?」
令が「余計なことを」と言いたげな目で、巳嗣を見てくる。が、巳嗣は、震える体を叱咤して、立ち上がった。
「ああ、僕も一緒に帰りたいな……いろいろ聞きたいことがあるし。良いですよね、令さん?」
「どうぞ、ご自由に」
「レイ姉ちゃん?」
つんとした態度の令と、訝しげな多原。二人の元に歩き出しながら、巳嗣は、芝ヶ崎令の箱庭を壊す言い訳を探していた。
そうして、言い訳を思いつき、人知れず笑ってしまったのである。
ーー僕と貴方は、似たもの同士ですからね。
違う形であれど、同じ人間を好くのは、理に適っているでしょう?
とんでもないことになった。
『そのようなわけで、僕はこの店のプロデューサーになるぞ多原! 嬉しいだろう、お前を食おうとする化け物たちから、お前を守ってやる!』
夢の中。哄笑響かせる巳嗣さんは、多原の肩に腕を回した。
化け物って、違う世界観の設定を引っ張ってきてるのだろうか。
多原がテンション高い巳嗣さんにドン引きしていると、巳嗣さんは、ふと真面目な顔になって。
『なにせ僕たちは、友達だからな』
『……はい!』
多原は嬉しくなった。巳嗣さんの言ってることは九割理解出来なかったけど。
これで、芝ヶ崎内乱編一区切り。長い間お読みいただき、ありがとうございました。次回からは新章やりつつ、諸々の後片付けをしつつ。




