グーよりはパーで/拳ではなく平手で
そんなわけで、多原はへろへろだった。
島崎が偽造してくれた招待状(だから何で軟禁状態の人間が以下略)を、警備員さんに見せたのは良いものの、
「あのっ、これ……ぜひゅーっ」
「君、顔色がひどいよ。一度休んだほうが……」
顔色の悪さで突破できなくなるところだったのだ。
「君、そのまま行ったらダメだって、安静にしないと!」
「おお、俺は行かなきゃいけないんですっ……! 通してくださいお願いしますっ!」
この時、多原は脳に酸素が回ってなくて気がついていなかったが、警備員さんは別に多原を疑っているわけではなく、多原を心配して言ってくれていたのだ。
だが、謎の追手に追いかけられた後の多原は、猜疑心の固まりだった。謎に警備員さんから必死に逃げるそぶりを見せ、警備員さんは多原を怪しまざるを得なくなり、式場に突入時のような追いかけっこ状態になってしまったのである。
ちなみに、芝ヶ崎の皆さんは多原のことを汚物を見るような目で見守るばかり。
……さて。
ーーし、しまった。
ぺちん、という情けない音。それは、多原が、鳶崎さんの頬を叩いてしまった音である。
多原は、顔を青ざめさせた。殺される。肉の一片も残さずこの世から消される。
ーーやばい、どう謝っても消される。
多原はのろのろと体を起こした。鳶崎さんは、自分のほっぺたを触り、座り込んだまま。
気まずい沈黙が流れる。
一応言い訳をさせてほしい。
多原は、鳶崎さんにビンタをするつもりはなかったのだ。ただ、鳶崎さんに、とあることを早く伝えたくて、ふらふらする足で前に進んでいただけ。
……壇上に上がる階段なんか見えなくて、けっつまずいて、鳶崎さんをビンタする形になってしまっただけである。
「なぜお前は、私を叩いた」
鳶崎さんが、静かに口を開く。
「ぐ、グーよりは、パーの方が痛くないかなって思って……」
DVしてる人みたいなことを言ってしまったが、多原の言いたいことはこうだ。
多原の運動神経では、あそこから鳶崎さんを回避することは不可能。ならば、気合を入れるために握っていた拳をせめて開いて、パーの形にするしかなかった。
「あの、鳶崎さん、すみま」
「ーーお前は、私の言ったことを覚えていたのか?」
どれのことだろうと多原は思った。わりとチクチク言葉を言われていた気がするけれど。
覚えてないと言ったら(経験則により)怒られそうなので、多原は頷いた。そりゃもう赤べこのように首を振った。
「……そうか」
このとき。
このとき、鳶崎さんは、長いまつ毛を伏せて、くっと笑った。それは、多原が見たこともない笑みだった。
「はははっ、そうか! お前は、僕を殴るためだけにこの結婚式場に来たのか!?」
「な、殴ってないです、叩きはしましたけど」
多原が往生際悪く自分の罪を軽くしようとすると、それにも鳶崎さんは大声で笑う。
「そうだな、僕はまだ、お前にとって殴る価値がないらしい」
「そんな滅相もない……」
笑っている鳶崎さんに、多原は謎の返答をするしかなかった。ぶっちゃけ、怒ってる鳶崎さんのほうがわかりやすい。
叩かれた側がにっこにこなので、謝る機会を逸した多原は、ふと、思いついた。真剣な顔になって、「鳶崎さん」と言う。
「俺を、殴ってください」
「はははっ、じゃあ遠慮なくーーと言いたいところだが、お前がくれた痛みを手放すわけにはいかない。僕には、必要な痛みだ」
「鳶崎さん……」
心の中の島崎くんが余計なことを言うのを封じ込めて、でもやっぱり抑えきれなくて多原は思った。
ーーそういう趣味の人だったりするのかな。
道理でレイ姉ちゃんのことが好きになるわけだ。レイ姉ちゃんはどちらかというと嗜虐趣味だもの。
多原がちょっと納得していると、そのレイ姉ちゃんが(ウェディングドレスを着ていてとても綺麗だ)、ものっそい顔で鳶崎さんを睨んでいてちびりそうになったのは内緒である。
巳嗣にとって、多原貴陽は、父親を思い出させる嫌なものだった。
巳嗣は、どうせ死ぬ人間として育てられてきた。だから、増長してつけあがっても、そのままにされてきたのである。
その、どうせ死ぬ人間に。殴る価値などない自分に。
多原貴陽は、“答え”を示して見せた。言われずともわかっていた。これは、“答え”だ。
幾度も見てきた、彼の嫌な部分ーーそれは優しさとも言うがーーのせいで、拳ではなく平手だったが。彼は、彼なりの譲歩で、巳嗣にあの日の答えを示してくれたのだ。
「なぜお前は、私を叩いた」
「ぐ、グーよりは、パーの方が痛くないかなって思って……」
しどろもどろにそう言った多原に、やはり、平手はわざとかと得心する。
『だってほら、お、僕のような平民が鳶崎さんの頭を叩くなんて恐れ多いじゃないですか。島崎の頭ならまだしも』
そんなことを言っていた人間が。覚悟を持って、巳嗣に、向き合ってくれたのだ。
「あの、鳶崎さんすみま」
「お前は、私の言ったことを覚えていたのか?」
あの日、なぜ島崎昢弥だけを叩くのか訊いた自分に、答えを示すために。わざわざ、この結婚式場に乗り込んできたのか?
