芝ヶ崎式
巳嗣は、今まで勘違いをしていた。
『流石は巳嗣様ですわ』
美しく病的な女……御霊は、ことあるごとに巳嗣のことを誉めそやす。巳嗣は、御霊のその言葉に嫌悪感を覚え、雑に扱っていた。どうして、誉められているのに嫌悪感を覚えていたのか。
巳嗣はこれまで、その理由を、自身のプライドの高さに求めてきた。すなわち、御霊ごときが、自分を誉めるなどというのは不敬だ。ことあるごとに誉めるのは、巳嗣の能力を低く見積もっているからだ……と言った具合に。
だが。
ーー違った。
あの、味方など誰もいなかった臨時株主総会の日。芝ヶ崎格に殺されかけた日。巳嗣は、その嫌悪感の正体を突き止めたのだ。
「……」
「あら、どうしましたの? 巳嗣様」
彼女は、巳嗣の心に秘めた疑心さえも感じ取ったようだった。巳嗣はせめてもの抵抗で、自ら制服のネクタイを解いた。そうすれば、御霊に首元を触られることはない。
そう、嫌悪感の正体は、恐怖であった。巳嗣を誉めそやすことによって、つけ上がらせる、コントロールしようとする。一見従順なように見えて、常に、巳嗣の首を絞めようとしているこの女のことが、巳嗣は、怖くて、嫌いだった。
ーーだが、気付くのが遅すぎた。
巳嗣は、すでに一曲、踊り終えている自覚がある。あとはもう、全てが終わるまで、踊るしかないのだ。芝ヶ崎格という、たった一人の観客が飽きるまで。
「大丈夫ですよ、巳嗣様」
ところで巳嗣には母がいない。母は、巳嗣が幼い頃に死んでしまった。だから、御霊は、巳嗣の母代わりでもあったのである。
「……触るな……っ」
御霊を拒絶する巳嗣。だが、刷り込まれてしまった母の愛は、巳嗣に安らぎを与えてくれた。あんなにも許したくなかった首元に、ほっそりとした腕が回ると、無条件に副交感神経が刺激される感じがした。
やっと気付いた感情とは裏腹に、巳嗣の体は安心感に包まれてしまっていたのだ。
「全部全部、お兄様の言う通りにしていれば、うまく行きます」
「女狐が、正体を表したな」
吐き捨てる言葉は、案外弱々しい。薄々気付いていた。この女が、巳嗣の愛する女と重なって見える理由を……血のつながりを。隠していたそれを今明かしたのは、巳嗣が、もう後戻りできないことをわかっているからだ。
御霊、いや、芝ヶ崎式は、巳嗣の威嚇をくすりと笑っていなしてしまう。どころか。
「だって、巳嗣くんは、自分がどういう運命を辿るか、もうわかったんでしょ?」
諭すような、宥めるような声。巳嗣は目を見開いた。これが、この女の素というわけか。式は、巳嗣の顔の横で。闇を閉じ込めた目を柔らかく細める。
「お馬鹿な巳嗣くんでも、鳶崎物商が倒産することは理解してるよね? 葉山林檎がいくら策を講じようとも、貴方のお父様が切り捨てた鳶崎ロジスティクスの力を借りようとも、現在の物流問題がそうさせないことは、理解してるはず」
「……」
「ね、やることはわかるよね巳嗣くん? どうせ、生きてたって汚名がついて回るだけなんだから」
瞬間、巳嗣の口の中に、指が捩じ込まれる。
「駄目だよ巳嗣くん。今死んだら、本当の役立たずで終わっちゃうよ?」
自分の指を巳嗣の歯に当てながら、式は、軽やかに笑った。
「あはは、痛い痛い。ね、結婚式前に、傷害罪で逮捕されたい? 鳶崎の名に泥を塗って、お父様からまた失望されたい?」
唾液という証拠。巳嗣は、自分の舌どころか、式の指さえ傷付けることができないのである。
