物流部の幽霊
「お前、どうしてうちの物流部が冷遇されているか、知っているか?」
暗く澱んだ空気の物流部。初日に低俗な嫌がらせをしてきた同僚は、最近、桜一郎に敵意ともなんともつかない表情で話しかけてくるようになった。
桜一郎としては、過剰在庫をできるだけなくすため、営業部と、それから、少し前まで所属していた品質管理部に働きかけ、それから物流の勉強をする毎日。同僚とは、必要最低限の会話しかしないつもりだったのだが。
どうも、敵意がない人間が、自分は苦手らしい。おかげで、キーボードを打つ手を止めてしまった。それは、おそらく、桜一郎以外もそう。その瞬間には、全ての音が、物流部から消えていた。
ーータブーだ。
桜一郎は、瞬時に察した。浮かない顔の同僚は、タブーを犯そうとしている。桜一郎は、意図的な笑みを浮かべる。
「さあ、私にはさっぱり。ですが、日本企業において物流がノン・コアと見做されていたことと関係があるのでは?」
「今もその傾向はあるけどな。というか、そこまで言ったなら答えを出せよ」
「……鳶崎ロジスティクスですね」
同僚は頷いた。だが、桜一郎は腑に落ちない。
おそらく、同僚が言いたいのはこうだ。
かつて、鳶崎物商は、経済不況の折、子会社である鳶崎ロジスティクスを真っ先に切った。それが、物流軽視の風潮を作りあげ、今日までの物流部冷遇の流れを作り上げてしまった。
物流子会社ができた頃は、芝ヶ崎のことだ、おそらく“家”の関係にまで波及し、本社の物流部も幅を利かせていたことが容易く想像できる。そして今、しっぺ返しを食らっている、と、考えることができるのだが……。
ーーそんな情報が、この空気を作り上げるとは思えない。
そんなのはタブーじゃない。よくあることだ。
「そうだ。鳶崎ロジスティクスだよ」
なので、桜一郎は、同僚の言葉を待った。
「かつて解体された鳶崎ロジスティクスの社員の大半は、鳶崎物商の物流部に配属されたんだ」
「……は?」
ーーなるほど、これが、タブーか。
呆気にとられる桜一郎には目もくれず、同僚は、ここでようやく目線を外し、ちらりと物流部内を見渡した。
「もうここに、かつての社員はいねえけどな。つまり、物流部が冷遇されていたのは、子会社廃止の間接的影響による物流軽視じゃなく。鳶崎ロジスティクス社員の墓場だったからだよ……はぁー」
同僚は、大きな息を吐いた。
「言っちまった」
「どうして私にそのようなことを?」
「それは教えたくない。とにかく、鳶崎ロジスティクスは表面上は縮小されて、うちの物流部に統合された。これは温情采配だと当初はもてはやされた。だがお前にはわかるだろ? これは、飼い殺しだ」
解雇よりも残酷な方法。
鳶崎ロジスティクスは失敗だった。その看板を背負わされながら、この牢獄で、元鳶崎ロジスティクスの社員は人生を無駄にさせられた。
「当時、鳶崎ロジスティクスの事業は実験だった。社員も芝ヶ崎関係者ではない人間が選ばれていた。そんな奴らが、芝ヶ崎関係者がうようよいる本社に配属されたらどうなるか……想像はつくよな?」
芝ヶ崎の同僚は、自嘲気味だった。それは、彼が、彼らにどのような態度をとったのかをあらわしている。
「この物流部には、幽霊が出たとしてもおかしくない」
勿論そんなことを信じているわけではないのだろう、同僚は。彼は懺悔をしているだけだ。
桜一郎は、それを無感動に聞いていた。かつての鳶崎ロジスティクスの“先輩”達とコネクションがあれば良かったものを、無下に扱っていたようなので、この同僚は使えそうにない。
それは、暑い夏の日のことだった。
御三家の芝ヶ崎。その系列の鳶崎の運営する企業の子会社の社長をしていた俺は、道端に落ちている蝉の死骸を、ぼうっと見つめていた。
世間は経済不況。真っ先に切られたのは物流だった。物流はインソーシングではなくアウトソーシングへと逆戻り。
蝉の死骸は、時間をかけて解体されていった。羽や足がもぎ取られていく。俺の会社が、俺の社員達が。何もできないようにされて、この先の人生を無為に過ごすように強制される。
「……お前も生きたかったろうに」
つい、蝉に同情してしまう。がむしゃらに働いていた頃は、そんなことはなかったのに。
俺は死骸が解体されるのを完全に見送って、立ち上がった。そして振り返った。そこには、もう一つの死骸がある。
「お前も、生きたかったろうに」
ペンキの剥げた看板には、こう書いてあるーー『株式会社 鳶崎ロジスティクス』。俺の夢の残骸だ。
「俺はな、ほっとしてるんだ。ようやく、報いを受けるんだなって」
「どういうことですか?」
「惚けるなよ。この会社はもうすぐ終わる。自分が見放した物流によって」
心の中で、桜一郎は舌打ちした。
派手に動きすぎたか。だが、時間がなさすぎる。隠蔽をおこなう余裕は、桜一郎にはない。
ーーこれは、あの人にも筒抜けと考えた方が良いな。
かつて本当に、芝ヶ崎と、それ以外を終わりへと導こうとした人間を思い浮かべる。
ーーけれど、僕が派手に動けば、目を逸らすことはできるかもしれない。
それこそ、地を這う蟻の足掻きだと思ってくれるのかもしれない。
それと共に、すんなりと終わりを迎えようとする同僚にも腹が立った。自分を罰してくれるのが、自分が蔑んだ“先輩”ではなく、その先輩の怨念とは。どこまでも芝ヶ崎らしいプライドの高さである。
彼が今、終わりを望んでいるのは、ようやく自分を説得できたからだ。
ーープライドが高い人間は、簡単に死のうとする。
だからこそ、桜一郎は「残念だったな」と、芝ヶ崎特有の悪意で、同僚の希望を打ち砕く。
励ますように、元気付けるように。
「安心してください。物流部の幽霊は、もうすぐ退治されますよ」
あの少年によって。




