空白
「そうですか……賢明なご判断に感謝いたします」
そう言って、橿屋は電話を切った。誰もいない部屋。しばらく無言を貫き、天井の照明を眺め、それから壁に掛かっている絵画を見て、最後に物言わぬ電話を見下ろして。
「はぁ〜っ」
とても深いため息を吐いた。椅子にずるずるともたれかかり、目を閉じる。
「別にお嬢様のモンじゃないんだけどさぁ〜、手放すと決めた時にこれって……はぁ〜」
喜ばしいことなのだが、ため息の方が先に出てしまう。
橿屋の通話相手は、某県にある株式会社コンティネンタル・ラインの社長、門脇芹人だ。知る人ぞ知る、鳶崎ロジスティクスの元社長。
一回目の電話で、橿屋は初手、門脇を脅迫した。脅迫と言っても、常識の範囲内。「これから貴方の会社を買収しますが、貴方にできることは何もありません」といった内容を、硬い口調で、一切の反論の余地なく伝えただけである。
友好か、敵対かで言えば、後者だった。門脇は、鳶崎ロジスティクスの急な廃業で、鳶崎に恨みを持っていることは想像できたし、また、権力者への反感が強いことも想像できた。
ということで、初手脅迫の道を、林檎と橿屋は選んだのである。交渉の余地などはないと判断して。
それが、どうだろうか。
二回目の電話。他ならぬ門脇芹人本人から掛かってきた電話では一転、買収を受け入れるという内容だった。一回目と違い、門脇の口調は柔らかで、諦めとは違う何かを感じ取れもした。
さて、門脇の短時間での心変わりは、一体なにが原因かというと。
橿屋は、指でトントンとメモ帳を叩く。メモするのもどうかと思う内容である。そこにはこう書いてあるーー『多原君を危険に晒さないこと』。なんと、門脇の心変わりには、あの少年が関与していたのである。
あの短時間で、一体どんな魔法を使ったんだか。
そりゃ、敵対的よりも友好的な買収の方が都合が良いのは確かだ。だが、それを。お嬢様が諦めようとしている少年がしたとなると、複雑な感情にもなろうものである。
「別に、友人関係でも良いと思うが。そう思わないか?」
「関係を断つことこそが罪滅ぼしということかと思われます」
ドアを開けて入ってきた葉村は、すぐに何のことかを把握したようだ。橿屋が無言で見せたメモに目を見開いたのは一瞬で、次の瞬間には、瞳に納得の色が浮かんでいた。
「なるほど、多原様らしいですね」
「らしい、ねぇ……」
そんな言葉で片付けて良いものなのだろうか。
「先方が買収にあたってつけてきた、たった一つの条件が、“多原君を危険に晒さないこと”だぞ。心変わりなら百歩千歩譲ってわからないでもないが、何がどうして条件にまで食い込んでくるんだよ」
勿論、橿屋はそれを呑んだ。そんなのは、こちらとしては前提も前提。贖罪をする相手に何かあったら、林檎お嬢様から笑顔が失われてしまう。
「そ、そそ、そうですか。多原さ、あっ多原君が門脇社長の説得をしてくださったのですね」
多原の生命がどうか以前に、林檎からは、動揺のあまり笑顔が失われつつあった。橿屋は新鮮な気持ちでそれを見る。と、同時に。
ーー林檎お嬢様にこんな顔をさせられるんだから、門脇社長の翻意くらいは朝飯前か。
と、妙な納得感に襲われるのであった。
林檎は、こほんと咳払い。葉山の顔になる。
「コンティネンタル・ラインは、非上場企業であり、買収には少々強引な手段を使わざるを得ないと思っていたので、門脇氏が友好的な態度になったのは良いことです。これなら間に合いそうですね」
「はい。あとは周囲を騙しつつ、計画を進めていくだけですが……問題は」
橿屋と林檎の視線は、黙って二人の話を聞く葉村へと注がれていた。
「こちらの考えを、芝ヶ崎格がどの程度把握しているか」
「辰君には、門脇元社長も本社に入れろって、お父様を通して言ったんだけどねえ」
