鳶崎巳嗣の見た夢
よーやく、よーやくここまで行けた。ここまで読んでくださりありがとうございます。ちなみに芝ヶ崎は神道です。
ホワイトパズルというものがある。全面真っ白のパズルで、絵柄のヒントは無い。ただ、ピースの形だけで完成させていくパズルだ。
普通のパズルよりは難易度が高い。だからこそ、僅かな違和感が余計に目立つ。
『あの、お客様……? 何してらっしゃるので?』
『見て分からないか』
およそ巳嗣の好みではない内装のレストラン。なぜかコックコートを着た(似合わない)多原貴陽は、至極当たり前のことを質問したのに、巳嗣はそっけなく答えた。テーブルに広げた、未完成のホワイトパズルのピースをつつきながら。
巳嗣はそれを、淡々と嵌め上げていく。短時間でパズルは完成し、最初はそわそわとした様子で見ていた多原貴陽が、「おお〜っ」と呑気に拍手をした。
している場合かと、人の店で注文もせずにパズル遊びに興じている巳嗣は思った。
『ホワイトパズルはわかりやすいんだ、だが』
『あっ、あぁ〜っ!』
巳嗣は、完成したパズルを片付けて、新たなパズルのピースの山をテーブルにばら撒いた。それは、風景パズルである。青いピースが大半。細かな綿飴のような雲がちらりと見えるピースもあれば、真っ青のピースもある。それを、ぱち、ぱちりと嵌めながら、巳嗣はひとりごちた。
『風景パズルの方が難しい。僅かな違和感を拾おうとしないからな』
『あっここ。端っこに茶色がありますよ絶対ここですって!』
『お前は自分の店でパズルをする珍客にアドバイスをするな』
とはいえ、人手があると、完成も速くなる。多原貴陽は、料理を作ろうともせず、巳嗣のそばにいて、巳嗣の気付かない違和感を指摘してきた。その横顔は、なんとなく楽しそうで、なぜ楽しそうなんだろうと巳嗣は思った。
最後のピースを嵌め終わった時、巳嗣は、ふう、と息を吐いた。目を伏せる。何を言おうとしたのだったか。
そもそも、どうして巳嗣は、人の店でパズルをしたのだろうか。そんな非合理的で非常識的なこと、ふだんの巳嗣ならしないのに。
ーーもうわかったくせに、いまさらバカの振りか? プライドねーのかお坊ちゃんはよぉ。
『……馬鹿らしいな』
誰かが皮肉げに言った言葉が脳裏をよぎって、巳嗣は、ふっと笑った。
『おい、料理長』
そういえば、現実の多原貴陽は、巳嗣のことをお客様と呼んできた。これもまた馬鹿げた話だが、多原貴陽もまた、このような夢を見ていたのかもしれない。
巳嗣は、パズルを片付けて。せめてもの威厳を込めてこう言った。
『おい、愚民。早く料理を持ってこい』
「……!」
がばっと布団から跳ね起きる。
「あら、お目覚め? 巳嗣くん」
枕元には、幽霊のような女……芝ヶ崎式が座っていた。内に秘めた残虐性を隠そうともしない笑みで、巳嗣に問う。
「なにか、悪夢でも見ていたの?」
巳嗣は、髪をかき上げた。自分でもわかる、据わった目で式を見た。
この女のこと。父親のこと。悪夢ならもう見ているのに、眠っている時も見てたまるものか。
「そんなに、私は魘されていたか」
「すごく険しい顔をして唸ってた」
「見る目がないな」
巳嗣は、夢の中のように笑う。それに対して、式が眉根を寄せる。意外とこの女は感情豊かなのだ。十七年。十七年もの間、よく、隠し事をできたものである。
「本当に、見る目がない……私が見ていたのは、悪夢ではない」
どんなに万能な芝ヶ崎格でも。人の夢の中を覗くことなんて、できやしないのだ。
ーー私が見ていたのは。
有嵜という社員が辞めた。
「ええ、鳶崎物商は、倒産しますね」
社長室で二人きりの時だった。巳嗣が指名した染先執行役員は、淡々とそう言った。細めがちな目を開いて、含みのある笑みを浮かべる。
「もう、お気付きでしょうが、私は、芝ヶ崎本家の手先です」
ああそうか、そうだろうなと巳嗣は思った。巳嗣の浅知恵など、あの男はお見通しだろうから。
「ですが、個人的に気に入らないことがありました。あの、有嵜という男です。ですから私は、彼に“気付かせ”て、裏切り者として本家に処分をさせようとしたのです」
「だから、最初に動いたということか」
実は、この染先執行役員も、多原貴陽に情報を与えた者として候補に上がっていた。彼が営業部や品質管理部に働きかけたことは社内で皆知っているし、それは、倒産にいち早く気付いた社員だということを示しているからだ。
なるほど、彼のなりふり構わない派手な動きは、囮だったというわけだ。
