ざんねんだったな
デート回です(断言)
「巳嗣さん、これから、街に出かけませんか?」
「街、ですか?」
「ええ。実は、軍資金を貰っているのです」
可愛らしい財布から、令が札束を取り出して見せる。巳嗣は慌てて、札束をしまわせた。軍資金が比喩ではなくなってしまう。
社長として、いやしくも経済に関わってきた巳嗣には、金銭感覚というものが存在する。こんな大金を持ち歩いていたら、良くない輩に狙われてしまう。
「良いですか、令さん。学生にとっては、一万円は大金なのです。ええっと、今の東京都の最低賃金は……」
などと、慌てていると、くすくすという笑い声。見れば、令が口元に手を当てていた。
「焦る巳嗣さんを見るのは、初めてですね」
「……からかいましたね、私を」
巳嗣は令を、半眼で見て……そして、自分も笑ってしまう。これが、式やその兄だと怒り心頭なのだが、他ならぬ令が揶揄ってくれたことに対する喜びの方が大きかった。つまり、相手にされている、ということだ。
冷たい風が吹いている。木枯らしには満たない風だ。その中で、太陽の日差しは、巳嗣たちを懸命に温めようとしてくれていた。
夏の日差しと冬の日差しの方では、後者の方により恩恵を感じてしまうのだと、巳嗣は、ふと、思った。逆境に陥ってしまった人間を、温めようとしてくれるのが、本当に優しい人間で、巳嗣の味方なのだ……
ーーいいや、それは違う。
どこかのアホヅラ(美術の教科書をハリセンの代わりにする)を思い出して、巳嗣は、一人百面相をしてしまったらしい。
「巳嗣さん?」
令が、巳嗣を心配するように見てくる。巳嗣は、軽く首を横に振った。
「いえ、何でもありません。正直に申しまして、私は、貴方をエスコートできる自信がありません。幻滅させてしまうかも」
「巳嗣さんらしくないお言葉ですわね」
「そうかもしれません」
恥じ入るばかりだ。こうしてみると、自分はとんだ自信家を演じていたのだろう。
「安心してください。巳嗣さん。私は貴方に、幻滅などしませんから」
令はにこりと、可憐に微笑んだ。巳嗣は瞬きをした。安心できる言葉だった。それなのに、身近にいた女と……彼女の叔母と重なって見えたからだ。
それでも、巳嗣は、彼女の言葉に絶大な信頼感を覚えてしまう。
ーー初めて会った時から、僕はこの人を、自分のものだと思っていた。
それは、自分に安心感を与えてくれる、揺るぎない信頼を寄せるに値する人間だと、本能が理解していたのではないだろうか?
巳嗣のために、無知なお嬢様を演じてくれた令は、つと、巳嗣の手に指先を触れた。巳嗣はその指に指を滑らせ、互いの指を絡め合った。
「私の知識など……本で仕入れたものでしかありませんが。どうか貴方が、楽しんでくれますように」
街中はざわついていた。
巳嗣は自分の容姿の良さを理解していたが、それ以上に、令の美しさに、道ゆく人々が見惚れていたからだ。
白いブラウスに、キャメルのジャンパースカート。胸元にあるワンポイントのリボンが可愛らしさを引き立てている。普段和服しか見ない巳嗣は、婚約者の新たな姿に目を瞠った。
「かわ……とてもよく似合っています」
「ふふ、ありがとうございます。巳嗣さんも、格好いいです」
「……あ、ありがとうございます」
鳶崎巳嗣とあろうものが。令と街に出かけることが決まった途端、目の色を変えて最新のファッションとやらを検索してしまった。
これまでは、制服か、いつでも社長業をこなせるよう、ビジネスカジュアルに寄った私服しか着てこなかったからだ。それまではそれで良かった。なぜなら巳嗣には、両親から受け継いだ容姿があるのだから。
だが、デ……街中で、好きな人と遊ぶこととなると、話は別だ。
ズボンは足首に余裕がある方が良いのか、それだとカジュアルすぎないか、トップスを思い切ったものにしてしまおうか……あれこれ考えながら、急いで部下に用意をさせてしまった。
その部下は、あの日、芝ヶ崎格の命令で、電柱に車をぶつけさせようとした運転手であるのだが。
芝ヶ崎格の信者であることへの腹いせと、普段から車を走らせているのだから店を知っているだろうという我ながら滅茶苦茶な理由で、使いっ走りにさせてしまったのだ。
『良くお似合いですよ社長』
投げやりな彼の褒め言葉は、本当に投げやりだった。
『容姿が良いんですから、もう少し自信を持てば良いのに……』
『ううう、うるさい!』
余計なことを思い出してしまった。
それにしても、一旦家に帰った令は、どうやって服を用意したのだろうか。巳嗣と同じように、短時間で部下に用意させたのだろうか。いや、街中で遊ぶことを提案してきたのは令なのだから、事前に用意してあったりするのだろうか……?