薄暗い蔵の中。芝ヶ崎格は、扉の向こうにいる妹に、愚痴っぽく言った。
「人質なんて甘いことを言ってないで、まとめて殺しておけば良かったのに、放逐なんかするから……」
「草壁の一件といい、今の鳶崎家の当主は、肝心なところでお兄様の意図から外れた行動をしますわね」
「そうなんだよ、獅子身中の虫とは彼のことだ。息子の巳嗣君は、可愛いくらいに愚かなのに」
「私が手塩にかけて育て上げましたから」
いっそ自負さえ感じる妹の声に、格は苦笑する。本当に、妹は良い仕事をしてくれたが……。
ーー辰君が、この子を巳嗣君に付けるのを許可した理由が気になるんだよなぁ。
鳶崎辰は、何かを勘づいて、わざと本家の命……格の命とは違う行動をしている。それなのに、自身の息子に関しては、すんなりと、こちら側の意向を受け入れた。
まさか、表面上の理由(兄に加担した妹の身を人目から隠すため)に騙されたわけがあるまいし。それでいて息子の情操教育なんかしている気配がないし。謎の人間性である。この芝ヶ崎格をもってしても、理解できそうにない。
「巳嗣君の様子は相変わらず?」
「ええ。令様との結婚に浮かれて、もうすぐ会社が傾くなどとは夢にも思っていない様子です」
「……みんな、巳嗣君くらいにわかりやすかったら良いのになぁ。ああ、それも式の教育の賜物だったね」
「お褒めいただき光栄ですわ」
うっとりとした声が返ってくる。そのうち、妹を探す巳嗣の声が聞こえてきた。
「さて、情報整理といこうか」
各所から送られてくる情報。大体、誰が何を考えているのか、格にはわかっているのだが、どうにも腑に落ちないことがある。
ああ、門脇を多原が説得したのは、「ああ、そうだろうな」という感想だ。同時、葉山が今になって門脇に接触し、TOBを実現しようとしているのは、鳶崎を貶めるためではなく、鳶崎を救うためと考察できる。なにせ、放っておいたら鳶崎は勝手に自滅していくんだから。
それが、門脇に接触した。つまり、葉山もまた、門脇と同じように心変わりをしているというわけだ。
「恩を売る方にシフトした可能性も考えられるが……それにしても、貴陽君と連携がとれていない……」
仮に連携が取れていたのなら、多原がわざわざ門脇に会いに行く理由がない。全てを葉山に任せればいい話である。まあ、あの少年に限っては、自分で説得しに行くとか言いそうだけれど。
「だから、葉山は独断で動いたというわけだ」
つまり。
「貴陽君に、鳶崎ロジスティクスのことを教えた人間は、律である可能性が高い」
多原が芝ヶ崎本家に来た日である。一度は追い払ったらしいが、鳶崎ロジスティクスの社長を知る人間は限られている。それと、多原の人間関係を照らし合わせれば、自ずと答えは出てくるというわけだ。
と、ここまでは、今ある情報をまとめあげて推察できるわけだが、ここから先が空白なのである。
「問題は、誰が貴陽君に、鳶崎物商倒産までのストーリーを教えたか……」
一番に考えられるのは、それも自分の息子……律が教えたことであるが、その可能性は低い。なぜなら、律にとって、鳶崎を救済するメリットは無に等しく、むしろ鳶崎巳嗣が滅ばなければ、自分が滅びる羽目になる。下手したら、当主の座を巳嗣に奪われかねない。
「あの子は聞かれるまでは黙っていたと考えたほうが自然だ。だから、貴陽君に倒産の話をしたのは、別の人物ということになる……」
おそらく、鳶崎物商内部の誰か。最悪巳嗣ということも考えられるが、彼のプライドの高さからして、多原に頭を下げることは考えにくい。
「僕の信者を除外して、候補は、芝ヶ崎かそうでないかの二択。後者だと脅しようがあるけれど、ここまで尻尾を掴ませないとなると前者かな」
スマホを取り出して、格は、通話相手にいくつかの苗字を挙げた。
その中には、彼が死にいたらしめた人間の苗字も含まれていた。