ーー二人きりの時ならまだしも、こんなに観衆がいる中で。
巳嗣のことを、殴ってくれる人間がいると、示しにきたのか?
果たして、多原は、こくこくと、何度も頷いた。
巳嗣は、とうとう、笑いを堪えきれなくなった。それは、人を馬鹿にするためのものではない。嬉しくなったから、笑ったのである。
「はははっ、そうか! お前は、僕を殴るためだけにこの結婚式場に来たのか!?」
「な、殴ってないです、叩きはしましたけど」
そうだ、それは重要だ。多原は、巳嗣のことを叩いてはくれたが、殴ってはくれなかった。
「そうだな、僕はまだ、お前にとって殴る価値がないらしい」
「そんな滅相もない……」
いつか、多原が殴るに足る人間になろう。巳嗣は、晴れ晴れとした決意を抱く。その決意を試すように、多原は、あの日、島崎昢弥に言ったように。
「鳶崎さん、俺を殴ってください」
もちろん、巳嗣の答えは決まっていた。
「はははっ、じゃあ遠慮なくーーと言いたいところだが、お前がくれた痛みを手放すわけにはいかない。僕には、必要な痛みだ」
「鳶崎さん……」
多原は、なんとも言えない顔をして笑っていた。それで良い。媚びるのが下手で、拒絶するのが下手で、でも、父親とは違う存在。巳嗣のことを、認めてくれる存在。それが、きっと。
ーーああ、でも、気付くのが遅かったな。
巳嗣は、座り込んだまま。拳を握り込んだ。
ーー僕は、鳶崎物商を潰した人間として、死んでいくんだから。
「……多原」
「はい、なんですか?」
「令さんを、幸せにしてくれよ」
「それは、はい」
「それから……」
脳裏に芝ヶ崎格の声が響く。今更君ができることなんて何もないよ、と。わかっている、今更巳嗣が死に抗うことなんて、何もない。
だが、救いが欲しかった。これから死んでいく自分が、あの世に持っていける善意が。
「友人に、なってくれないか」
「? はい」
多原は、目を瞬きながら頷いた。巳嗣は、あまりにも返事が早いものだから笑ってしまった。
「もっと悩んでくれ。僕はこれから、大変なことになるんだぞ」
「そ、そうですね。これから忙しくなりますね」
多原は、ふんすと鼻息荒くそう言った。なんだろう、葬式の準備とかを想像しているのだろうか?
「お前は奔走してくれたが、明日から鳶崎物商は崩れ落ちる。僕は社長ではなくなる。下手したら、鳶崎でもなくなるかもしれない。それでもお前は、僕を友人にしてくれるのか」
「? はい」
多原はまたしても、目を瞬いた。
ーーもう、充分だ。
巳嗣の心の中には、温かいものが広がっていった。
が。多原は、巳嗣とは対照的に、そわそわした様子で。
言った。
「えっと、鳶崎さんが……巳嗣さんが社長でなくなっても鳶崎でなくなっても俺は友人でいますけど……別に、明日から鳶崎物商は崩れ落ちることはないので、その心配はしなくても大丈夫っていうか」
「へ?」
「むしろ、俺はそっちの目的で来たっていうか」
多原は、勢いよく立ち上がり、スマホを取り出した。まだ座り込んでいる巳嗣に、自信満々に振り向いて。
「それではご照覧あれ。別に魔法じゃないけど、死にそうな顔をしてる人を救う魔法です。じゃあ、よろしくお願いしますーー社長!」