そしてそれを、鳶崎物商を訪れたあの三人含む人間は、巳嗣に教えようとしなかった。
「……なぜ、今それを教えた」
「もう取り返しがつかないからです。多原という少年が何を考えていようと、膨れ上がった在庫を捌き切ることは不可能ですから」
「そうか」
やはり、この染先は凡庸だ。隠すなら最後まで隠しているべきだ。巳嗣が反乱を企てたら、この男の責任になるのに。
ーーいや、今更な話か。
「社長?」
「ああ、良い。君が本家の回し者なら、話が早くて助かる」
巳嗣の自殺行為も捗るというものだ。
染先執行役員が辞した後、巳嗣はぼんやりと思ったことを呟いた。
「ああ、やっぱり。現実の方が悪夢なんだーー今朝、私が見たのは」
「私が見たのは、とても、良い夢でした」
誰にも聞こえないように、令の耳元で、そっと囁く。肩を出さない、清楚なロングウェディングドレスに身を包んだ令は、ベールの向こうで目を見開き、巳嗣は微笑んだ。
今日は、巳嗣と令の結婚式だ。チャペルのステンドグラスからは、神々しいまでの光が降り注ぎ、まるで巳嗣と令を祝福してくれているようだ。
だが、客席は、新郎側も新婦側も(芝ヶ崎しか招待されてないのに二つに分かれるのはいかがなものか)、嫌な空気に満ちていた。
今までそれを、巳嗣は無視してきた。見ないふりというより、見る価値もないと思ってきたのだ。だがそれは、目隠しをされている状態にすぎなかった。
新郎側で微笑む黒髪の美女ーー自分を十数年もの間育て上げ、こんな人間にした女が、幸せそうに微笑む。いい加減、巳嗣もわかってきた。この女は、兄のためだけに生きている。
今ここで、芝ヶ崎格のことを話したらどうなるだろうかと、巳嗣は考えた。だが、すぐに思い直した。
ーー令さんを悲しませたくない。
目の前にいる美しい人を、巳嗣が愛した人を、不幸のどん底に陥れたくない。
きっと、芝ヶ崎格は、それすらわかっていたのだと思う。何もかもが虚飾だったと悟った巳嗣が、最後まで守りたいと思うものが自分の娘であると、あの怪物はわかっているのだ。
……では、その怪物の血を引く彼女は?
ーーホワイトパズルの方が簡単なんだ、風景パズルの方が、違和感に気付くのは難しい。僅かな違和感を見逃してしまうから。
心の声を、牧師の声で書き換える。
「汝、病める時も健やかなる時も……」
お決まりの文句を述べる牧師。巳嗣はそれを誓い、令もまた、「誓います」と、鈴の鳴るような声で言った。
巳嗣は、令のベールをとった。ベールの下にあったのは、巳嗣に向かって微笑む彼女。夢にまで見た光景だ。
ーーそうだ、
いま、この瞬間だけは。たとえ巳嗣が死んだとしても、今この瞬間だけは、芝ヶ崎令は、鳶崎巳嗣のものなのだ。
細い肩に手をかける。令は動かない。巳嗣がその唇に、口付けようとしたその時ーー
「ちょっ、とっ、待ったぁああ!!」
ばたんっ!! と扉が開く音がして、警備員に取り押さえられる寸前の多原貴陽が、派手に前に向かって転倒し、がばっと起き上がる。鼻血が出ている。
「そのっ、結婚に、はあっ、異議がありますっ……ぜひゅーっ」
「君、ちょっと休んだ方が」
「休んだらっ、捕まるじゃないですか」
「そりゃそうだけど」
心配する警備員を振り切り、多原貴陽は、よたよたと、バージンロードを歩いてくる。相当疲れているのだろう、目が虚ろになっている。
隣で、くすりと笑う声がした。
ーーああ、負けたな。
巳嗣の愛おしい人は、巳嗣ではなく、多原貴陽を見て笑っていた。それはそれは、愛おしそうに。
巳嗣は、誰よりも芝ヶ崎令のことを見てきた自負がある。だからこそ、多原貴陽のことが、憎くて憎くて仕方なかった。
ーー令さんは優しい人だ。きっと、僕のことをかわいそうに思って結婚してくれたんだ。
次に襲ってきたのは、人生で初めての、惨めだという感情。
ーー僕は負けたんだ、あの男に。
多原貴陽は、自分に集まる悪意の視線をものともせずに、巳嗣に向かって、ふらふらと歩いてくる。いや、幼馴染の、レイ姉ちゃんを救うために、か。
体が倒れないように、勢いをつけて、もはや走っている勢いで、壇上に上がる階段なんか目に見えないように、こちらに向かってきてーー
「キョウっ」
あの愛称を令が思わず口にする。気付けば、巳嗣の視界には、多原貴陽の右手が映っていた。
「へ?」
ぺちんという気の抜けた音。何かを叩く音。そして、どたんっ、と巳嗣と、多原貴陽が床に倒れる。
巳嗣は、起き上がることも忘れて、そっと、自分の頬に触れた。
ーー叩かれた。
あの日、島崎昢弥だけを叩いた少年に。




