善い人間は嫌いだろう
それでもなお、島崎昢弥は優しい方だったと、ことの顛末を聞いて、芝ヶ崎格は思うのだった。
親友である多原を散々虐められたのはわかっていたにもかかわらず、鳶崎辰に関するある情報だけは、巳嗣に伝えなかったからだ。島崎の人間ともあろうものが、不自然さに気付いてないわけあるまいに。
勿論、芝ヶ崎格は、それを伝える。伝えて心をへし折る。
「いやあまさか、辰君が、君を切り捨てる気満々だったとはね! これは一本取られた!」
『……惚けないでくれ。貴方は、わかっていたくせに』
電話の向こうにいる、親に見捨てられた少年は、冷静なようでいてまだ最後の希望に縋っている。芝ヶ崎格は、口の端を吊り上げる。一拍返事を遅らすと、鳶崎巳嗣は勝手に話し始めた。
『貴方は、父に見捨てられている私を理解しながら、私を利用していたんだろう。後腐れなく、消すことができるとほくそ笑んで』
これが、これこそが、鳶崎巳嗣の最後の希望。格を詰るようにしながら、自分の理想を押し付ける。
ーー僕がすべてを理解している。そうなれたら良かったけど。
残念ながら世の中には、理解不能な人間がいる。
ある特定の高校生を思い浮かべて、少しだけ頭を振った。
『貴方は全てを見通した上で、私を利用することを選んだんだ』
さてここで、芝ヶ崎格のとり得る選択肢は二つ。一つは、巳嗣のお望み通り、全てをわかっていたという仕草をすること。
これにより、あまり健全とは言えないが、健全な青少年の精神は守られる。それに、全てをわかっていた仕草をすることで、いわゆる預言者的な立ち位置の補強もできるわけだ。
だが、それは悪手。
『……もう、やめる。私は、貴方の用意した舞台から降りる』
全てを諦め切った巳嗣が、気の抜けたような声を出してそう言い出しかねないのである。案の定、言った。
だから、格は二つ目の選択肢を使う。
「まさか、って言ったろう。僕は、鳶崎辰が息子を切り捨てるなんて、まったく思っていなかったんだよ」
『ーーっ!』
電話の向こうで、悲痛な息継ぎの気配がした。狙い過たず、健全な青少年の精神に、ヒビが入ったわけである。そのことに満足しながら、格は、次の矢を放つ。巳嗣の希望を、粉微塵に砕いてやるつもりで。
「だって彼は基本的に優しい人間だからね」
『父上が優しい人間? はっ、寝言も寝て言ってくれ』
強がって鼻で笑うのは、寧ろ痛々しさを感じてしまう。糸屋雫に語った器の話をするならば、鳶崎巳嗣もまた、人を傷つけるのが得意な、自分の器の容量も量れない人間なのである。すでに、器から、滴がこぼれ落ちていることに、本人だけが気付かない。
「いやいや、それがそうでもないんだよ。なぜなら辰君は、僕の計画をいくつも潰してきたんだから」
『計画?』
「そう。例を挙げよう。鳶崎ロジスティクスの最期は知っているね」
『たしか、社員は本社で飼い殺しにし、社長の方は放逐されたんだったか』
「そう。よく勉強できてるね。これには僕が関わってるんだけど、さて質問だ。僕が鳶崎ロジスティクスを潰したかったとして」
『それは前提ではなく事実だろう』
面白いくらいに、鳶崎巳嗣は、格の用意した道に嵌っていく。さすがは妹仕込み。
「じゃあ言い方を変えよう。僕は鳶崎ロジスティクスを潰したかったんだけど、あの結果で満足してると思うかい?」
『思わない……』
格の、言わんとしていることが理解できたようで何よりである。頭の中では結論が出ているのに、それを口にすることを恐れているような沈黙が続いた。
『…………まさか』
結論一つ出すのに、どれだけ沈黙を使っているのだか。鳶崎巳嗣は、自分で、ようやく、そこに辿り着くことを決意したようだ。
『父上が、介入したというのか』
「正解! 僕は社長含め飼い殺しにしたかったのに、辰君が門脇芹人を逃がした。後で手駒にするのかと思って見ていたけどそれもしない。ただ彼は、僕の思惑を外れて善意を発揮しただけ」
『……』
自分の父親の“善い”部分を聞かされたというのに、巳嗣の沈黙は重いものだった。格は、ますます、笑みを深める。
「それから、草壁の爺に鳶崎家が恩を売った話。残念ながら君のおかげで、あの爺は多原君に着いたみたいだけど、命を救われておいて数代で心変わりなんて、忠誠のちの字もない爺だね」
『……爺というのは』
「草壁玄四郎のことだよ。本当なら、十二年前に死ぬはずだったのに」
思わず、格は顔を歪めてしまう。これに至っては失態だ。十年前に草壁伊織を殺させることには成功したけれど、本命の爺はまだ、生きさらばえている。とっとと死ねばいいのに。
「おっと、これは口が滑ったね」
『十二年前は、貴方が死んだ年か』
すぐにぱっとそれを思いつくあたり、さすがは鳶崎の後継者だ。勿体ない話である。木偶の棒を操り人形にしたところで、人形は人形だとバレてしまうというわけだ。
それを、鳶崎辰も考えていたのだろう。激昂したとはいえ、島崎昢弥は、たいへんな情報を寄越してくれたものである。まさかわざわざ、格に最後のピースを寄越してくれるなんて!