そんな心によぎった影は、令に手を繋がれたことにより吹き飛んだ。彼女の手は、相変わらず冷たいままだったけれど。
ーー互いのわずかに残った熱で温まれば、それで良い。
それこそが、自分達の形である。
「で、では令さん。ま、まずは……」
「あっ多原見てみろアレ」
「あ」
遠くに見えるのは、知り合いと知り合いである。学校が終わり、島崎に町中連れ回されてぐったり(多原が島崎の心労を増やしてしまった&美術の教科書で島崎の後継者の頭脳をダメにしたお詫び)していた多原は、目を見開いた。
ラクダ色のジャンスカを着たレイ姉ちゃんと、青系統のジャケットを羽織って、妙に緊張した面持ちでいる鳶崎さんである。
レイ姉ちゃんの手を引いて、鳶崎さんは、ぎこちない仕草で、映画館の看板を指差している。
「あれって、デートかな」
「デートだろうなぁ。こうしてみると、お似合いではあるんだが」
「イケメンと美女だな」
多原はうんうんと頷いた。多原の知ってる表現を使うとすれば、なんかドラマ撮影みたい、だ。
島崎が、多原のことを変な目で見る。
「多原、お前、アレを良くないと思わないの。お前の幼馴染と無理やり結婚しようとしてる男だぞ」
「そ、それはそうだけどさ」
確かに、結婚式は阻止したい。レイ姉ちゃんは、それを望んでいない。賞品みたいにされて、あの日、多原を突き放した時の言葉通り、ままならない自分の運命を呪っている。
「でもさぁ」
多原は思ってしまった。
鳶崎さんが、あんな顔で、うちの店でも笑ってくれたら良いのにな、と。
ーー幻滅など、するはずがないだろう。すでに幻滅し切っているのに。
鳶崎巳嗣に手を引かれながら、令はひとりそう思う。本当なら手を振り解いてやりたいが、まだ、この男に死なれるわけにはいかない。
この男には僅かな希望を見せて、まだ、生に縋ってもらわなければならないのだ。
「映画を見ませんか、令さん。私は、最近映画などほとんどご無沙汰で」
「ええ、私も。久しぶりに見たいなと、思っていたんです」
ーー手っ取り早く時間を潰せるし、相手の感受性を理解できるからな。
両手指を合わせながら、令は、心の中で冷ややかにそう思う。自分の会話に自信がなくなってきたのだろう。それで、一旦リセットするというわけだ。
ーー良いだろう。私もお前と話すことが苦痛になってきた頃だ。
互いの体温は低く、けれど、人肌が接触することで熱を持ってきている。この手が振り解かれ、不快な熱が消えるなら、万々歳だ……などと、令が考えていた時だった。
「最近はサブスクリプションが発達して、映画館などには行くことがーー」
などという巳嗣の台詞はどうでもいい。問題は、人混みの向こうにいるあの子である。
島崎の倅という良くないものと付き合っている多原は、令と巳嗣のことをじっと見ていた。その表情に、少しは、嫉妬のようなものが混じっていればまだ良かった。だが。
ーーなんだその、慈愛のこもった笑みは!?
嫉妬の形相どころか、のほほんと微笑んでいる。危機感なさそうな笑みがこれまたかわい、じゃなかった、令の神経を刺激した。
あまり見ていると気付かれかねない。令は少し目を逸らして、やはり気になって多原の方を見た。
微笑む多原の横で、島崎の倅が、ふふんと得意げに笑っている。多原のことを指差して、唇の形作ることには。
『ざんねんだったな』
みしっ。
「……」
「あの、令さん? 手が、痛いのですが……」




