巫女とカラスとおじさん
姫榊の葉が、ざわめいている。
「貴方の願い、承りました」
白衣に緋袴を身につけた少女は、風に弄ばれた射干玉の髪を、耳にかけた。
齢十六だというのに、ずいぶんと艶やかなその仕草に、私は息を呑む。艶やかさだけではない、彼女は、とても恐ろしい存在に見えた。
彼女の力は強大だ。彼女を囲って、永遠に続く栄華を手に入れようとした人間もいた。が、皆、いなくなっていく。その人間として、ニュースに乗ることができれば幸い、ひどい時には、肉も骨も残さずに消え失せたりするという。
彼女に手を出さないこと。それが条件だ。あとは、邪魔者達よりも多くの金を払っていれば、確実な成果を得ることができる。
それにしても。
「私が払った代金は、雨宮よりも多いものでしたか?」
「いいえ、雨宮様は、貴方様よりも大きな額を支払われました」
やはり。雨宮は、私より先にここを頼んだ。それなのに、採用されたのは、金額の小さな私の方。
「私の願いに、有益な情報でも入っていましたか?」
「それ以上は、いけません」
非榊の枝から、カラスが飛び立つ。やけにうるさいカラス達は、自分の意志を持っているのだろうか、私たちの頭上を、綺麗な輪を描いて旋回した。
ぎゃあぎゃあと、まるで悲鳴のような声を上げながら、カラスは私たちの頭上から退こうとしない。
「お帰りください、天罰が当たる前に」
「そうしましょう。ですが、最後に一つ。どうしても、お尋ねしたいことが」
「何でしょう」
「貴方は、ご自分の願いを叶えることはできるのですか?」
「さあ、どうでしょうか?」
カラス達が、一斉に地に降り立とうとするのを見て、私は、急いで鳥居を潜った。
「ひどい汗です。何があったのですか?」
自分のハンカチだけでは足りなかった。ハンカチを渡してくれた秘書の言葉に、私は、どう説明しようかと迷った。
「行ってくれ」
運転手に命じる。一刻も早く、ここを離れたかった。窓の景色が動き出し、カラスが見えなくなってから、私は、秘書に説明した。
「巫女様は、私が雨宮よりも多くの金額を払ったわけではないことを仰っていた」
「ですが」
「呼ばれたのは私だった。私の願いの中に、彼女にとって有益な情報が入っていたらしい」
「有益な情報ですか? 彼女の代理に話した内容ですと、雨宮議員は政治資金規正法に反く行為をしていて」
「それは私も同じだろう」
「裏金を……これも同じでした」
「そう言われるとそうだが、私は雨宮とは違う」
「だとすると、苦し紛れでいれた、男子高校生への暴行でしょうか」
「向こうが私をどう言ったかはわからないが、それしか考えられないな」
私は、行儀悪くも、頭の後ろで手を組んだ。
あの漆崎が、今更男子高校生ごときで動くだろうか? 政界財界に根を蔓延らせ、影の支配者とまで言われている漆崎が、そんな情で動くなど。
「はは、あり得ないな」
それを笑い飛ばしたと同時、
「止めてくれ」
歩道を歩いている彼を見つけて、私は運転手に命じた。
「君、怪我は大丈夫なのかね?」
そうやって訊くと、少年は、きょとんとして。
「どちら様ですか?」
と少し首を傾げた後、「あーあの時の!」と、顔がぱっと明るくなった。
「その節は、どうもありがとうございました。スーツを着てるからわからなかったけど、あの時のおじさんだったんですね!」
雨宮に路地裏で突き飛ばされた少年は、無邪気に笑った。どこにでもいる、普通の少年だ。まさかこの少年が決め手ではあるまい。後ろから少年を覗き込んでいる秘書からも、そういった安堵に似た何かを感じた。
「帰ってから両親に見てもらったんですけど、怪我も何にもしてなかったみたいです。あのおじさんは元気ですか?」
「あのおじさん、とは?」
「俺にぶつかってきた、スパイごっこしてたおじさんです。ええと、雨宮さん?」
どんな認識をしてるんだ。そう思う私をよそに、少年はうんうんと頷く。
「あの路地裏、雰囲気ありましたからね。闇の職業ごっこするにはもってこいだったから、定員オーバーしちゃったんですね」
「あの、宗像先生? お話しされていた内容と、随分違うようですが」
「そのようだな」
私は困惑した。
雨宮がマスコミを撒くために入った路地裏で少年を突き飛ばした、というのが事実。だが、少年の認識は少々変わっていたらしい。
被害者意識のない少年の話は、なおも続く。
「おじさん、雨宮さんと知り合いっぽいし、謝っておいてもらっていいですか? あと、宗像さんっていうんですね!」
「ああ、そうだ。私の名前は」
私は、懐から名刺を取り出した。この少年の誤解が解けた時、さらに雨宮を追い詰めるために必要になるだろう……。
「あっ」
その時だ。
私と少年の間を、黒い影が横切っていく。
「カラス……」
まさか、そんなことあるまい。そう思っているうちに、先ほどのカラスが舞い降りて来て、少年の左肩に留まった。
円な瞳で、甘えるような鳴き声をあげる。
「お前にもわかるのか、闇の住人の匂いが」
ふっ、と笑う少年は、右手の人差し指で、うりうりとカラスを可愛がる。カラスはしばらく目を閉じてうっとりした後、少年の手に名刺を残して飛び去っていった。
「粋な演出ですね」
「いや、演出ではないんだが……」
「あれ、おじさん国会議員さんなんですか」
名刺を見て、やっと私の正体に気付いた少年は、目を丸くし。
「じゃあ、こんな辺鄙な町に来たのは、漆崎神社目当てで?」
「そんなに有名なのかね、あの神社は」
「そりゃあもう。政治家さんから経営者さんまで、漆崎を頼んで来る人は多いですからね。でも、気をつけた方が良いですよ。あの子、怒らせたらすごく怖いらしいから」
「あの子?」
妙に砕けた言い方だ。
「漆崎神社の巫女さんです。気に入らない奴に片っ端から天罰降らせるとは聞いてたんですけど。俺なんか、中学の頃変に怒らせちゃったみたいで、変なお札が送られてきて」
「変なお札?」
「表は真っ白なんですけど、裏に変な文字と、他言無用って書いてある紙なんですよ……あっ言っちゃったもう終わりだ。今のところ、何にも起きてないんですけど」
「待て、それはまさか」
漆崎神社で巫女に願い事を頼むには、まず、一口百万で、願い事を書く札を購入する。その札に書かれている文字は、“他言無用”。
「それが、十枚一束で送られてきて。よっぽど嫌われてるんですよ、俺」
少年が顔を青くするのにあわせて、私も顔を青くした。先ほどのカラスに、一枚百万する札が十枚。間違いない、漆崎神社の巫女が私の依頼を受けたのは。
「君は、お祓いに行った方が良いかもしれないね」
「ですよね。あの子に土下座して頼んでみます」
「いや、違う神社に……」
人と話して、こんなに疲れることは久しぶりだ。
「もし良かったら、私の知り合いがやっている神社が」
カア。
カラスの鳴き声が聞こえて、私は車から乗り上げて頭上を見た。先ほどのカラスが、私を睥睨していた。言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。
「君、名前は?」