「惨めだよねぇ、でも、十七年前にお兄様が味わった屈辱に比べれば、巳嗣くんの屈辱なんて、このくらいだよ?」
表情を一切消して。芝ヶ崎式は、右手の親指と人差し指で、巳嗣の屈辱とやらを表現してみせる。
「動機は、多原亘への復讐か? 演説事件を再来させようというのか」
言って、巳嗣は思わず笑ってしまう。
「何がおかしいの?」
「いや」
別に、復讐を笑ったわけではない。ありし日に、令に鎮痛な面持ちで語った内容を、笑ったのだ。
自らの父が死に追い込まれた可哀想な少女に阿った言葉。
死者だからこそ、芝ヶ崎格は善性があった。それが生きていたとなれば、全てが陳腐と化してしまう。巳嗣の言葉は、空虚さそのものだったのだ。
すっかり機嫌を悪くした式は、半眼になる。
「確かに、多原亘への復讐もある。だけど、お兄様は、どちらかというと、貴陽くんへの関心が強いみたい」
「だから執拗に、多原貴陽への憎しみを私に植え付けたというわけか」
巳嗣は、式の腕を払った。障子を開ければ、そこには、冬の薄暗闇が待っていた。
「どちらに行くのですか?」
口調が戻った式に苛々としながらも、巳嗣は強引に笑みを作った。
「ならば、お前たちの思惑を壊すまでだ」
表向きは、多原がやったことについての詰問、本当の目的は、悪あがきである。
「ひえっ、お客様っ、鳶崎さん!」
「お客様……?」
相変わらず、どこもかしこも癇に障る人間である。令のことがなくとも、巳嗣はきっと……。
通学路で捕まえた多原は、相変わらず、おどおどとしていた。こんなのの、どこが良いんだか。
ーー駄目だ。
皮肉な話だが、多原貴陽は、現在操られつつある巳嗣の突破口になるかもしれない人間である。巳嗣は、できるだけ自然に、右腕を挙げた。
「やあ、元気かい多原くん」
後ろに立っている、監視役の式が噴き出す気配がした。巳嗣はこめかみに青筋を浮かべた。多原は直立不動で、カクカクとしたお辞儀をした。
「げ、げ、元気です。鳶崎さんこそ、ご機嫌麗しゅう!」
「別に麗しくはないが」
見たらわかるだろう、巳嗣は最高潮に機嫌が悪い。
「……」
「……」
会話が続かない。多原に、芝ヶ崎の何もかもを話してやろうと思ったのに、巳嗣の口は、いっこうにその形にならない。
ーーなぜだ。
また、プライドか? こんな奴に媚び諂うことを、良しとしないのか?
ーーだが、この男は、鳶崎ロジスティクスの門脇氏を説得した。
わざわざ、式が教えてくれたことだ。まるで多原に頼れとでも言うように。けれど、巳嗣は多原には頼れない。なぜ?
自問自答。掴みかけている糸が、するりと、手の中から離れていく。そのもどかしさに、巳嗣は、多原の肩に手をかけてしまう。
「い、痛いです」
「お前は、何がしたいんだ!?」
巳嗣を突き動かしていたのは、「なぜ」という疑問だった。わざわざ、亡霊を訪ねて、なぜこの男は、巳嗣のことを助けようとしている!?
理解不能だった。こちらは殺そうとしたのに、あちらはおそらく、巳嗣を救おうとしている。意趣返しのつもりか?
なぜ、なぜ。
「あの、爪! 爪が!」
「爪なんてどうでも良いだろうが!」
「はい……」
巳嗣の剣幕に、多原はしゅんとしてしまう。それがまた、巳嗣の頭に血を昇らせる。なにを素直にこっちの言うことを聞いているんだ。こちらの手を払うなり、
「そこまでにしておけよ。鳶崎の出来損ない」
物陰から出てきた、殺意を瞳に湛えたこの男のように。
「あれ、島崎。いたんだ」
「いたんだって、お前なぁ」
巳嗣を拒絶すれば、いいだけの話なのに。