「鳶崎辰は、僕の思惑を外れて人を救っている。これを善性と呼ばずして何と呼ぼうか?」
『……』
鳶崎ロジスティクスも、草壁のことも。調べればわかることだ。鳶崎巳嗣は、自ずとこちらへ堕ちてくる。
なぜなら。
「そう。鳶崎辰は、鳶崎家の当主でありながら、基本的に善の性質を持っているんだ」
巳嗣が無言なのを良いことに、格は畳み掛ける。
「だからこそ、僕は鳶崎辰の人間性を鑑みて……君の元に妹を付けるのを良しとした理由を解せなかった。かわいいかわいい一人息子が、利用されて死んでいくのを許容するとは思っていなかったからね。まさかまさか」
一息置いて。
「あの鳶崎辰の優しさが、息子にだけ適用されないなんて、誰が思うだろうか!」
なぜなら。
鳶崎巳嗣は、思い知ったからである。救いなどは無いと。鳶崎辰は、すべてに優しくないのではなく、例外的に、巳嗣にだけ優しくないのだと!
そしてそれは、全てを諦め切っていた少年に、小さな小さな、火をつける。
彼の中では、「なぜ自分だけ」という気持ちが渦巻いているだろう。本当にそう思う。かわいそうだなぁ。赤の他人には優しさを発揮しておきながら、自分の息子にだけはその優しさを振り撒いてやらない。
ーー同じ父親として、理解しかねる。
自分の子供は自分の意志を継ぐ最高傑作であり代弁者である。大切にしてやらないといけないと決まっているだろうに。
「さて、もう一度聞くよ巳嗣くん。君は、この舞台から降りるかな?」
『ーー降りない。私は、最後まで突き進む。父の興した会社を潰し、どうせ死ぬんだったら』
追い詰められた人間は、死に、意味を見出したがるものだ。
『父の足を引っ張って死ぬ。多原貴陽が何を考えているかはわからないが、アレの力は借りない。借りたくない』
「よく言った。それでこそ、芝ヶ崎の男だ」
ーーまあ、芝ヶ崎の男ってどんなものか知らないけど、誉めておけばいっか。
あまり自己肯定感を低めると、死を早められかねない。
「巳嗣くん、娘のところに行ってごらん」
アシストはしておいた。我が最高傑作は、鳶崎巳嗣という操り人形と、綺麗に踊ってくれるはずだ。糸のついた操り人形に、さも、糸がついていないかのように。
「じゃあ、検討を祈るよ」
電話を切って、くすくす笑い出す。
「さすがは貴陽君だ! 此の期においてもなお、巳嗣くんの意思に関わってくるとはね!」
正直、父親への憎しみだけ残ると思っていたのに、多原貴陽は、崖っぷちで見事に、鳶崎巳嗣の精神に引っかかっている。
「まあ、それは当然といえば当然か……だって巳嗣くん、君は」
善い人間は、嫌いだろう?
芝ヶ崎令は、どちらかというと、巳嗣のことを、拒否していた。
手を繋ぐこともやんわりと断っていたのに、それなのに。
「巳嗣さん、手を、繋ぎましょうか」
頬を赤らめて、自分から手を繋いでくる。
ーー誰だ、この人は。
巳嗣は、一瞬固まった。おずおずと手を繋いで、二人して、本家の庭を、ゆっくりと歩く。
「どういった風の吹き回しですか」
「どういった、とは?」
「あ、なたは、多原貴陽のことが気になっていたはずです。何かといえば、アレの、あの少年のことばかりーー」
足が止まる。俯いた巳嗣の両手を、冷たい手をした令が両手で包んだ。それは、慈愛の笑みに見えた。薄い唇の端を、少しだけ持ち上げて。
「確かに私は、多原貴陽のことが気になっています。あの子は、芝ヶ崎に来てから、心無い言葉を投げつけられてきましたから……ええ、巳嗣さん。今の貴方のような顔をしていました」
だから、手を繋ごうと思ったのですと、芝ヶ崎令は言う。
巳嗣は、彼女の父親の言葉を理解した。
鳶崎の後継者として驕っていた頃には見えなかった景色。弱者の景色。
「落ち込まないでください。私は、味方ですから」
巳嗣は、こくりと、令の言葉に頷いてーー
そして、彼女の父親はひとりごちる。
「善い人間は嫌いだから、令のことを信じてしまうんだ」




